「人との関わりの中で生きる」 2023.5.14
ローマの信徒への手紙 12章9~21節

私たちはこの世に生まれてくると、人々の中に自分がいることを段々と知ります。初めは大抵の場合親、家族がいて、その周りにいろんな人がいることも知るようになります。兄弟姉妹、祖母や祖父、おじさんおばさん等の親戚の人たち。そして近所の友だち。幼稚園や保育園、そして学校で会う友だちなど。そしてやがては社会に出て行きます。今日は、このように人との関わりの中で生きている私たち人間について、聖書が何を教えているかを学びます。


1. 人のおもな悩み

 私の子ども時代のことを振り返りますと、人が何かの問題で悩む時に何が大きなものとしてあるか、ということについて挙げられていたことを聞いた時、「人間関係」という答えがあったのを聞いて、子どもながらにそういうものなのか、と思った覚えがあります。もちろん、子ども時代にも、友だちと喧嘩をしたりするようになると、何でも自分の思うようには行かないことを段々と知るようになります。そして次第に、人は人間関係で悩むのだということをあちらこちらで聞きますし、自分の周りにもいろいろな人がいて、時にうまくいかないことを思い知らされます。自分に好意的な人ばかりではなく、意地悪な人もいれば、喧嘩っ早い人もいます。そしてやがては、自分も人に対して何らかの不快な気持ちを与えて、嫌な人だと思われているかも知れない、ということにも気づきます。私たちはどうしても自分中心に考え、感じますから、いつも人が自分に対してどういう態度を取るか、ということが気になりますが、立場を変えると、自分の態度が他人に対してどのように移っているのか、ということも気になり出すのではないでしょうか。そして人に注文ばかり付けていたが、自分も人から注文をつけられても仕方がないのだ、と知るのです。そうして人の世は何と面倒なのだろうと思ったりもします。少し調べると分かりますが、人の悩みの八割から九割は人間関係のことだと言われているようです。あとは健康のことが大きいでしょうが、殆どは人間関係であるようです。


2.なぜ人間関係で人は悩むのか

 しかし、どうして人は人間関係で悩むのでしょうか。皆同じ人間なのだから、同じ痛みを感じたり、悲しんだりするのに、なぜ傷つけあうのでしょうか。それはやはり、先ほども触れましたが、私たちがまず自分中心に物を考え、自分本位で感じ、自分を基準にして人を見たり評価したりするからではないかと思います。平たく言うと、まずは自分が大事、自分の見方や感じ方が優先されるからです。それだけではなく、人の痛みや悩みなどを感じられない、受け取れない、察することができない、という面もあります。それを感じたり、察したりしても、それに対して十分に対応してあげない、あげられない、したくない、ということもあるかもしれません。自分のためだったり、あるいは親しい人や大事な人のためだったりすると、私たちは自然とそのためには気を遣うと思います。

 また、世の中では、例えば会社の利益などが優先されるので、そのためにうまく働かない場合、当然ながら叱られたり、排除されたりします。世の中が競争社会だという面もあるでしょう。それに良く乗っていないと、はじき出されることもあります。友人関係でも、なかなか気の合う人がいない、周りに合わせられないとか苦手だということもあります。人の言葉がいちいち気になって、人との付き合いがうまくできないという人もいるでしょう。こうしてみると世の中には生きづらい面が常につきまといます。それでも多くの人はその中で付き合いをし、仕事も何とか勤め、別の楽しみを見つけたりして過ごしているかもしれません。こういうことは挙げていけば切りがないでしょう。


3.聖書の勧めー神が望まれる私たちの生活

 私たちはどうしたらよいのでしょうか。世の中では、良い人間関係を築くための方法、というような言葉を検索すればいろいろな人がいろいろなことを言っているのがわかります。書物もたくさん出ています。そういうものは、それなりに人の現実をいろいろな角度から研究した上で書いているものでしょうから、ある助けになるでしょうし、物の見方や考え方に大事な示唆を与えてくれるものもあるとは思います。

