「命の水を汲むところ」2023.8.13
 雅歌 4章9節~5章1節

 旧約聖書には、多くの書物がありますが、その内、この雅歌とエステル記には「神」という言葉がでてきません。それでも、エステル記には背後に神の見えない御手の導きがあることをうかがわせる出来事があり、信仰を持つ読者が読むと、そこには神の導きがあるということがわかるのです。しかしこの雅歌の場合、エステル記とは違って、神の摂理的な御手の導きを特に読み取れるというわけでもなく、もっぱら男女の愛とその行方について述べていると言えます。それで、この雅歌をどのように解釈し、理解したらよいのか、ということが議論されてきました。細かいことはここでは、述べませんが、男女の愛を歌っている、という文字通りの意味に理解してお話をします。そして、この雅歌において神が何を私たちにお語りになっているのであろうか、ということを共に学びたいと願っています。


1.雅歌が聖書の中にある事実

 雅歌に神の御名が書かれていないと言っても、この書物はユダヤ人の中で、神の言葉として、聖書として受け入れられてずっと読まれてきました。キリスト教会においても、神の言葉として受け入れられ、読まれてきました。また主イエス御自身が、律法と預言者と詩編という旧約聖書全体を示す言葉を用いて、創世記からマラキ書までを当たり前のように聖書として受け入れておられたのでした。もっとも、主イエスはヘブライ語の聖書に基づいて語っておられ、その順番では、創世記から始まって歴代誌で終わります。キリスト教会は、ギリシャ語に訳された旧約聖書の順番に倣って配列しているのです。いずれにしても、私たちにとって、この雅歌は神の御言葉として私たちに伝えられているものであって、私たちもまた、ここに神の御心が示されている書物として読み、聞き、学び、信じるのです。


2.愛するものよ、愛に酔え

 今日の朗読箇所は、登場人物の若者が愛する恋人を花嫁と呼んでいます。二人は結婚することになる男女です。「妹よ」と呼んでいますが、文字通りの妹ではなく、同じ一族に属する親族か、或いは友情を示すものだと思われます。

 雅歌の言葉は、若い愛し合う男女が相手の美しさをいろいろに描写し、言葉を尽して褒めそやしていますので、読んでいるとなんだか気恥しくなると思う人もいるかもしれません。また、何十年も結婚生活を送って来られた人にとっては、この雅歌で描かれているような男女の様子は、たとえ愛し合っている二人であっても、ほんの一時期の若いうちのことだ、と言われるかもしれません。

 また、雅歌の中には、結構露骨な描写もあります。そういう点などを考えてみると、この雅歌が聖書に入れられているのは、どうしてなのだろう、という疑問が出てくるのも致し方のないことなのかも知れません。聖書は、その主題、中心的なテーマとして、イエス・キリストにおいて現された神の愛を語ります。そしてそれによって私たちを罪から救い、やがて栄光の内に完成される神の国について述べています。そして神は私たち人間との生き生きした交わり、つまり神の愛の内に私たちが永遠の命をいただいて生きることを望んでおられると言えます。

 では、この世での生活、この世での人の人生、社会での生活、人と人との間のことはどうなのでしょうか。雅歌は、そのようなこの世での人間の生活、しかも男女の愛について描き出すものです。もっとも、今日では人と人との愛の形というものが男と女とにだけ限定されずに、同性間でもそれがあるのだ、ということが当然のごとく言われる時代になって来ています。これについては、今日の主題ではないのですが、今日のこの雅歌の知るところは、ここでは一組の男女の愛し合う者同士がその愛を喜び歌っている、という姿です。

 それを描き出すのに、実に様々な植物などをあげてそれらになぞらえてすばらしさを歌っています。「レバノンの香り」は、レバノン杉など香りの高い樹木が多い所から来ています。「ざくろの森」という表現によって、たくさんの美しくおいしい果物を示します。「ナルド」はインド産の香油、「コフェル」は葡萄に似た房をつけるそうで、その葉から染料を作って女性はそれを化粧に使ったということです。「サフラン」、「菖蒲」、「シナモン」、「乳香」、「ミルラ」、「アロエ」などはみな良い香りのする植物です。

