「聖書が示す人生観・世界観」2023.5.28
 使徒言行録 17章22~34節

 私たちがこの世を生きていく上で、どのような世界観を持っているかということはとても大事なことです。はっきりした世界観、つまりこの世界はなぜこのようになっているのだろうか、そして人はなぜこの世に生まれて来て生活し、人生を送って行くのだろうか、という問題です。そしてどういう世界観を持っているかによって、その人の人生観も違ってきます。今日は、私たちに対して、人生観、世界観について示している聖書の教えに聞きたいと思います。


1.知られざる神に

 イエス・キリストの使徒パウロがギリシャのアテネで宣教活動をしていた時のことです。パウロは、アテネの西の方にあるアレオパゴスと呼ばれる丘で語っています。ここにはアテネの最高法廷があり、哲学者たちが集まって議論する場になっていました。その様子は16~21節に書かれています。

 パウロはアテネで、人々が拝んでいるいろいろなものを見かけました。その中に『知られざる神に』と刻まれている祭壇があったのでした。人々が拝むいろいろなものがあるのは日本でもよく見かける情景です。時には、一つの家の中に、神棚と仏壇が両方あるかもしれません。一寸地方に行って、町中を歩けば道祖神とか、祠とか、いわゆるお地蔵さんとかがあります。パウロはアテネの町の様子を見て、人々の信仰心があつい、と言っています。日本の場合どうでしょう。新年は神社に初詣、結婚式はキリスト教式によりどこかのホテルで、七五三は神社で、葬式は仏教で、という人もいそうです。それは信仰心があついからでしょうか。どうもそうではなく、逆のように見えます。特別な信仰心がないからいろいろな宗教を形だけ行うようになってしまうのだと思います。パウロがアテネの人々のことを信仰があつい、と言ったのは、少し相手を持ち上げているような感じがしますが、人々が、拝まれていない神々がいたとしたらまずいのではないか、つまり罰を受けるのではないか、と考えて、そのようにしたからだと思われます。

 パウロは信仰があつい、と言いましたが、このような姿勢で神を拝むのは、どうも窮屈な感じがします。そういう考え方はあちらこちらにあるのではないでしょうか。祟りや呪いを恐れる、という態度です。パウロは、そのような人々に対して、知らずに拝んでいるものを知らせましょう、と言います。ここでのパウロの言葉は、今日の日本に生きている私たちも、耳を傾けるべき語りかけだと思います。というのも、私たちのこの日本では、天地とその中の万物を造った神とか、手で作った神殿には住まわれない、というのは、聞き慣れないことだからです。

 しかし、真の神は目に見えるものも見えないものもすべてを造られた方です。そして人の手によって何かをしてもらう必要はありません。人に必要なものを与えてくださるのが神なのです。人の命も息も、すべてです。人は自分の内にそれなりの知恵と知能がありますから、神を知らないと、神など人が作り出したものだ、と考えてしまう場合もあります。しかし、色々と複雑なことを深く考えられるのも、元をたどれば神からいただいた思考力のおかげです。


2.捜し求めさえすれば見出せる神

 この神は、人が神を捜し求めさえすれば見出せるお方です。この神を見出して生きることを神が望んでおられるのです。そのために神は何をされたのでしょうか。一人の人から全ての民族を造り出して地上の至る所に住まわせてそれぞれ人の住む居住地の境界線を定められたこと、そして季節を定められたことでした。今のこの世界がこのようになっている状態を私たちは見ています。しかし世界中にいろいろな民族があり、数多くのそれぞれの言語があり、国や地域ごとに住んでいる、ということは考えてみると不思議なことで、どうしてそうなっているのだろう、と思います。今のような形になっているのは、神がそのようにして人を分けて、各地に住まわせておられるからであり、また自然現象として季節の移り変わりを作り、植物の生育が進むようにされて人の食糧とされたからなのでした。