 では、聖書はどうでしょうか。先ほど朗読していただいたローマの信徒への手紙は、紀元1世紀に、ユダヤ人のパウロという人がローマの教会宛に書いたものです。時代的にも地理的文化的にも今日の日本とは大きく異なる背景に生きる人たちに書かれたものです。12章9節の前には見出しがついていますが、これはパウロではなく、今日の出版側が、ここに書かれている内容から、「キリスト教的生活の規範」という見出しをつけたものです。となるとここで教えられていることは、キリストを信じたクリスチャン同士の間でだけ通用する教えでしょうか。確かに、これはクリスチャンとなった人が、対人関係の中で、特にクリスチャン同士の関係の中でどう生きるかを教えているものではありますが、決してその限られた関係の中でだけ生かせばよいというものでもありません。

 たとえばこの箇所から、特に信仰とか神について直接言われている言葉を除いてみても、「悪を憎み、善から離れない。人を尊敬し、相手を優れた者と思う。貧しい人を助け、旅人をもてなす。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く。高ぶらず、身分の低い人と交わる。自分を賢い者とうぬぼれない。悪に対して悪を返さず、すべての人の前で善を行う。できるだけすべての人と平和に暮らす。悪に負けずに善をもって悪に勝つ」、という教えが並んでいます。 

 これらの言葉は、神への信仰のあるなしに拘らず、とても大事な教えです。しかしなぜこのように命じているのかというと、人の上に立つお方として、人を造り、生かしておられる神がおられるからです。つまり、この教えは人間関係だけを見るのではなく、神と人との関係をまず考え、それを土台として人と人との関係を見ているのです。

 例えば、善と悪の問題があります。何が善で何が悪か。これは単に人間の内にある道徳感覚だけが規準となっているのではありません。人間は自分が正しいと思っていても、必ずしもそれが万人の規準になるとは限りません。またいくら正しいと見える行動基準を持っていたとしても、それを常に完全に実行できないのが人間だからです。

 また、相手を自分よりも優れた者と思うとか、高ぶらず、自分を賢い者とうぬぼれることをしない、というのは、自分を低くし、へりくだるという姿勢に基づいています。それは、神の前にへりくだる、という信仰の姿勢です。ここで聖書が教える人間関係についての教えが何に基づいているかが明らかになります。私たちは、人間関係で悩む時に、色々な方法論を学んで身に着けることよりもまず大事なこととして、人を造られた神の前に自分が何者であるかを知らねばならないということです。

 今日の朗読箇所の初めにあります、「愛には偽りがあってはなりません」という言葉一つを取ってみても、人の心の内にある思いを見抜くことのできる神がおられるという考えに基づいている教えであることがわかります。善を好み、愛し、行おうとしているように見えても、それが見せかけの格好つけなら、それは神の前に偽っています。人を愛していると口では言っていてもそれが偽りであってはならないのです。

 そして神を信じる者は、人を見る時、自分も相手も神の前には不完全な欠けた者であることを教えられます。聖書ではこれを神に対して罪を犯している、と言います。だから神の前では私たちには誇れるものは何もなく、まず誰でも神によって、罪の赦しをいただく必要があるのです。この点はキリストについて語る必要があります。人間関係を良くしたいと願うなら、まず自分と神の関係を直さなければならないことを述べておきます。

 しかし神を信じたとしたら、それで人間関係が万事うまくいくようになるというわけではありません。人がこのように生きている限りは人と人との関わりは必ず続きますし、そこには常に何かしら問題が生じてきます。しかしそれでも、人と人との間に、そしてその上に神がおられます。人と人との間を正しく裁くことのできる神がおられます。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とあります(19節)。これは犯罪を野放しにしてよいという教えではなく、悪事を働く人がいたとしても、そのような人に対する正しい報いを必ず神が与えるということです。この世で神から何かの罰を受けるのか、そうでなければこの世を去ってから神から報いを受けることになります。それは恐ろしいことです。

 それは大変極端なことではありますが、日常の生活の中で、私たちは人との関わりなしには生きて行けません。人との関わりの問題はいつもありますが、すべてを見ておられ、自分のことも、相手のことも見ておられる神を信頼し、その導きと助けにゆだねて生きる道があります。それは決して気休めではなく、現実に神は助けを与えてくださいます。この神に信頼する道を歩む時、私たちは人との関わりの中に光を照らされて新しい生き方を始められるのです。

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