「尊ぶべき神の御名」 2023.6.25
詩編 74編1~23節

 私たちは自分に名前があることをある時知ります。自覚するより前に、名前を呼ばれていてそれが自分に対するよびかけや、語りかけであることをいつの間にか知っています。そして段々と自分の名前の意味や名づけの由来なども知るようになります。そして誰でも、自分の名前を変な風に呼ばれたり、からかわれたりすると不愉快になると思います。やはりそれは、名前はその人そのものを表わすのであって、名前を軽んじることは、その人を軽んじる、と言うことだからです。今日は、そういう人間の名前ではなく、人間に名前を与えてくださっている神様のお名前について語っているこの詩編七四編から、神の御名を尊ぶことについて教えられています。


1.神の羊の群れとされた民

 神様は、ご自分の民を羊として養い、ご自身は羊飼いとして民を導いて来られました。エジプトの奴隷の地から、モーセをお立てになって救い出してくださったことは、イスラエルの人々が永久に語り継ぐべきことでした。そしてこのことは、イスラエルの人々にとっては、民族としての誇りでもあり、もろもろの国々と自分たちとは違うのだということを自覚していました。

 しかし、今この作者のいる状況では、イスラエルは他の国によって踏み荒らされ、エルサレムの聖所は廃墟とされてしまっています。そのような中から神様に救いを求めているこの詩から、特に神の御名を尊ぶという点に目を留め、今日の私たちの時代においても、神様の御名が尊ばれるべきことを教えられます。しかしながら、この私たちの国と時代状況において、神様の御名そのものが知られていない、ということもまた事実です。

 さて、まず11節までで、主への問いかけが続きます。エルサレムが永遠の廃墟となってしまった、という表現から、おそらくバビロン帝国の侵略によって、エルサレムが陥落し、町と神殿が焼き払われてしまった時、紀元前6世紀の前半のことだと思われます。エルサレムを滅ぼした軍隊は、イスラエルの神、主の聖所を焼き払ったのですから、自分たちの神がイスラエルの神よりも強いのだと思っていたことでしょう。しかし、この作者は、違う見方をしています。

 主がその民を突き放してしまったのです。それは永遠にと言われているように、いつまでも続くように見え、神様はもうイスラエルを顧みてくれないように見えます。しかしこれは詩の文章であって、こういう表現がなされているからといって、厳密な意味での永遠ということではありません。もしそうなら、イスラエルには全く救われる可能性がなく、この作者が主に祈り願っていることも何の意味もなくなります。しかし、そうではないからこそ、主に伺いを立て、懸命に願っているのです。主は、今は手を引いて懐に入れてしまっているように見えますが(11節)、必ずその御手を振るって、主の羊であるイスラエルを助けてくださり救ってくださると信じているのです。


2.今は預言者もいません  しかし状況は深刻で、イスラエルのためのしるしは見えません。これまでイスラエルには預言者がいて、今後どうなるかを主の御名によって語り、民を導いてきました。今はその預言者もいないと言っています。旧約聖書では、最後に置かれているマラキ書が時代的にも一番下ってきていると思われます。では、そのマラキもすでにいなくて、文字通り新約聖書の時代に入るまでの中間時代なのかというと、そういうわけではありません。紀元前6世紀のバビロン捕囚のあと、バビロンからペルシャに支配が変わり、キュロス王がイスラエルの帰還命令を出してくれます。そして、旧約聖書でいうとハガイやゼカリヤという預言者たちや、祭司エズラ、総督ネヘミヤといった人々が登場します。ですから、「今は預言者もいません」というのは、神様の救いを述べる預言者が途絶えてしまったように見えて、今後どうなってゆくのか、先が見えない、という不安を感じて発している言葉です。イスラエルがバビロンに滅ぼされてしまったころ、ちょうど預言者エレミヤが活動していましたが、彼はエジプトへ連れられて行ってしまい、その後の足取りは分からなくなってしまいました。

