「神の家族として生きる」2019.1.27
 エフェソの信徒への手紙 2章11~22節

 今日の説教題が今年の年間標語です。私たちは神の家族とされている。それは本当に幸いなことであります。この手紙はそのことにどのような意味があると私たちに示しているのか、今日、神の御言葉に聞きたいと願っています。

1.すべてはキリストの十字架によっている
 この手紙を書いた使徒パウロは、エフェソの教会の信徒たちにこの手紙を書いて、信徒たちをしっかりと信仰に立たせたいと願っています。彼は多くの手紙を書きましたが、大体前半でキリスト教信仰の大事な点を強調して教え、特にイエス・キリストがどんな方で、何をしてくださったかを語ります。教会によっては様々な問題を抱えていたので、それに答える形で書いている場合もあります。いずれにしても共通しているのは、ただ単にキリスト教信仰の大事な点を教える、というだけではなくて、キリストを信じた者がどのようにこの世でなお生きていくのか、ということを述べています。
 エフェソの教会の信徒たちは、ユダヤ人であるパウロから見れば異邦人です。ユダヤ教を信じる人々にとっては、神を信じてユダヤ人となることが救われるということでしたから、ユダヤ人と異邦人とでは、神の前に非常に大きな隔たりがあると思っていました。イエスの弟子たちや、信徒たちの最初の頃の宣教活動はユダヤ人たちに対してだけ行っていました(使徒言行録11章19節)。使徒ペトロでさえ、聖霊降臨の後でも、まだ、異邦人に福音を伝えるという意識がなかったとさえ言えます。やはり人に染みついた考え方とか、それまで生きて来た習慣、民族意識などはなかなか変わっていかない、ということの現れです。
 しかし、たとえどんなに民族的に親しくなくても、それまでは敵対関係にあったとしても、主キリストが十字架におかかりくださって、どちらの罪をも贖ってくださったならば、そこには平和が存在します。特にユダヤ人でキリストに救われてクリスチャンとなった者は、そのことを知らされています。そういう者としてキリストのもとに集められ、あたかも一人の新しい人であるかのような新しい歩みを始めているのです。キリストの十字架の恵みは全ての人に開かれています。自らの罪を悔い改めて主イエスを信じ、神に立ち帰るならば、誰でも救いにあずかれます。キリストの十字架の前では私たちは唯十字架を仰いで、その罪の赦しをいただくことを願うのみです。

2.キリストによって一つの体となり、一つの霊に結ばれている
そのキリストによって一つとされた民は、キリストを頭とする一つの体を構成します。それだけではなく、一つの霊に結ばれる、と言われています。この霊、とは人間の霊ではありません。また、一つ思いになる、ということでもありません。神の聖霊によって一つに結ばれるのです。私たちはそのことを感覚的に理解するではなく、同じ主イエスを信じ、同じイエスの十字架の贖いに与っている者同士は、お互いにその人のために死なれた主イエスをお互いの内に、上に、見るのであり、それは一つにされているからこそできることです。
ところで今年の標語としては、「神の家族として生きる」としたので20節の途中で区切りましたが、教会の土台のかなめ石はキリストである、という点は忘れてはなりません。かなめ石とは、かしら石とも言われます。石で建てられる家の一番上の部分に置かれる肝心かなめの石で、それがなければ家は崩れてしまいます。使徒や預言者は、それぞれ新約聖書、旧約聖書を代表していると言えます。新約時代の預言者たちである、という見方もありますが、旧約の預言者たちと見ていいのではないかと思います。旧約聖書の預言者たちは、キリスト(=メシア)がこの世に来られることを予告し、その働きを指し示し、メシアによってもたらされる救いと神の国についての預言をしました。そして使徒たちは、その予告の通りにこの世に来られたキリストの御業を目撃し、証人となり、神の御言葉とキリストの教え、そしてその到来の意味を正しく悟る力を主から授かり、全世界への宣教のために教会を建てる務めをいただきました。教会で語られる言葉は、キリストが天に昇られた後のものも含まれます。特に新約聖書の言葉自体がそうです。そしてその上に建物つまり教会が建てられます。その土台の中心はキリストご自身です。私たちは、キリストを頭とする教会という共同体に招かれましたが、キリストは頭であり、教会という神の民全体を支えるかしら石であり、一人一人がその上に建てられる建物に譬えられているわけです。そこは神が家のであり、キリストが長子です。そういう神の家族の内に私たちは入れられているのです。

