「光を見る者は生きる」2019.2.17
 ヨブ 3章1~26節

 旧約聖書の文学書の中でも、特にこのヨブ記は非常に深い内容を持つ文学書として、世界中で読まれてきました。戯曲のような形式で、最初と最後に散文で書かれた文があり、真ん中は、ヨブと3人の友人たちとの対論、エリフという人の論述、最後に神が登場してヨブに語りかける内容で、詩の形です。大変長いですが、ヨブ記は、全体をよく把握していないとその意味が掴めません。今日は、ヨブ記全体のお話はしませんが、度ヨブ記が何を教えているかを知らないと、間違った理解へと進んでしまう恐れがあります。通常、正しい人がなぜ苦しむのか、という疑問に答えていると言われ、確かにその面はありますが、それだけでなく神とヨブとの関係が最後にはどうなったかということを見落としてはなりません。その中で、この第3章で教えられていることを見てまいります。

1.苦しむヨブ
ヨブがなぜ自分の生まれた日を呪っているのか。1、2章にある神とサタンのやり取りで明らかにされています。神の前に畏れの心をもって正しく生きていたヨブについて、サタンは神に対してある提案を持ち掛けます。ヨブが正しく生きているのは、神が豊かにヨブを恵んでいるからで、もしそれが失われたらヨブは神を呪うに違いない、と。だから神が御手を伸ばしてヨブの持ち物に触れ、それらを奪ってしまいなさいと神にもちかけます(1章11節)。神は、ヨブが神を畏れ、悪を避けて生きていることを認めておられます(同8節)。それで神は、サタンの申し出を受け入れ、ヨブのものを一切サタンの手にゆだねます。主のもとから出て行ったサタンは、ヨブの羊や羊飼いたち、さらに息子や娘たちの命を奪ってしまいました。
しかしヨブは神を呪うことはしなかったので、再びサタンは神のもとにやってきて、今度はヨブの体に触れてみるようにと持ち掛けます。今度も神はそれを許可したので、サタンはヨブの全身にひどい皮膚病にかからせました。それでもヨブは神を呪うことはしなかったのでした(2章10節)。そういうヨブのもとに友人たちがやってきて彼を慰めようとしますが何も話しかけることすらできませんでした。そして7日ほど経って、やっとヨブが口を開いたのがこの第3章です。ヨブはこの3章で自分の状態を嘆きます。彼は神を呪いはしませんが、この状態を嘆きはします。そして、自分の生まれた日を呪い始めるのです。
 このヨブの嘆きと呪いは、自分がこの世に生まれてきていなければこんな苦しみを味わうことはなかったのだから、生まれて来なければよかった、という考えに立っています。あるいは生まれてすぐに死んでしまっていればよかったのにというものです。この世に生まれて来ていなければ、人が世で味わういろいろな煩わしいことや、苦しくつらいことを何も経験しなくてよいのだから、静かに眠りについていたであろうに、と。ヨブはここでいろいろなことを言ってはいますが、この嘆きに流れている考え方はそういうものです。そしてもう一つ、自分は悩み嘆いているけれども死ぬこともできないと。
 「行くべき道が隠されている者の前を 神はなお柵でふさがれる」(23節)と言われているのは、恐らくヨブも含めて神を信じている者は、神が自分に命をくださったのだから、それを自ら断つことはできない、という思いを持っているからです。そういう二進も三進もいかない状況に追い込まれていると感じているので、「静けさも、やすらぎも失い 憩うこともできず、わたしはわななく」(26節)と言っているのです。神を信じない人の場合、死にたいけれども死ぬのも怖い、ということもあるかもしれません。いずれにしても、そういう状況に追い込まれたことがある人は、このヨブの気持ちが多少なりとも分かることでしょう。

