「神に導かれる人生」 2023.6.4
イザヤ書 30章18~26節

 「あなたの人生は何によって導かれていますか」という問いを受けた時、皆さんはどのように答えるでしょうか。はっきりと神を信じイエス・キリストを救い主と信じて告白した方からは、「神によって導かれている」という信仰者としての答えが返ってくることでしょう。

 しかしまだはっきりと自分の信仰の確信に至っておられない求道者の方は、まだそこまでは言えない、と思われるかもしれません。また、ほとんどキリスト教や聖書について知らない方からは違った答えが返ってくるかもしれませんし、よくわからないということもあるでしょう。そもそも、自分の人生が何かに導かれているかどうか、ということ自体、あまり考えることはないかもしれません。キリスト教以外の宗教を信じている方の場合、自分の信じる信仰の対象によって導かれていると信じている方はおられるでしょう。

 自分の人生の中に、信仰の対象としての存在を認めていない方にとっては、自分の人生を決めるのは自分自身であり、自分の努力や才能、人の助け、生まれついた環境、そして運や巡り合わせだ、ということになるかもしれません。しかし、今日朗読した聖書は私たちに教えています。

 「私たちを導かれる方は主なる神である」。

 この一つの言葉を私たちはいただいています。今日は特にこの旧約聖書イザヤ書を通して、神ご自身が私たちに教えておられることに聞きましょう。

 さて、神の導きとは何なのでしょうか、また何のためにあるのでしょうか。それがあるかないかで何が違うのでしょうか。また、神の導きとはどのように、また何に対して与えられるのでしょうか。このようなことに目を留めながら神の御言葉に聞きましょう。

 先ほど朗読したイザヤ書 30章20節には、「あなたを導かれる方」という言葉は2回出てきます。あなたたち、とかあなた、という呼びかけの言葉がありますが、これは古くから神に導かれて来たイスラエルの人々のことです。預言者イザヤは、紀元前の8世紀、イスラエルの北にあるアッシリア帝国におびやかされていました。彼らは強力な軍事力によってイスラエルに攻め込もうとしていたからです。

 実際、北イスラエル王国は、攻め滅ぼされてしまいます。しかし南のユダ王国は保たれます。イザヤは、その南の王国の人々に向かって語るのです。実は北イスラエル王国の人々は、落ち着いて神を信頼していることができませんでした。15節に言われているとおりです。神ではなく自分たちの力に頼ろうとした結果は散々なものだったのです。しかし、まだ保たれている南王国の人々に対して、主なる神は憐れみを与えようとしている、と語りかけているのです。この語りかけは、今日の私たちも聞くべきものとして与えられているのです。

 まず、「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」という言葉が与えられています。どうして幸いなのか、という答えがこの後に述べられていきます。その答えは、神が、神に助けを呼び求める人に必ず答えて恵みを与えてくださり、導いてくださるから、というものです。

 神は何のために民を導かれるのか、といいますと、18節以下にありますように、神の憐れみを与えようとして、そして恵みを与えようとして、そしてついには、私たちの生きる場所において実を実らせようとしているがために、民を導かれるのです。そして幸いなことに、民が神を呼び求めるならば、主なる神は、必ず恵みを与えられると言われています(19節)。

 では、その憐れみ、また恵みとは何でしょうか。これは実に大事な問題です。この神の憐れみを受けたならば、どうなのか。恵みを受けたならばどうなのか。これを抜きにして神の導きを語ることもできません。せっかく導いていただいた先にあるものが、私たちにとって本当に素晴らしいもの、喜ばしいもの、他のものでは代わりにはならないものでなければ、導いてもらっても嬉しくないのは当たり前です。その結果が素晴らしいものであるなら、私たちもまた神の導きに身をゆだねようという気持ちになるからです。

 そして神は当然、その導いた先で、また導きながら神の民に、つまり、今日神を信じる私たちにも恵みを与えようとしておられます。それはこの地上では、置かれた場所で実りを得られること。そして命という面では、神の国の一員として、神と共に永遠の命の内に生きるものとしていただけるということです。それは神の子どもとして受け入れていただき、神の家族の一員としていただけるということです。

 その神の導きがこの世で与えられます。それがあるかないかでは、やはり違ってきます。どちらへ行ったら目的地へ着けるのかを知らない旅人には、旅の案内人や地図が必要です。それがなければ目的地へ着くことはできません。神は、いわば大事な旅の案内人であり、聖書は地図と言ってもよいでしょう。でも地図も読み方が分からないと、目の前にあっても、役に立ちません。それをよくわかるようにしてくださるのもまた神様なのです。

 そのように神は導いてくださるのですが、その導きとはどういうものか、もう少し見てまいります。20節と21節には「あなたの目は」常にあなたを導かれる方を見る、とあります。そして「あなたの耳は」背後から、右に行けとか左に行けとかいう言葉を聞く、というのです。目と耳、両方を使ってですが、これはあまり文字通りに考えなくてよいもので、いろいろな手段を通して、という意味です。目の見えない方、耳の聞こえない方もいます。ですからこれは、文字通り目や耳でわかる、というのではなく、信仰によってそれを受け取ることができるようにされるということなのです。

 見るという点では、聖書に登場するいろいろな人物は確かに文字通り目で、天使が現れるのを見ましたし、アブラハムやモーセなども直接、神の御声をその耳で聞きました。しかしここで言われているのは、そういう文字通りのことではないわけです。ですから、日常の中で起こってくること一つ一つを信仰によって見ていかないと、これはわからない、ということなのです。

