「神の言葉が心に記される」 2023.10.15
エレミヤ書 31章31~40節

 私たちには旧約聖書と新約聖書が与えられています。この2つは、初めて聖書を手にした人にとっては、何の違いがあるのか分からないと思います。しかし段々と教会で聖書の話を聞いて行く内に、イエス・キリストを中心として、イエスの誕生前は旧約、イエスがお生まれになってからは新約、という大変大雑把な区別を知ったかもしれません。そういう中で、このエレミヤ書では主がイスラエルとユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と言われています。この箇所は、旧約聖書中でも非常に重要な箇所です。新しい契約、とは、新約聖書の新約、つまり新しい契約です。ここでは、その契約を結ぶ日が来る、と言われており、来るべき日に主がイスラエルの家と結ぶ契約である、と言われています。この新しい契約とは、どういうもので、今日の私たちにとって、一体どういう意味があるのでしょうか。


1.新しい契約

 ここで主は、新しい契約をイスラエルと結ぶ、と言っておられますが、新しいものがあるなら当然、古い契約もあるわけです。新しい契約は新約、古い契約は旧約です。古いものと新しいもの、何が違うのか、ということですが、契約というと、この世では通常、当事者同士が一定の条件のもとで結ぶ約束で、それは両者がそれぞれの立場で納得して結びます。神とイスラエルの間にも、契約が結ばれました。この世の契約は、普通は双方がある条件のもとで約束を交わします。雇う側は一定金額を支払う約束をしますが、雇われた側はそれに見合う働きをして成果を上げねばなりません。雇われる側は、その条件が気に入らなければ、契約を結びません。人間同士ではそうですが、神とイスラエルの場合は違います。イスラエル、つまり人間の側は、神が結ぼうとされる契約は嫌だから、その条件では契約しないという選択肢はありませんでした。神が一方的に結ぶ契約で、人間には、それを拒む選択肢はなかったのです。

 契約とは、その当時者同士の関係を映し出しています。神とイスラエルの間では、神が主導権を握っています。そして神が与える条件のもとで、人がそれを守るかどうかが問題でした。


2.神の民の心に主なる神の律法が記される

 神とイスラエルの場合、どうでしょうか。主なる神は、十戒を代表とする律法を与えてこれを守るようにお命じになりました。戒めを守れば祝福、破れば呪い、という厳しいものです。実は人間は神の前に既に罪を犯して罪のある性質を担う者となっています。ですから、言ってみれば初めから人間は神の戒めをきちんと守れない者でした。しかし、神はいきなり戒めを守れと言ったのではなく、エジプトで奴隷となっていた状態から救い出したので、その感謝の表れとして戒めを守れと言われたのでした。それがこの契約の独特な点です。しかし、ではイスラエルの人々はそれをちゃんと行えたのかというと、やはり守れませんでした。感謝のしるしとして戒めを守ることすらできなかったのです。それでも神は、イスラエルの人々を導き、この世で必要なものを与え、養ってくださいました。そして、イスラエルの人々の内にある罪、神に背いてしまう悪事を償い、赦す道を与えてくださったのでした。それが旧約聖書の律法にたくさん記されているいろいろな償いのための儀式です。いろんな場面でも罪の償いが想定されていて、こういう罪にはこの献げ物、この場合には、この供え物というように、細かく定められていて、民が罪を犯した時にはその都度、それに従って犠牲の献げ物を献げれば、赦していただけたのです。これが旧約です。ところが、人は何回も罪を犯します。するとその都度献げ物が必要です。それは、動物などの犠牲の献げ物では、人間の罪を完全に償うことができないからです。それでその都度献げ物が必要ですし、年に一度は民全体のために罪の償いの儀式が必要になったのでした。動物の犠牲では、人間の罪を償い切ることはできないからです。それで主なる神は、今度は人の心に律法の戒めを記して、人が主を知れ、戒めを守れ、と外から言わなくても守れるようにする、と言われました。人の心の内に神の戒めが記されるのですから、もう外からこれを守れ、あれを守れ、と口を酸っぱくして言う必要がなくなる、というわけです。心に記されているのですから。

 では今の私たちの状態はどうでしょうか。十戒を代表とする戒めを与えられている人間はやはりそれを自力で完全には守れません。しかしそれでは人間はいつまでたっても自力で神の戒めを守り切ることができません。だから完全な、罪の償いが必要です。それで、唯一度神の御子である罪のないイエス・キリストが罪の償いを十字架で成し遂げてくださったのでした。本来罪の報いとして死なねばならないはずの私たちに代わって罪のない神の御子が償いをしてくださいました。ですから、唯一度だけ主イエスが十字架に架かって死ぬことにより、私たちの罪は償われました。


