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「神の前に心を注ぎ出せ」2022.8.28
 詩編 62編2~13節

 今日はこの詩編62編から、神の前に心を注ぎ出すことを私たちは教えられています。この62編を学ぶということは、私たちもまた、祈りにおいてこの道を辿ってゆくことです。   1.沈黙してただ神に向かう  初めの2、3節と、6、7節は多少の違いはありますが、似たような言葉が繰り返されています。言わば折り返し句のようになっています。その冒頭、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」と語ります。単に「わたしは」というのではなく、「わたしの魂は」ということで少し客観的に自分のことを見ているという印象を受けます。つまり、作者が今このように言葉を連ねて書いている、ということは言ってみれば沈黙している状態ではなく、沈黙している状態を思い返して書いている、と見ることができるからです。文字通り沈黙していた時には何も語らず、書かず、思いを巡らして心の中で祈りをささげ、或いは感謝を献げていたのでしょう。  しかし、「魂は」と言っていることを考えると言葉を口から発しないと言うだけではないこともわかります。口では黙っていても、心の中であれこれとぶつぶつ呟いていることはあり得ます。魂を沈黙させるとは、そういったいろいろな心の中の思いも静めておくことです。これは私たち人間には案外難しいことかもしれません。しかし、あえて言葉にしないで神の前にへりくだる心でそこにいる、というのです。沈黙していても、神に心を向けるのではなく、この後何をするか、など今日の予定が気になってしまうのも私たちではないでしょうか。何かしなければいけないことがある、誰かに会わねばならない、今日中にこれだけは片付けておきたい、など、神様以外のものであれば、実に多くのものが私たちの中にも、周りにもあります。今日のようにあらゆる情報手段が発達していて見からも耳からも雑多な情報が否応なしに入り込んでくる時代では、一層この作者が言っているような沈黙が必要なのです。  そしてなぜそうなのか、といえば神に私の救いはあるからであり、神にのみ私の希望があるからです。六節では、沈黙してただ神に向かえ、と自分に命じていますが自分の魂にあえて命じる必要があるほど、私たちは意識的にそれをする必要があるわけです。そこに救いと希望がある。そこにこそ私たちは心を向かわせるべきです。しかしこの世にはそれを邪魔するものがいくらでもあるので、現代に生きる私たちは

「イエスは命である」2022.8.21
ヨハネによる福音書 14章1~14節

 イエスは、道であり、真理であり、命である。道、真理について、2回にわたり学びました。3つ目のこと、イエスは命である。今日はこの御言葉を与えられています。この3つのことは切り離せないものではありますが、特に命、と言われた時に、主イエスは何を言おうとしておられたのか、そして私たちにとって、主イエスが命である、ということは、何であるのか。これを教えられています。   1.父なる神と御子イエス  私たちはみな、生まれた時に命を与えられたということを知っています。子どもの頃は、小さな昆虫にも、魚にも、動物にも、命があるのだ、ということを教えられます。そして小さな虫をつぶしてしまうと動かなくなる、ということを知ります。それはつまり命あるものは死ぬということを学びます。そうしてやがて人間も死ぬことを目の当りにするようになるわけです。しかしまた別の機会に、体が死んでも魂とか霊魂と呼ばれるものがある、ということを聞くようになり、人が死んでも天国がある、というようなことも聞くようになります。そして年齢が進むと今度は、益々あの世について強く考えることも知ります。体が死んでも終わりがないのだ、という考えです。  そういう中で、では、命とは何だろうか、ということも考えるようになるかも知れません。生物学的、医学的にその説明はできるのでしょうが、私たちは今、神の御言葉に聞こうとしています。天の神は何と言っておられるのか。私たちに命を与えてくださったと言われる神はどうお語りになっているのでしょうか。そのことを私たちはイエス・キリストから聞きます。なぜならイエスは神の御子であり、主イエス・キリストが語られることは即ち、神が語られることだからです。天の神は私たちに、その御子イエス・キリストを通してお語りになります。  それでここで主イエスが言われることは、イエス御自身を通らなければ、父なる神のもとに行くことができないということでした(6節)。言い換えれば、イエスによらなければ神を知ることはできない、神に至ることもできない、というのです。しかしイエスを知り、イエスを見て、イエスを信じる者は神を知り、神を見て、神と共にいることができるのです。そして、そこにこそ本来の命があります。  神の御子イエスは、「わたしのうちに父がおり、父がわたしの内におられる」と言われます。父なる神と御子イエスとは一体