 しかしもしも、毎日の生活で、天の声が直接耳に聞こえて来て、何でもああしなさい、こうしなさい、と言われたらどうでしょうか。成長してきた子どもたちは、段々と親にいろいろ言われるのをうるさく感じるようになってきます。自分で考えるようになるからで、先回りしていろいろ指示されると煩わしく思ったりします。神様も、私たちがいつまでも小さな子どものような状態で何でも指示されないと動けないような者にしようとしているわけではありません。やはり自分で考え、神に信頼しつつ、祈りつつ歩んでいくことを望んでおられます。しかし、いつも謙虚になって神を信頼する心を持ち続けることが大事なのです。そうすることで、主なる神様は、私たちを善き道へと導いてくださるからです。

 しかし、ここで一つ忘れてならないことを聞きましょう。「それは、20節にあることです。「わが主はあなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた」のでした。神の導きがなかったから、災いと苦しみが与えられたのではありません。神は導いてくださっていたけれども、あえてそのような災いや苦しみをお与えになることもあった、ということなのです。これを知っているか知らないかで、私たちの神に対する理解や、信仰に対する理解は大きく違ってきます。

 何が違ってくるかというと、災いとか苦しみといったものが、偶然に襲ってきたのではなく、神が与えられたものだと受け入れるようになります。それは実際には言葉で言うほど簡単ではありません。すぐに納得できないかもしれません。しかし本当は避けて通りたい災いや苦しみが、全てを見通しておられる神のもとから来る、という理解を信仰によって持つことは、私たちの人生の受け止め方を決定的に左右します。

 イスラエルの歴史を見ると、神の民として世界中の多くの民の中から選ばれていたにもかかわらず、真の神以外のものを求め時には偶像礼拝にまで陥っていたことすらあったことがわかります。その人々を、神は常に憐れみの御心をもって導いてこられました。22節に、「そのとき、あなたは銀で覆った像と金をはり付けた像を汚し、それを汚れたもののようにまき散らし、『消え失せよ』と言う」とあります。人々は偶像礼拝をしていましたが、それをやめるようになるのです。もう必要ないと。神に背いた罪のゆえに与えられた災いと苦しみを通して、悔い改め、今度は神を呼び求めるようになり、神の憐れみを信じて神に立ち帰る者とされます。そうして与えられる神の導きと神ご自身を見ることを通して、偶像ではなく、まことの神を信頼するようになるのです。

 イスラエルの場合は、与えられた苦しみや災いは、その罪に対する罰と懲らしめでした。しかし神が災いや苦しみを人に与えられるのは必ずしもいつも罪の罰や懲らしめというわけではありません。

 罪のない人間は、イエス・キリストを除けば誰一人いませんが、神が人に災いや苦しみを与えられる目的はいろいろです。その困難を通して私たちがさらに成長するためであったり、自分の弱さに気がついて神の前にへりくだるためであったりします。事実、神の御子イエス・キリストはこの世を歩まれた時、神の霊に導かれて荒れ野へ行って悪魔の誘惑を受けられました。それは罰でも懲らしめでもありません。神の御子であるにもかかわらず人となられた主イエスは、神の全能の力を用いないで、悪魔の誘惑を神の御言葉だけで退けられました。

 ですから、その目的がどのようであるとしても、神が災いも苦しみも、試練も、信じる者に特に与えられます。しかしその中で主なる神を呼び求めて祈るならば、神はご自身を現してくださいます。この点について、新約聖書のコリントの信徒への手紙10章13節の御言葉が同じようなことを教えています(新約聖書312ページ)。

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

 試練も、そこから逃れる道も、どちらも神が与えてくださいます。試練から逃れる、というと何となく試練に立ち向かわないで、逃げてしまうという印象がありますが、必ずしも試練の前から尻尾を巻いて退散してしまう、ということではなく、それを解決する手段を示してくださるとか、それに耐える力が強くなるとか、試練がある程度の所で終わるとか、いずれにしても、人が耐えられる範囲で神様がさじ加減をしてくださいます。そしてそれらを通して私たちがさらに神に近づき、神の真実を悟れるようになるのです。ですから、試練に直面している時に、それにつぶされてしまわないようにますます神を信頼し、祈り求めることが必要です。そうするならば、先ほどのイザヤ書にあったように必ず神は祈り求める声に応えてくださって恵みをくださいます。そして神の御言葉により行くべき道を示してくださるのです。このイスラエルの人々に対しては、偶像を、もう必要のないものとして捨て去る、という方へ神は導いてくださいました。

 ですから、神の導きは、いつも何の障害物もなく、困難も苦しみもない、災いのない道を通らせるというのではありません。人の状態や罪や弱さやそのほか神が必要とお考えになる範囲で災いのパンと苦しみの水が与えられます。しかしその中で私たちがへりくだって信仰の目を凝らし、耳を澄ましているならば、必ず見たり聞いたりすることのできるようにしてくださる導きです。神に導かれる人生は、そのようにして一切をご存知のうえで私たちを祝福と恵みの内に救おうとなさる神に、自分をゆだねる人生です。その導きは信仰者個人に、また家族に、教会に、いろいろな形で与えられるのです。

 いずれにしても、私たちの神は、イエス・キリストによって私たちを罪から救い、偶像により頼むような生き方から救い、運任せの人生から救い、真に目指すべき神のみもとへと私たちを導いてくださるお方です。18節にあるように、主は正義の神ですから、私たちに対して最も正しく良いことをしてくださる方です。26節にあるように、私たちの傷をも包んでくださいます。この26節は最終的に今の私たちには考えられないほどの祝福をもって、神が救いを完成される日のことを描き出しているものです。

 私たちが信じる救い主イエス・キリストは、人として地上を歩まれた神の御子であります。この主イエスは、神を示す方として、今も私たちと共に、そして前におられ、信仰の導き手となってくださっています。その導きを信じて生きる民、主を待ち望む人は本当に幸いな人なのです

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