3.神の家族として生きる
では、聖書は神の家族である教会をどのようなものとして示しているかを学びましょう。21節と22節によると教会という、主イエスによって救われた者たちの集まりは、建物に譬えられていますが、それは全体が組み合わされて成長してゆくものです。さらに、聖なる神殿でもあり、神の住まいでもあります。神の家族は、そこで生活をするわけです。家族である以上、共に生活をすることになります。そして、聖なる民に属するようになったものですから、この世から取り分けられている、という面を自覚しましょう。
この世の中にあるいろいろな家族の形、というものを考えてみると、実に様々です。これが人類共通の家族の姿である、という標準のようなものはありません。しかし、元をたどれば一人の男と一人の女という、神がお造りになった一組の夫婦が基本になっています。そして多くの場合、子供が生まれますが子どもがいなくても家族は家族です。また、夫婦の内どちらかが先にこの世を去ってしまったとしても、残された者たちは家族として構成されています。家族とは同じ家に住み、生活をともにする夫婦、親子、兄弟、という関係にある人々、ということが一般的には言えると思います。辞書には、血縁の人々、という記述があったのですが、夫婦は違うので、必ずしも血縁とは言えません。ある辞書では、夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団、とありました。これらを合わせてみると、人と人との非常に近いつながりの中で、生活を共にする集団、そして中心は夫婦にある、と言えるでしょう。では、神の家族についてはどうでしょうか。私たちと神との関係は、血縁関係とは言いません。創造者と被造物の関係があります。でもそれだけではなくて、私たち人間は、神によって代償を払って買い取っていただいた、つまり贖っていただいた者、という立場があります。そしてその関係は、神が定められた神と人との関係の中に約束によって招き入れる契約によって成り立つ関係です。そしてその契約を成り立たせてくださるのは救い主、神と人との仲介者、神の御子イエス・キリストです。そうしてみると、この世の中の家族の構成が、夫婦を中心としているのは、この神と人との関係を映し出している面があるわけです。
ところが人と人との関係では、成り立っていたはずの契約による関係がいとも簡単に壊れてしまうことがあります。それは人間の弱さと罪のゆえです。そういう意味では夫婦の関係は、血縁関係よりも弱く見られてしまうかもしれません。しかし、神と人との関係では異なっています。神は、約束なさったことを守れなくて契約を反故にしてしまうということがありません。私たちの弱さと罪にも拘らず、神は確かな方なので、一度結ばれた神の家族とされた関係は壊されることがないのです。先程も言ったように神の家族の中には、神と人との間に立ってくださる仲介者として、長子でもあるイエス・キリストがおられるからです。キリストにその罪を贖っていただいた者が神に近づいてくるなら、決して神の家族の中から追い出されることがありません。それは18節に言われていたことです。キリストによってユダヤ人も異邦人も一つの霊によって結ばれて父なる神に近づける、と。
神の家族では、神の子どもとしていただいて、そこで共に生きることを望む者が捨てられることはありません。神の家族とされた者たちは、その年齢も国籍も性別も何もかも実に様々ですが、一度キリストにつながったなら、神の家族です。この家族では通常、主の日と呼ばれる日曜日に神への礼拝が行われます。神の家族の生活において毎週行われる一大行事です。いろいろな状況の中で、そこに毎週加われない方々が少なからずいます。だから、私たちは礼拝の度ごとにまずそこに共にいる兄弟姉妹を見て感謝し、そこにいない人のことを思います。いつもはいるが今日はいない人、通常礼拝には来られない人、たまに来られる人。そういう一人一人にも思いを馳せるのですが、なかなか普段一緒に生活をしているわけではないので、その点、神の家族は関係が希薄になるでしょうか。確かにこの世の生活において、それこそ一人一人には家庭があり、神の家族の一員とはいえ、きめ細かい配慮をするにも限度があります。それでも、この手紙の4章にあるように、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16節)。神の家族が神の家で共に生活する教会の在り方は、この御言葉に基づいて、応用問題に答えて行こうとする営みと言えるでしょう。
そこには助ける側と助けられる側、という状況がでてきます。強い人と弱い人がいます。肉体的にも、精神的にも、信仰的にも。しかし、助けてもらってばかりで申し訳ない、助ける側に立っているばかりで大変だ、という見方はしません。神の「家族」なのだからそういう状況があって当たり前、普通のことだ、と考えるのです。
そして、神の家族に近づいてきている人々、まだ神の家族の外にいる人々が、神によって招かれて神の家族の一員となるように、キリストのもとへとその人々が導かれていくように、様々な手立てを講じる。それが即ち伝道の働きとなるわけです。私たち人間の思いや都合や好みが優先するのではなくて、神がキリストによってあがめられること、神の栄光が現されることを求め、そして互いがキリストに向かって成長して行けることを祈り求める。そして神の家族の間に、信仰と生活の規準としての神の御言葉が常に中心にある。そのような神の家となるよう、召し出されているのが私たち神の家族とされた者たちです。イエスを主と信じてより頼む人は、神の家族の一員としてこの世を生きているのです。

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