「その時、主の言葉があった」 2022.8.14
列王記上 19章1~18節

 この世界も、そこで起こる全ての出来事も、一切は主の御言葉によって始まり、現実に起こります。それだけではなく、私たちの身の回りでも、私たち自身の中でも、主の御言葉が与えられ、その御力によって私たちの内に神の御心が実現して行きます。今日は、預言者エリヤに対して主が与えられた御言葉から、そのことを教えられています。   1.預言者エリヤの苦しみ  預言者エリヤは、紀元前9世紀、イスラエルの王アハブの悪行を指摘し、主の御言葉を力強く告げ知らせました。偶像神バアルの預言者たちと戦い、たった一人で立ち向かい、主の御力によって打ち勝ちました。それを知ったアハブ王に命を狙われていることを知ったエリヤは、恐れて直ちに逃げます。あれほどまでに主の力を見せていただいたエリヤなのに、この恐がりようはなぜであろうか、と思いたくなります。しかし、預言者エリヤとてやはり人間であり、絶大な権力を誇る王に命を狙われていると知って、恐れずにはいられなかったのが現実でした。主の奇跡を目の前で見せていただいた預言者でさえこのような恐れを人に対して抱くということを通して、私たちはいくら信仰があっても目の前に現れる、命を脅かす力に対して恐れずにはいられない人間の姿を見せつけられていると言えます。  エリヤは、もう十分です、と言います。バアルの預言者たちとの戦いで大きな働きをしたのですが、心身共に相当な労力を費やしていたはずです。主の御力によって働いてきたといっても、当人はやはり限りある人間です。エリヤは自分の命を取ってください、つまり、もうこの世での働きを終わりにさせてください、と願うのです。主を信じる者は、自分の命は主が与えてくださったものだから自分から通常それを断ち切るということをしようとはしません。だから、あまりに苦しい時、このエリヤのように、主にそれを願うことはありうるわけです。何らかの仕方でもう自分がこのようにいなくてもよいようにしてください、と。これは、何らかのことに追いつめられた経験のある人は、共感できることかもしれません。   2.エリヤを力づけるもの  このような願いを主に訴えたエリヤでしたが、そのまま眠ってしまいました。疲れ切って、祈りを終えてすぐに眠ってしまったのでしょう。すると主の御使いがパン菓子と水を与えてくれ、エリヤはそれを食べ、水を飲んでまた横になります。主は、エリヤ

「イエスは真理である」 2022.8.7
ヨハネによる福音書 14章1~7節

 主イエス・キリストは、御自身のことを道であり、真理であり、命である、と言われました。これはかつて人間が語った言葉としては、自分のことをこれ以上に高いものとして述べた者はないと言ってよいと思います。自分のことを神である、ということと同じほど重みのある言葉ではないでしょうか。そして普通の人間はこんなことを決して語ることはできないし、語ってはいけない言葉でもあります。このような言葉を語る人は、本当にそれが当てはまるのか、それとも意識的に人を引き付けようとして嘘をついているのか、あるいは、まじめに思い込んでいるだけなのか、それらのどれかになるでしょう。しかしイエス・キリストはこのような言葉を語ることができました。そしてそれを自覚しておられ、真実にそれが当てはまる方として御自分のことをお語りになれる方だったのです。   1.真理を探究しようとする人間  これまで、人類の歴史の中で世界中にいろいろな人が登場して、自分を何か偉い者や、特別な存在であったり特殊な能力を持っていたりする者として世の人々に現してきました。特にいわゆる新興宗教の教祖と呼ばれる人たちがそうでした。自分が特別な存在であると人に思わせて、従わせ、そして自分の考えていることを実行させるのですが、それにより社会的に多大の悪影響を与える、人の命を奪う、大損害を与えたりします。そういうことを命じる教祖のもとで、なぜそのような行動に突き進んでしまうのか、ととても疑問に思いますが、それにはそれなりの理由はあるのだと思います。その理由と言っても、一般的には納得できないものになるでしょうが。そういったことについて研究している専門家はもちろんおられるわけですが、私たちは、聖書の示す主なる神のもとで、それらの事も受け止める必要があります。  一つ言えることは、人は真理を求めるものであり、特に真理探究に心が向く人、世の中に不満があり、何とかしたい人、いろいろあるでしょうが、やはりそれは旧約聖書コヘレトの言葉にあるように、神が「永遠を思う心を人に与えられ」たからです(コヘレト3章11節)。永遠を思う心を与えられたということは、単にいつまでも生きていたいというだけではなく、この世界や人の世、あるいは空の星を眺めて宇宙の果てを思うなど、つまり真理を求めている、ということになるわけです。目の前のもの、存在しているものについて、調べた