 およそ、この世に存在する良い香りのするものを皆集めてきたかのようです。今日朗読された箇所の最後には、「友よ食べよ、友よ飲め。愛する者よ、愛に酔え」という言葉も並びます。友と楽しく食べたり飲んだりする。そして愛に酔うほどに愛する者への愛に没頭する様が描かれます。しかし世の中のことをいろいろと見て来た人ならば、若い時にはそれで良いけれども、人の世はそんな楽しく食べたり飲んだりしてばかりいられないのだ、第一、そんなに呑気に宴を開いて楽しんいたり、そんな愛に溺れていてよいのか、と思われる向きもあるかもしれません。


3.命の水を汲むところ

 世界中にいろいろな恋愛を歌った歌はあるでしょう。日本にも万葉集以来、短歌などは恋の歌がたくさんあります。そういう貴族階級が恋の歌など詠んでいる間にも、農民は汗水垂らして働いているではないか。呑気に恋愛に身を任せて愛に酔っているばかりでよいものか。それは人の世の実像を映していない、と言ったらよいのでしょうか。例えば世の中が段々きな臭くなってきて、内外を問わず戦いが起こってくると、それが題材にされた歌も詠まれるようになります。反戦歌や、家族を奪われ殺された悲しみを歌い上げる歌も作られるでしょう。

 実際、旧約聖書の詩編には、命を狙われていて神に助けを求める叫びを歌っているものもあります。人を貶め、辱め、痛めつけ、殺そうとする者さえいます。命の危険を感じている切迫感もあります。そういう詩に比べると、この雅歌で歌われている様子は、何とものどかで平和な感じです。世の中での人の暮らしは、確かにそのようなのどかな、平和な時間はあったとしても僅かな時間かもしれません。しかし、愛し合う者が、他者に邪魔されずにその関係を育むことができるなら、それは実は喜ばしいことのはずです。

先ほど見たように、「友よ食べよ、友よ飲め」と安心して言えるような世の中の状態であれば、それは人にとって良いことです。そしていろいろな良い香りのする植物によって気持ちをやわらげ、楽しめるなら、それは悪いことではありません。そのように人に癒しや心地良さを与えるもの自体も、神がお造りになったのですから。そしてもちろん、一組の愛し合う者同士が結婚すること、夫婦になること、それは主なる神が人間を創造なさって定められたことです。私たちはそのことをまずよく覚えたいと思います。

 それで、4章15節に戻って「園の泉は命の泉を汲むところ」という言葉に目を留めます。花嫁と共にいることは、命の水を汲む園の泉のもとにいるようなものなのです。今日、世の中は実に様々な物が溢れており、目や耳を奪い、人の心も奪い尽そうとするものが周りに満ちています。そして神をあがめる者であっても、世の中にあるいろいろなものによって振り回されています。そういう中でも、私たちは時に立ち止まり、この雅歌にあるような一見浮世離れしているようなのどかな平和な状況というものも、決して絵空事ではなく、実は神がお造りになったこの世界とそこに生きる人間にとってとても大事なものであることを忘れないようにしたいと思います。

 そして私たちには、主なる神が、決して朽ちず、なくならない、永遠の祝福をもって命の水を汲ませてくださいます。そのために命の水を天からもたらしてくださる救い主がおられます。ここに描き出されているような愛する者たちの姿は確かに若くて、燃え上がっている僅かな時間かもしれません。「あなたの愛は美しく、あなたの愛は快い」(10節)という言葉も、もうとてもとても口にするには気恥しい、という方が多いと思います。しかしそういう愛があることによって、決して朽ちず色褪せない愛が神のもとから私たちに注がれていることを覚えます。神の御子イエス・キリストにおいて表された神の愛に根を下ろして生きる人は、この世での愛が映し出している愛の大元である神を見上げて、その内に歩み、永遠の命の水を常にいただいて、生きるように召されているのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節