 しかしこのような考え方に反対する人は多いでしょう。今日では、あらゆることを科学的に説明することが普通で、神を信じるのは特殊なことと見る考え方があるように思えます。神がいるかどうか、その証明はできないのですから。しかし、聖書は、真の神の存在を告げています。今日の箇所には触れていませんが、神はただ一人であり、その神がすべてを造り、人を生かし、各地に住まわせ、季節の移り変わりを与え、必要なものを与えてくださっているのです。それに反対する場合、神がいるのかどうか証明できないのだからそれを受け入れるわけにはいかない、ということなのでしょう。しかし神は人に対して、この世界をよく見つめ、捜し求めるなら見いだせる、と言うのです。

 しかし、果たして、人間は今まで自力で神を捜し求めて神を見出したでしょうか。確かにここで使徒パウロは、神は、人が捜し求めさえすれば神を見出せるようにしておられると言っています。問題はそれを本当に人間の誰かができたのだろうか、ということです。旧約聖書には、神を信じて祈り、讃美をささげている人々の話がたくさんあります。神に語りかけられて、祈っている姿もあります。そういう人たちは、自ら捜し求めて神を見出したのでしょうか。神に逆らっている人々はもちろん、捜し求めようとはしません。逆に神を探し求めて呼び求めた人々がいるように見えます。ところがその人々は皆、神が御自身を現されたので、神を見出せたのでした。特に旧約聖書に記されている時代の人々に、神は直接語りかけたり、預言者たちによって語りかけたりされたので、人々は応答したのです。

 今日では、神はそのような仕方ではなく、聖書という書物を通して語っておられます。そしてそれを聞いた人々が神に心を向け、耳を傾けるように助けておられるのです。聖書はそこにただ置いてあるだけではただの書物です。それを開いて読み、理解しようとし、神を捜し求める者たちがいてこそ神の御言葉として働き、力を発揮し始めます。そして神は歴史の中で必ず神の言葉に聞こうとする人々を起こして来られたのでした。だから、今日でも、神を信じ、その言葉を聞こうとする者たちがいつもいるのです。


3.神は人が神に立ち帰ることを望んでおられる

 今日は、聖書が示す人生観・世界観という題をつけました。その世界観は、先ほどお話ししたように、天地の主である一人の神がおられて、すべてを造り、人に命を与え、世界中にいろいろな民族を造り出して住まわせておられるということです。そして季節も定めておられます。これに関連する箇所で次のような御言葉があります。

 「神である方、天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方、混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形づくられた方、主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない」(イザヤ書45章18節)。

 天地の主であり創造者である神が、この地を人の住む所として整えてくださったのです。私たち人間は、神が造られたこの大地の上に、たまたま生き物の中で一番発達した頭脳を持ち、言語を話すようになったのではありません。また、この地球の環境が、人間やいろいろな動物が生きていくのに偶々都合よくできていたから、生き物が増え広がったのではなく、神が、人や他の生き物にとって丁度良い環境を造られたから増えてくることができたのです。そして特に人の住む所として神が造られたのでした。もちろん自然災害があります。台風、それによる洪水、地震、雷、旱魃などなど。また人に害を与える毒のある生き物、植物などがあります。それでも人が生きていくための環境が整っていることには違いありません。

 しかし、最後にもう一つとても大事なことを聖書は教えています。それは、神はこの世界を、ただ人の住む所として人のためにより良く造られただけではありません。そこに生きる人間が、この世界をすべて造られたのは神であることを知って、神を知らずに生きてきたことを悔い改めて、心を神の方に向けて生きることを神は望んでおられるのです。それまで、人間が作った金、銀、石などで出来た神々などを拝んで来たことを悔い改めて、神お一人を信じ拝むようにと。今はどこにいる人でも皆悔い改めるように、神は人に命じておられます。そういう神の語りかけが聖書を通して与えられているのが私たち人間だというのです。そして、神は一人の人、イエス・キリストをお選びになってこの世にお遣わしになりました。この方は人となった神の御子でしたが、十字架に架かって私たちの罪の償いをしてくださり、十字架で死なれましたが神によって復活させられました。このキリストによって神が私たちを最終的に裁くことを示されたのです。私たちは、この方を信じより頼んで生きるようにと、神に命じられ、召されています。これが、聖書が私たちに示している人生観なのです。

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