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「全ての人を照らす真の光」2019.8.11
 ヨハネによる福音書1章1~18節

私たちの信じる主イエス・キリストは、初めから神と共におられる「言」(ことば)=ロゴスとも呼ばれるお方であり、神と共にあったお方であり、神であられます。ギリシャの世界で、宇宙を成り立たせている理性、というような意味で用いられるロゴスという言葉を用いて、ヨハネはキリストのことを示そうとしていたのでした。そのことをヨハネはこの福音書の冒頭でまずはっきりと書きました。すでにマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書において、イエスが語られたり、なさったりしたことは記されてきました。ヨハネは改めてそれら三つの福音書と同じような書き方をせずに、イエスというお方が本来どのようなお方であり、その方が何をなさったのか、という点を前面に出して、信徒たちの信仰を確かなものにしたいと考え、また書き残すことで、後々にも読者たちにイエスが人となられた独り子なる神であることを明らかにしているのです。 1.万物を造った言 この、「言」と呼ばれているお方は、11節、14節を見れば私たちの住むこの世に人としてお生まれになったイエス・キリストを指していることは明らかです。ですから、この3節で言われていることは、イエス・キリストについて言われていることなのです。イエスは万物の創造に携わられた方です。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった、とヨハネは断言しています。ヨハネは人間ですから、もちろん神が万物を創造された時に、そこにいて立ち会ったわけではありません。そんなことは人にできるはずもありません。ヨハネがこうして、自分の生まれるはるか以前のことを書けるのは、万物を造られた言なる方が、ヨハネに明らかにされたからです。この世に存在しているすべてのものは神がお造りになりました。キリストはその神である、と言っているわけで、これからヨハネが書いていこうとしているイエス・キリストのことを、万物を成り立たせている神、として表わしているのです。 言によらずになったものは何一つなかった、ということは、イエスを神の御子、救い主と信じている私たちにとって、大変大事なことを教えています。今この世に生きていると、私たちの身の周りにはありとあらゆることが起きてきます。自分のことだけでなく、自分以外の人々と世の中には、実に様々なことが常に起こっています。体の中に起こることもあれば、自然現象として起こることも種々ありま

「初めに言があった」2019.8.4
 ヨハネによる福音書 1章1~18節

新約聖書の初めにおかれている4つの福音書の内、普通第四福音書とも呼ばれるヨハネによる福音書の御言葉に聞こうとしています。この福音書について、紀元2世紀のイレナエウスという、フランスのリヨンで教会の司教の務めについていた人が、2世紀の終わり近く(180年以後)に書いたある書物の中で書いています。「主の弟子で、またその胸に寄り掛かったヨハネもアシアのエフェソにいたとき、福音書を公にした」(異端駁論Ⅲ-1-1)。主イエスの12弟子の一人、使徒ヨハネが、一世紀後半の終わり近い時代に書いたものとされています。この福音書自体が、最後の所で著者の自己紹介をしており、それによると使徒ヨハネであることが明らかにされています(ヨハネ21章20~24節)。ほかの3つの福音書とは明らかに書き方が違っています。他の三つを共観福音書と呼びます。ある共通した観点から書かれているからです。イエスの語られた御言葉、なさったことをある程度の短いまとまりの中で語り、ガリラヤでの宣教、エルサレムでの出来事、と語ってゆきます。ヨハネによる福音書は、むしろイエスのなさったことを主題に沿ってまとめていくような書き方であり、イエスが人となられた神の御子、神ご自身であられることを読者に示そうとしています。イエスのなさった、「しるし」を順に示していく、という形もとっています。また、イエスが語られた説話が長い文章で書き記されている、という特徴もあります。日本語で普通に読んでいて、その違いがわかります。主イエスのそばにいつもいた弟子のヨハネが、その晩年になってから、イエスのなさったこと、語られた御言葉を深くかみしめながら書き記している、そういうものです。そして、今日この福音書を読み、特に教会でこの福音書から礼拝で語られる時に、私たちは今なお聞くべき神の御言葉が私たちに向かって語られている、ということをまずよく覚えておきたいと思います。決して難しい神学の問題を議論するために私たちはこの福音書を与えられているわけではありません。 1.神の言(=ロゴス)としてのキリスト このヨハネによる福音書には、マタイやルカにある、イエスの誕生物語がありません。しかしヨハネは、イエスについて語り始めるにあたり、その人としての誕生からではなく、神としての存在について語り始めます。そして、ヨハネがイエスのことを語るにあたり、選んだ1つの言

「愛は死のように強い」2019.7.28
 雅歌 8章4~7節

 愛とは何か。この問いは古今東西、多くの文学、芸術、哲学、宗教などのテーマとなってきたものです。愛とは何か、という答えが出るかどうかはともかく、今日朗読した雅歌の一節のように、愛はどのようなものか、ということもまた数限りなく問われ、語られてきたことではないでしょうか。今日は、旧約聖書の中でも特に異彩を放つと言ってもいいくらいの、この「雅歌」という書物の一節を通して、私たちは神の御心を聞こうとしています。 1.雅歌という書物 この雅歌という書物は、愛について歌っていることは明らかです。しかし、どのような愛について語っているのか、ということは古来いろいろに解釈されてきました。雅歌は文字通りの男女の愛について歌っているのだ、という理解もあれば、これは神と人との愛を比喩的に歌っているのだ、という理解もあります。もう少しひねった解釈もあるようですが、古来、おもにこの二つの解釈がなされてきました。一つ言えることは、この雅歌も聖書に入れられていることです。それは、神の権威ある御言葉として教会が受け入れてきたことを示します。男女の愛の歌か、神と人との愛の歌か、という解釈の違いはあるとしても、この雅歌という書物が、神の権威ある御言葉として私たちが聞くべきものとして与えられている、ということです。 なぜ神と人との愛を比喩的に歌ったものだと理解するかというと、ここで描き出されている肉体的、性的な描写を払拭して、それらを賛美するのではなく、あくまで神と人との愛の素晴しさを歌っているのだ、と考えたからです。聖書の預言書の中にも、神と人との愛を、夫婦の間に譬えて語っているホセア書などがあり、そこではイスラエルを花嫁に、神をその夫に譬えています。キリスト教会では、神を花婿、教会を花嫁にたとえるということになります。それだからこそこの書物も聖書の中に入れられている、ということに根拠を求めるのです。 しかし、そうではなく、あくまでも人間の男と女の愛を歌っている、という理解が一方にあります。男女の愛ももとは神から来ているのであり、創世記の人間の創造の記事に立ち戻れば、神は、男は父母を離れて女と一体になる、と言われているのですから(2章24節)、男女の夫、妻としての関係は神がお定めになった秩序の下にあり、産めよ、増えよ、地に満ちよ(同1章28節)、と言われた神の御心に適うことであり、そのもとに