 こんな状況の中ですが、作者は決して希望を失いません。12節以下、この人の信仰が明らかになってゆきます。まず、17節までで、大自然の中で示された主の御力について歌います。13、14節には、竜とかレビヤタンと言われています。レビヤタンはおもに詩的な文章の中で登場する海の怪物のようなもので、神の偉大な創造の御業を示す場合にも登場します。時には、アッシリア(イザヤ27章1節)やエジプトの象徴として用いられることもあります。ここで言われているのは明らかにイスラエルの民を荒野まで追いかけて来たけれども、主によって海で滅ぼされたエジプトの軍隊のことで、竜も同じです。

 主は紅海の水を分け、ヨルダン川の水をせき止めてイスラエルを横断させてくださいました。そればかりでなく天体も、主の御心のままに存在しています。主は昼も夜もともに司っておられます。人の住む国々の境も、季節の区別を造られたのも主です。その種がお選びになったイスラエルが他の国によって虐げられています。それは即ち主の御名が侮られていることなのです。

 今まで触れずにきましたが、主の御名が侮られていることを御心に留めてください、という願いがこの作者の心にあります。神の御名について、この詩の中には何度も語られています。「御名の置かれた所」(7節)、「敵は永久にあなたの御名を侮るのでしょうか」(10節、18節も同様)、「貧しい人、乏しい人が御名を賛美することができるように」(21節)。

 この作者とて、なぜ主がその民に怒りを向けておられるかを知らないわけではないでしょう。他の詩編をみても、あるいは預言者の言葉を見ても、イスラエルがバビロンによって滅ぼされたのは民が主に従わなかった罪の故であることは明らかです。ではこの74編の作者はそのことを棚に上げているのかというとそういうわけではありません。イスラエルの罪について知っていますし、主がイスラエルを懲らしめておられるのも知っています。しかし、神を知らぬ民が神の御名を侮り、嘲るのが耐え難いことなのです。そして、民の中にいる、弱き者、主により頼むしかない者を御心に留めてください、と願っています。敵は主に歯向かっているからです。


3.主の御名によって呼ばれている

 ですから、ここには、主の御名を非常に尊ぶ信仰があることがわかります。イスラエルは神の御名によって呼ばれている者です(エレミヤ14章9節)。今日では、それはほかでもない、私たちクリスチャンであります。主の御名によって呼ばれている者、それがクリスチャンです。キリストに属する者です(使徒言行録11章26節)。

 私たちはまず自分たちが主の御名によって呼ばれているものであることを第一に心に留めましょう。それは、主イエスが天にお昇りになる前にお命じになったように、父と子と聖霊の御名による(御名に入れる)洗礼を授けられているからです。その洗礼は、主イエスの十字架の贖いよって成り立っているものです。つまり、罪のない主の流された血によって私たちの罪が洗い清められるからです。

 三位一体の神様の御名に入れられ、私たちと神様との仲介者である人となられた神の御子キリストに属する者とされている。これがキリスト者、クリスチャンです。そうであるならば、クリスチャンはまず主の御名を賛美する者であります。21節で、虐げられた人、貧しい人、乏しい人がみなを賛美することができますように、と祈っています。人は過酷な状況に置かれた時に、神を賛美することができなくなるでしょうか。パウロは囚われて獄に入れられていた時、シラスと共に神を賛美していました(使徒言行録16章25節)。

 この神の御名は私たちを救うことができます(詩編54編3節)。また、主イエスは弟子たちについて言われました。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」(ヨハネ17章12節)。私たちは主の御名によって守られているものです。それは、私たちの目には肉眼で見るようには見えないかもしれませんが、信仰によって見ることができます。また、主の御名のために旅に出た人もいます(Ⅲヨハネ7節)。私たちもこの世では、主の御名のために旅を続けています。このような歩みをするよう召された者は、自分の名誉を求める必要はありません。自分をよく見せる必要もありません。ただ、主の御名が自分によって辱められないようにすることは必要です。罪深い者を恵みによって救ってくださる主に感謝し、御名をほめたたえるものとしていただくよう祈りましょう。私のために神がいるのではなく、神のために私は存在し、生かされていることを感謝しましょう。

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