「人を動かす力あることば」 2023.5.21
エフェソの信徒への手紙 4章25~32節

 私たちは、言葉によって多くのことを知り、学び、世の中のことを理解しています。世の中には大変感銘を受ける言葉もあれば、人を痛めつける言葉、人を尊び育てる言葉と貶める言葉、だます言葉などがあります。今日は、私たちが日頃読み、書き、聞き、語っている言葉について、聖書から学びます。


1.聖書には何が書かれているのか

 今日、情報・印刷などの技術が大変進歩しているので、ふた昔前だったら耳に入ってこないようなこともたくさん入ってきます。情報伝達の手段が発達すること自体は、便利になって良いと言えば言えますが、子どもたちや若い世代にとって、聞いたり読んだりしようと思えば何でも聞けてしまい、読めてしまうという状況は、やはり考えものです。私たちは取捨選択して言葉を聞かねばなりませんが、本当に聞くべき言葉を見いだせるか否か。これはとても大きな問題です。そして私たちは何らかの言葉を聞いたり読んだりした後に、それに影響されたり、大きな励ましや示唆を受けたり、目を開かれたり、それこそ行動や生き方への変化を促されたりもします。逆に例えば本を読んだり、テレビを見たりしていても、たくさんの言葉を聞いたがその時だけ、その時は感心したり、面白がったりしても、その時間が過ぎてしまえば何事もなかったかのようである、ということもあります。そして自分の存在とか人生とかを揺り動かすような言葉にはそうそう出会えるものではないことでしょう。しかし、私たちは今、神の言葉である聖書を前にしています。今日は、この聖書が教えている「ことば」を聞きます。神の言葉である聖書には、確かに私たちを動かす力があります。

 今日の朗読箇所の教えは、神を信じ、キリストを信じたクリスチャンたちに宛てたものですが、これは、人間一般に対して語られている普遍的な教えでもあります。「神の聖霊を悲しませてはいけない」とか「聖霊により贖いの日に対して保証されている」、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださった」という言葉は、聖書の教えを良く知らない方にとってはもちろん説明が必要ですが、それでも、まずここでの教えに目を留めます。そしてここには言葉についてと、行いとか生活についても教えられています。

 言葉に関することを抜き出してみますと、「偽りを捨て、隣人に対して真実を語りなさい」(25節)という戒めから始まります。そして「悪い言葉を一切口にしてはならない」(29節)、そして「わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」(31節)、というような禁止する戒めが続きます。積極的にこう語りなさい、という戒めももちろんあります(29節後半)。ここで言われている教えは、人としてどう生きるかという面の、倫理道徳的な戒めです。ところで聖書というと、皆さんはどのような言葉が書かれている本だと思うでしょうか。既に信者として長年生きて来られた方は、聖書には実にいろいろことが書かれている、ということを認めておられると思います。


2.私たちに働きかける神の言葉

 私は子どもの頃、聖書は永遠のベストセラーである、という言葉を聞きました。両親がカトリック教会の信者だったのですが、しかし、家で家族が共に聖書を読む、ということはありませんでした。ベストセラーという言葉の意味は何となく分かっていた年代で、世界中で最も読まれている書物、というような意味だと理解していました。私はあまり本を読まない子供でしたが、なぜか印象に残っている言葉です。それで子ども心にも、一体どんなことが書かれている本なのだろう、という興味を少し持っていました。でも、自分から聖書を読むというわけではなかったのです。

 しかし中学2年生の頃、友だちの通う教会に行くようになり、それから家にあった新約聖書を読むようになりました。そしてそこで私は、聖書の力に捕えられ、その言葉に不思議に惹きつけられました。他の書物と比較したわけではなく、他の宗教の経典のようなものも全く知らなかったのですが、この本は何か違う、という思いが生じたのを覚えています。その印象は、初めは福音書についてだったと思いますが、次第に新約聖書全体に広がって行きました。

 とにかく聖書の言葉は、私を動かしました。目には見えない神の存在を示し、救い主イエス・キリストを示してくれました。主イエス・キリストのなさったこと、語られたことは、この方について行けば間違いない、という不思議な確信のようなものを与えてくれました。これは私の場合ではありますが、私の中で聖書の言葉はそのように私を動かして神のもとへと導いてくれたのです。


