「主が道を備えてくださる」 2023.6.18
箴言 16章1~9節

 私たちは、自分の将来についていろいろ思いを馳せることがあります。夢を描いたり、具体的な計画を立てたりしますが、人によって随分違うかもしれません。人によっては子どもの時代から自分は将来こういう職業に就きたいという願いがかなりはっきりしている人もいます。逆に就職しなければならない年齢になっても、自分が何をやりたいのかが良く分からない、という人もいることと思います。今日は、そのような人間の歩む道に、主なる神はどのように関わっておられるのか、ということをこの箴言から学びます。実はこのことは、6月の初めの日曜日に取り上げたことにつながる内容でもありますが、今日は特に、この16章9節の後半に目を留めたいと思います。


1.箴言の教えについて

 箴言は、いわゆる格言が集められているものですが、この題名となっている箴言という言葉は、原文のヘブライ語を他の言語に訳すのは大変難しいそうです。ですから、箴言も単に格言、という自分の抱いているイメージに閉じ込めないで考えられるのが良いと思います。

 全体は、ある程度の内容的なまとまりがありますが、例えば今日の一六章なども、何かを順番に論理的に述べて結論に至る、というようなものではありません。いろいろな格言が次々に述べられている印象があります。そういうものではありますが、それでも読んでいると、何となくあるテーマのもとに語っているのかな、ということも浮かび上がってくる面があります。今日の朗読箇所も、いくつかの言葉を拾い上げてみると、それが分かると思います。


2.主にどのように相対するか

 9節までで語っていることの中で、私たちが主に対してどのような姿勢や態度を取るかという点を述べている言葉がいくつかあります。自分の業を主にゆだねる(3節)、主を畏れる(6節)、主に喜ばれる道を歩む(7節)、などです。そして、主が答えるべき言葉を与えてくださる(1節)、とか私たちの精神を調べられる(2節)、或いは、私たちの高慢な心をいとわれる(5節)、とも言われています。

 この箴言は、神を知らされているユダヤの人々に語っているものですから、もともとイスラエルの主なる神の御言葉を聞いてきた人々に与えられたものです。それに対して、私たち日本人の殆どは聖書の神を知らずに過ごして来ています。また、親から神様のことを教えられてきた人でも、学校に行くようになり、社会にも出れば、周りは殆どすべてと言ってもいいくらい、聖書の神様のことなど知らない人ばかりの中で育ち、生活しています。この箴言の最初の読者たちの環境とは大きく違います。

 そうではあるのですが、聖書の教えを全然知らない人にとっても、気づかされる面があります。今日の箇所で言うと八節がそれに当たります。「稼ぎが多くても正義に反するよりは、僅かなもので恵みの業をする方が幸い」であると。恵みの業、とは公正とか正しいこと、とも訳されます。そういう面もありますが、この九節までの所で言われていることは、とにかく人の心なり精神なりを調べることのできる神がおられること、そしてその神の前に人は高慢になってはいけないこと、その主である神を畏れることが人には求められている、ということです。

 こういうものの見方は、目に見えない神を信じない人が多い社会では、なじみの薄いものです。人は人との関係を良くすることには知恵を使い、気を使うわけですが、人と人との関係の前に、或いはそれと同時に、神と人との関係を見るのが聖書の教えです。人間同士の関係を何とか良くしたいと願って、人は苦労するのがこの世の常ですが、この世にあるあらゆる問題の根っこは、神と人との関係にあるということを私たちはまず覚えねばなりません。


3.主が一歩一歩を備えてくださる  そういったことを踏まえた上で、今日、特に取り上げたい九節の御言葉に注目します。ここには人が自分の道を計画するけれども、神が人の歩みを備えてくださるのだ、という教えが述べられています。この2行にかけて言われているのは、人が自分の道を計画すると、主がそのために一歩一歩を備えてくださる、つまり人の計画がうまくいくようにしてくださる、ということではありません。この9節の2行目の最初には、しかし、という接続詞が入っていまして、多くの翻訳では、「しかし、主が一歩一歩を備えてくださる」というような訳になっています。何でも自分の計画した通りに主も備えてくださるということではないのです。

 ただ、他の節を見ると、「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ」という教えもあります(3節)。これはどういうことでしょうか。「計らうこと」とはこの場合、人が計らうことです。自分の道を計画するのは人ですが、主にゆだねればその計らうことは固く立つ、と言うわけですが、9節との関係で考えると、人はいろいろと自分の道を考え計画し、計らうけれども、それは、結局主にゆだねるかどうかで違ってくるということです。3節で言っていることは、主にゆだねさえすれば自分の計らうことがその通りに実現するというのではなく、神がよしとされる形でそれをしっかりしたものにしてくださるというのです。場合によっては、自分の計画したことを修正・変更する場合すらあるかもしれません。それは、9節と合わせて考える必要があります。自分の計画をそのまま主が実現してくれる、というのではなく、その歩みを一歩ずつ導いてくださいます。何かを実現しようとする場合、私たちは一足飛びにその結果を手にできるわけはありません。一つ一つ、時間をかけ、準備して、考え、必要なものを備えてゆきます。それを主にゆだねて進めていく中で、次の一歩を主が備えてくださるのです。時に私たちは物事の決断をしなければなりません。それは大きなものから小さなものまでいろいろです。そのいろいろな決断をしなければならない中で主にゆだねるということは、常に祈り、主なる神にお任せすることを自分の生活の土台に据えることです。

 こうなったらよい、ああなってほしいという願いを神に実現させるのではありません。場合によっては、私たちはどうしたらよいか分からない場合もあります。時にはできることをしたら後は結果を待つだけという場合もあります。入学試験などを受けた場合はそれに当たります。結果が自分の願いとは違うことがあります。しかしそこからまた次の一歩を始めるのです。それは時には悲しく、悔しさも感じ、それを受け止めるのに時間がいる場合もあるかもしれません。しかし忍耐と共に祈りを続けていくことで、主が備えてくださる次の一歩が示されることを信じましょう。

 箴言の中には、これに似たような教えが時々出てきます。「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(3章6節)。「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる」(5章21節)。私たちに必要なのは、主なる神の前にへりくだり、一歩一歩を備えてくださることを信じる信仰をもって、祈りつつ進むことです。自分の計画を実現させるために神に信頼するのではありません。自分が何かを計画しているのだとしたら、それは何のためか、自分の願望を実現させたいだけなのかどうか、それを吟味することも必要です。自分の願っていることを神は実現してくださるはずだ、というのではなく、まず自分に与えられている神の恵みを顧みて、主イエス・キリストを心から自分の主と信じ従っていく信仰を確認し、そしてその信仰の中で次の一歩を進めさせてくださる主を信じるのです。

 私たちは、どこかへ行こうとする時、初めの一歩を間違った方向に踏み出してしまったら、目的地へは遠回りとなってしまいます。しかし、信仰をもって歩んでいく時には、主御自身がそのことにも気づかせてくださり、次の一歩をどちらへ踏み出してゆくかを示してくださると信じましょう。回り道をしてしまうこともあるかも知れませんし、目的地を変更する必要が出てくることもあるでしょう。しかし、主を信頼して一歩一歩を進めようとする者に、主は必ず伴ってくださって、歩みを進める中で必要な助けや知恵や、新しい知識や気づきをも与えてくださることでしょう。信仰の導き手である主イエス・キリストを仰ぎ続けて歩みましょう。

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