2.生まれた日を呪うヨブ
ヨブは神を信じ畏れ敬って生きて来た人です。ですから、自分のこれまでの人生は神によって導かれてきたと信じています。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と歌っていたほどです(1章21節)。「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と歌ってもいました(2章10節)。そういうヨブの信仰からすると、この3章でのヨブの言葉は少し違ってきているように思えます。神を呪うことはしないけれども、自分の生まれた日は呪う。しかし、突き詰めて考えれば、命を与えてくださったのは、ヨブ自身が言っているとおり、神なのですから、自分の誕生を呪うのは、神御自身に文句を言っているようなものではあります。
そしてヨブは、何故自分は光を見ない子とならなかったのか、とも言います(16節)。光を見ない、ということは、この世に生を受けず、生まれて来なかったことを言っているわけですが、いかにも絶望的な表現です。しかしヨブは既にこの世に生まれてきて、光を見ていました。もちろんこの光は普通に言う意味での光です。しかし光を見ているおかげで、彼は世の中の人々が見るように、いろいろな悲惨なものや嫌なもの、人を苦しめるものを見てきました。労苦、神に逆らう者が暴れ回ること、人が心身ともに疲れること、何かに捕われること、人に追い使われること、主人の下で奴隷として働くこと、などです。

3.光を賜り、生かす神
このようなヨブの苦しみは、この世において、世界中のあちらこちらで今も味わっている人がいる苦しみだと言えるでしょう。そして、今日私たちに示されているこのヨブの言葉には、何も希望を見出すことができないように思えます。それでも、いくつかの言葉を拾い上げると、私たちに希望を示すものがほのめかされていると思います。
 それは、神は労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれる、ということです。この場合の光を賜る、というのはあくまでこの世で生かしておられる、という意味です。世の多くの人々は、この世に生きているけれども、自分がなぜ生きているのか、その意味と目的が良く分からない、或いはまったくわからない、という思いに陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、人に命を与え、この世界を造り、そして保っておられる神の存在と知恵と力と慈しみを知った者は、神が人を生かしておられることの理由を知ることができます。いや、ヨブはそれを知っていたけれども、それでもこんなに苦しみ嘆いているではないか、という声が聞こえてきそうです。その通り、確かに神はこのヨブに対するように、ご自身が目を留めている者であっても、時にまるで放っておいているように見える扱いをなさる時があります。ある困難の中に留めるとか、試練が続くとか、文字通り不幸な出来事が起こる、災害の被害に遭うというようなことです。さらに、先ほどもふれたように、ヨブは神を知っているからこそ自分からこの世を去ることもできないので、「静けさも、安らぎも失い 憩うこともできず、わたしはわななく」(26節)と言うのです。これは悲惨の極みかもしれません。神を信じているのにこんな状態に置いておかれるのであれば、そんな信仰の道はご免被りたい、という人もいるかもしれません。
 しかし、このヨブ記は最後まで見れば、主なる神がヨブの前にご自分を現し、ヨブと一層深いつながりを与え、ヨブは神の前にへりくだって、ますます神を崇めるようになったのです。もし彼がこの世で光を見ずに、暗闇の中に葬り去られていたとしたら決して味わうことはできませんでした。ですから、私たちは、ヨブの身に起こったことを知る時、自分も神によってこの世に生を受けたことを知るのです。そして神は私たちに光を見させようとしておられることを悟れるのです。神は天地創造の初めに光あれ、と言われました。文字通りの、自然界にある光のことです。そして神御自身も光である、と言われています(詩編27編1節、Ⅰヨハネ1章5節)。そしてその御子もまた光であられます。神御自身が光である、という時は、自然としての光ではなく、すべてのものを照らす真理の光、命を与える光である、という深い意味があります。この光を私たちは見ることができます。それは肉眼の視力ではなく、神の御言葉によって、私たちの魂の奥深い所で受け止める光です。神こそ真の光であり、神の御子イエス・キリストこそ、その神の光を私たちに最も鮮やかに示してくださったお方です。
 日本では、太陽のことをお天道様とか、お日様、と呼んだりしますが本当に太陽を神のごとく拝んでより頼んでいる人などいるでしょうか。現代人にとって太陽は超高熱を発する天体にすぎません。しかし真の神は、その太陽を造られたお方です。そして、太陽のことを科学的にも、あるいは文学的にも表現できる人間に心と知恵を授けてくださいました。その神を光として見る者は生きるのです。イエス・キリストは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネによる福音書8章12節)。
 ヨブは、「なぜわたしは光を見ない子とならなかったのか」(16節)とか「墓を見いだすことさえできれば 喜び踊り、歓喜するだろうに」(22節)とまで言いました。しかし、42章のヨブは、まったく違うヨブになっています。「今、この目であなたを仰ぎ見ます」(42章5節)。彼は自分がかつて発した言葉を退けたのです(同6節)。神を真の光として仰ぎ見たからです。私たちも、真の光としての主イエスを仰ぎ見ることができます。

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