「主の恵みの年に生きる」2019.1.1
 ルカによる福音書 4章16~21節

 新たな年を迎えました。思い返してみれば、小学生の頃などは、一年が過ぎるのが長かったように思います。多くの人がそう思われることでしょう。だんだん年月を増し加えるに従って、私たちはこの世を過ごしてゆくことに良かれ悪しかれ慣れてくるからでしょうか。子どもの頃は、初めて経験するものばかりですから、新鮮な驚きや発見が相次いで起こり、感動することや感心することが多かったのでしょう。いわば充実している、という面が大人になってからよりも多かったかもしれません。そうはいっても、やはり新年を迎えると私たちは何となく新しい思いをもって一年を始めて行くように思います。しかしそれも正月の最初の頃だけで、やがていつもの生活に戻ってゆくのでしょう。そうだとしても、私たちは常に主なる神の前に生きています。生かされています。来年の元旦に自分がどうしているかは誰にもわかりません。それでも、主に連なる人は、自分の歩みがどうなろうと、主イエスの後についてゆく、という歩み方は何ら変わることがありません。また、変える必要もありませんし、変えてはいけません。そういう私たちは、主の恵みの年に生かされている、ということを今日の聖書箇所から教えられています。

1.聖書を朗読し、語られるイエス
主イエスは、ガリラヤのナザレでお育ちになり、ユダヤ人として安息日(土曜日)には会堂で神を礼拝する生活をしておられました。聖書を朗読しようとして立たれたとありますが、会堂司の許可を得て、誰でも聖書を朗読することができました。人々はいつものように会堂にやってきて賛美歌を歌い、祈り、聖書の朗読を聞いてその教えに耳を傾けようとしていたことでしょう。しかし、この日はいつもとは全く違う礼拝となりました。いつも、聖書(旧約聖書)が朗読されますが、この日はイザヤ書の61章1、2節が朗読されました。これまでにも何度となく聞いてきた聖書の箇所です。これまでは、このようなことを実現する人を神がこの世に送ってくださることを信じて待つ、という姿勢で聞いていたはずです。ところがこの日、この聖句の読まれ方が一新されました。やがて来ることが期待されていた、イザヤ書が指し示す、この主から遣わされた人は、目の前にいるイエスである、ということが明らかになりました。そして、このイザヤ書が指し示している人物こそ、この世に来るべきメシア=キリスト、つまり救い主であります。ここで言われている人物が普通の人でないことは、目の見えない人に視力の回復を告げ、という一文が明らかにしています。こんなことは普通の人には絶対にできません。イエスは確かにここで言われていることを実現されました。捕われている人、圧迫されている人とは、何であれこの世の何らかの力によって圧迫され、捕らえられ、その状態から逃れられなくなって希望を失っている人間の惨めな姿を現しています。そういう状態から人を解放することが出来る方が来られるのです。その方の到来によって主の恵みが人々に注がれる、そういう年が到来するのです。

2.私たちも主の恵みの年に生きている
救い主イエス・キリストがお生まれになって、30歳ほどになられてから、人々の前に宣教活動を始められて以来、主の恵みの年に入っています。今のこの時代を生きている私たちも主の恵みの年の中にあります。この救い主は、神から油を注がれて特別に立てられた方です。この方こそ、捕われ、目が見えず、圧迫されている者を救ってくださいます。では自分を顧みて、捕われていない、目は見える、圧迫されてもいない、という人がいたとしたら、その人にとって、主イエスは関係ないのでしょうか。実は、捕われておらず、目も見えて、圧迫されてもいない、そんな人はこの世におりません。私たちは皆、生まれながら罪に捕われており、自分の力で神を見ることができず、死の力に押さえつけられている者であります。イエスこそそこから私たちを解放してくださいました。私たちは、既に主イエスがこの世に到来されて、恵みの年をもたらしてくださった世に生きています。それはまだ完成に向かう途上ですが、今年もその途上にあって、必ず恵みの内に信じる者を生かしてくださいます。私たちも、イエスを前にして会堂にいたすべての人々のように、イエスに信仰の目を注ぎ続けるのです。主の恵みの年は、私たちの所に来ています。

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