3.人を造り上げるのに役立つことば

 さて、それではもう一度今日与えられたこの聖書箇所に戻ります。ここには私たちに生活上のある規範を与え、行動と話す言葉についての戒めを与えています。この中で私たちが語る言葉について次のように書いています。「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と。言葉を聞いた人が造り上げられる、とはどんなことでしょうか。その人が立派な人間になるために役立つ言葉でしょうか。世の中を大人としてちゃんと歩いてゆけるように、社会常識や一般的な知識を身に着け、仕事のできる人間、社会に役立つ人を育て上げることでしょうか。それは大事なことではありますが、ここではそういうことではなく、神との関係についてです。そして善い言葉を語るなら、それは相手に恵みをもたらします。それは神からの善きものです。

 しかし、私たちが人を造り上げるのに役立つ言葉を語ろうとするなら、まずそのような言葉を私たちが聞き、心の内に持っていなければ語れるはずもありません。結局神の言葉である聖書を知り、そこで語られている神の言葉を学ぶ以外にありません。何よりも、誰よりも、私たちを造り上げるための言葉を語ってくださるのは神御自身だからです。先ほど私のことを言いましたが、考えてみると、聖書の言葉そのものと共に、その聖書の言葉を神の言葉として聞き、そしてそれを私に語ってくれた多くの人がいました。そういう言葉によって私は造り上げられてきました。今の私がそれで立派な人間になっている、ということではありません。神と人の前に欠けが多く、罪ある者です。そうではあるけれども、神の真理に立つ者へと導いてくださったのです。それは、32節で言われていることで、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださった」という真理です。キリストが私たちのために十字架で死んでくださいました。それは、私たちの内にある、神に対する罪を取り除くためです。

 偽り、怒りが原因となって罪を犯すこと、盗みを働くこと、悪い言葉を口にすること。これらは皆、神に対する罪です。「悪魔にすきを与えてはなりません」(27節)というとても印象的な戒めがその中にあります。人が罪を犯すのは、悪魔に誘惑されるからです。悪魔にすきを与える、とは、悪魔に場所を与える、という表現です。例えば、私たちが自分の利益だけを考え、人のことはお構いなしとしたり、自分の欲望を満たすためなら不正を働いても仕方ない、と考えたり、怒りに任せて酷い復讐をしようとするなら、それは悪魔に場所を与えることになります。悪魔はそれを見て、「よし、自分の場所ができたぞ」と言ってやってくるのです。人に罪を犯させ、神から引き離し、やがては神の裁きを受けねばならないようにして、私たち人間に滅びをもたらすのです。

 そうならないように、神はキリストを遣わし、十字架のキリストを信じるなら私たちの罪を赦し、そして、悪魔に場所を与えない道へと導いてくださいます。そのために今私たちがここで学んでいるように、神の言葉をくださいました。神はキリストによって罪を赦していただくように私たちを動かして信仰へと導き、そして更に自分も他の人も神の前に造り上げられて、罪を赦されて悪から離れ、互いに親切にし、憐れみの心で接することのできるような人へと導いてくださいます。それは一朝一夕に完成するものではありませんが、神の言葉には真の力がありますから、人を神に向かって動かしたなら、必ず完成へと至らせてくださいます。今日の朗読箇所の次の言葉を見てください。「あなたがたは神に愛されている子供です」とあります(5章1節)。神は、信じる者に対して、厳しい教師、厳格な裁判官、恐ろしい審判者としてではなく、欠けがあり、時には過ちを犯してしまうこともあるけれども、神に従って生きる道を歩む者を、愛する子供として受け入れ、力強い御言葉によって永遠の命の道へと導き、神と共に歩む者へと造り変えてくださるのです。人を動かす力ある言葉は神のもとにこそあります。それだから私たちも、その力ある神の言葉に動かされた者として、今度は他の人に益となる言葉、神の恵みをもたらす言葉を語らせていただけるのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節