3.主は民の悪も罪も赦してくださる

 しかし、まだ問題は残っています。では今の私たちはイエス・キリストを信じたなら、もう兄弟姉妹同士で主を知れ、と言って教え合う必要はないのでしょうか。律法が心に記されているから、もうその必要はないのでしょうか。どうも今の私たちは、まだそこまで行ってはいないと言えます。ということは、ここで言われている「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と言われている約束は、まだ完成の途上にあるのでしょうか。 

 隣人同士、兄弟同士、主を知れ、と言って教える必要がないなら、今日の教会で牧師が講壇に立って、聖書を説き明かし、主はこういう方です、主を知りましょう、主イエスはこういう素晴らしいことをしてくださいました、と何度も何度も説教する必要はなくなるはずです。しかし今日の教会では、まだそこまで言っていないように思えます。ではここで言われている新しい契約を結ぶと言われた日は、まだこの世に到来していないのでしょうか。実はそれもまた違うと言わねばなりません。神は、新しい契約を、やはりイエス・キリストによって、私たちに対して結んでくださいました。だから主イエスを信じた人は、この神の新しい契約、新しい約束の中に入れられていて、その完成に向けて歩み出しています。聖霊が信仰を起こし、主イエスを信じるように導いて心の内に主イエスへの信仰を起こし、神の御子キリストこそ救い主である、という信仰による罪の赦しを保証する道へと招き入れてくださいました。

 それが新しい契約です。そこでは大きい者も小さい者も「主を知れ」、といって教えなくても良くなります。そうやって主なる神は、御自分の民を新しい契約の中に招き入れてくださいました。ですが、まだ完成には至っていないので、兄弟どうし「主を知れ」と言って互いに教え合い主を知るように励まし合う必要があります。しかし同時に確かに信仰によって歩み始めた人は、その心の内に神の聖霊がいてくださるので、外から主を知れといって教えなくても信仰があります。心の中に確かに神の言葉、神の律法が記されているのです。しかしまだ完成には至っていませんから、主の日ごとに礼拝を行い、神の御言葉を何度も何度も教えられ、共に励まし合う必要もあるのです。

 そのように、未完成の状態ですが、主イエスを信じてその罪の償いの御業に与った人は、罪の赦しが約束され、保証されているので、救いを獲得しています。神はその者の罪を赦し、再びその罪を心に留めることがないのもまた事実です。確かに私たちはこの世ではまだ罪を犯し、それを繰り返してしまいます。それでも主は私たちの罪を赦し、その赦しを撤回することはありません。なぜなら完全な罪の償いを神の御子、罪のない聖なる方、イエス・キリストが、成し遂げてくださったからです。これが新しい契約で明らかになりました。今、この世で救い主イエス・キリストを罪からの救い主、自分の罪の贖い主と信じて受け入れ従う人には、罪の赦しが約束され、保証されています。たとえこの世にいる間に過ちを犯してしまうとしてもです。ただし、常に真剣な罪の悔い改めは必要です。主を知る者は、罪を悲しみます。平気で罪を犯せなくなります。平気で嘘をつけなくなります。主に対して申し訳ないからです。主を知った者は、この世では、罪のゆえに悲しみ、苦しみます。自分の罪をより深く認識するからです。自分は主イエスを信じて信仰深い、清い人間になって、もはや主を信じない他の人々とは違うのだ、と思うとしたら、それは思い上がりです。しかし同時に、これほど罪ある者でも、主イエスの十字架の償いによって罪を赦し、清めていただいているとは何と有難いことか、という感謝も持っています。主イエスが、私たちの罪を担い、償ってくださったので、もはや神が私たちの罪に心を留めることがありません。それは寛大な心で罪を見逃してくれるということではなく、完全な償いがなされたので、もはや罰する必要がないのです。

 そのような恵みに与った人は、永遠に絶えることなく主の民とされています(36節)。そしてたとえ主が造り、定められた宇宙にある天体が無秩序な動きを始めるようなことがあったとしても、ご自分の民を拒むことはないと言われるのです。それは、天が計測され、地の基が究められるようなことがない限り、起こり得ません。そして主は御自分の民の都を聖別し、そこに集められた者は、もはや決して抜かれることはなく、神の民の住む都はとこしえに決して破壊されることはないのです。

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