「イエスによる新しい契約」 2019.2.3
マルコによる福音書14章21~26節

今日は、この後、聖餐式があります。私たちの主イエス・キリストは、弟子たちに、このように行いなさい、とお命じになりましたので、今日のキリスト教会ではこの聖餐式を行なっております。今日は、この聖餐式制定の記事と先ほど一緒に朗読したエレミヤ書の新しい契約についての預言から、聖餐式が私たちに示していること、そしてそれを行うように命じられている私たちに何が与えられているのかを改めて御言葉に聞きたいと思います。

1.聖餐式の制定
主イエスは、ユダヤ人がずっと行ってきた過越しの食事をしている時に、新しい食事=聖餐式を制定されました。これは、たまたま過越しの食事に重なったのではありません。過越しの食事は、神がイスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から救い出されたことを記念し、感謝して行うものです。イスラエルの人々は、エジプト脱出する前に、傷のない小羊または山羊を屠ってその血を家の鴨居に注ぎ、主のエジプトに対する裁きを過越していただきました。それで、後の時代のイスラエルの人々は、毎年その時期になるとこの過越しの祭りを行って、かつての主の救いを思い起こし、羊または牛を屠って、その肉を食べることをしてきました。それはイエスの時代までも、ずっと行われてきたイスラエルの大事な行事でした。イエスと弟子たちもこの過越しの食事をしたのですが、イエスは新しいことをなさいました。その過越しの食事の最中に、イエスはパンを取って感謝の祈りを唱え、「取りなさい、これはわたしの体である」とまず言われました。さらにぶどう酒の杯を取り、感謝の祈りを唱えて弟子たちにお渡しになりました。
 イエスはこの後、ユダの裏切りによって捕えられ、ユダヤの最高法院に引き立てられ、裁判を受け、そしてローマ総督の下で死刑判決を受けて十字架にかけられることになります。イエスはそのことを予め知っておられました。イエスがそのように裁判を受けることになるのは、これまでイエスがして来られたことを、神の御心によっていると信じないユダヤ人の指導者たちが、イエスは神を冒涜しているものだと決めつけ、そしてローマ総督の下に訴え出て死刑判決をもらおうとしていたからです。当時のユダヤの国は、ローマ帝国によって人を死刑にする権限を奪われていたからです。そうして十字架の死を遂げることになるのですが、このことは、実は、イエスが屠られる神の小羊であることを示しているのです。イエスの十字架の死は、多くの人の罪の贖いのためのものでした。ですから、ユダヤ人の間でずっと伝統的に守り行われて来た過越しの祭りの食事の時にこの聖餐式を制定されたのは、イエスこそ私たちの罪の贖いのために献げられた傷のない小羊であることを明らかにするためでした。すべてのことは、神の御心に従って、ふさわしい時に起こってきているのです。
 主イエスは、これらのことを予めご存じであり、ご自分が十字架で死なれた後、復活し、そして聖霊によって信徒たちが力を与えられて世界宣教へ出てゆき、そして世界中に教会が立てられてゆく。これらのことをすべて見越した上で、信徒たちの集まる教会においてこの聖餐式という儀式を行なうようにお命じになりました。この、目に見える儀式を通して、ご自身が死後復活されて生きておられることを示し、天から聖霊を遣わし、地上の信徒たちを信仰によって生かしておられるのです。

2.新しい契約の仲介者イエス
 イエスがこの世にお生まれになる前の時代にも、神は多くの預言者たちを遣わしてご自身の御言葉を教え、御心を示し続けてこられました。そして、多くの人々に対して、ご自身を現して来られました。しかし当然、まだイエスはこの世におられず、十字架にもかかっておられません。それでも、旧約時代の人々には神の恵みが与えられていました。しかし、その時代の聖徒たちは、まだイエス・キリストを知りません。それでも、神は彼らの神となってくださり、神の民として受け入れていてくださいました。それはどうしてでしょうか。イエス・キリストの十字架によらなければ、どの時代のどこにいる人でも、救いの道はありません。それでも、来るべきキリストを指し示す旧約時代の儀式や犠牲の供え物によって来るべきメシア=キリストが予め示されていました。動物犠牲が献げられたのも、罪を犯した者の償いがそれによってなされはしましたが、同時に動物の犠牲では、完全に罪を除き去ることができない、ということも示されました。完全に罪を除き去ることができる聖なる、罪のない神の御子の犠牲が必要だったのです。
それゆえ、キリストが到来されて、罪の償いの犠牲となり、贖いを成し遂げられたので、それまで行われていた旧約における儀式や犠牲の献げ物は、もはや必要なくなりました。ここに新しい契約が成立したのです。
この契約とは、神が一方的に人に与える約束のことで、神の御言葉と掟を守り行うならば、罪を赦し、神がその民の神となってくださり、人々は神の民となれるという約束です。イエスの到来前までは、動物犠牲や種々の儀式、掟の遵守が命じられており、人が神に対して果たすべき戒めとして、十戒に代表される道徳律法が与えられていました。
そういう仕方で神に従う道が示されていました。それが旧約というものです。人は耳で聞いた神の戒めを行ない、定められた規定に従って献げ物をし、安息日や割礼といった儀式的な規定を守ることが命じられていました。しかし、そういう仕方では、その時その時に罪を償って赦しをいただくことはでいますが、いつまでたっても、人の罪を完全に贖い、清めることはできませんでした。ですから、旧約時代の預言者たちは、来るべき罪の贖い主、メシア=キリストが来られることをはるか遠くから指し示していたのでした。

3.聖餐式が与えられている恵み
そしてこの世にお生まれになった神の御子、キリストである救い主イエスは、新しい契約を私たちにもたらしてくださいました。イエスを信じる私たちは耳で聞き、文字で読む律法の条文に縛られているのではなく、イエスを信じる、というそのことだけによって罪の赦しを与えていただけるようにされたのでした。主イエスは、そのことを一つの儀式、つまり聖餐式によって見える形で表してくださり、舌で味わうことが出来るようにしてくださいました。この後聖餐式を行います。
パンが裂かれて配られ、ぶどう酒ではないですがぶどうジュースが配られます。その前には今こうして私が語っているように、神の御言葉を説き明かす説教によって神の言葉が語られます。また、今日はありませんけれども、イエスを信じて信仰を告白した人には洗礼が授けられます。洗礼と聖餐と神の御言葉の説教。新しい契約のもとでは、外見上は実に簡素な、旧約時代に比べれば見栄えのしない仕方で神の契約が現されています(ウェストミンスター信仰告白7章6節)。
先ほど朗読したエレミヤ書31章31節以下にある、新しい契約についての預言では、神がその民と新しい契約を結ばれる時のことが語られます。これは旧約聖書の預言の頂点とも言えるものです。文字で記されたものを読み、聞き、そして守れ、という仕方でではなく、民の心を神の力によって新しくして、神に従う者として新しくしてくださるというのです。イエスがもたらされた新しい契約においては、それが実現してゆきます。つまり、私たちが掟を守ろうとする意欲や努力、それらによって神の救いをいただくのではなく、キリストの十字架の犠牲によって、その流された血によって新しい契約の民が生み出されてゆきます。そしてその民はマルコ10章25節にあるように「神の国」へと導かれてゆきます。イエスは神の国で新たに契約の血を表すぶどう酒を飲むそのときまではもう飲むことはしない、と言われました。それは神の国でそのように主イエスと共に食卓に与る素晴らし時が備えられている、ということです。そういう時が来ると言われたわけです。
主イエスは復活の後、天に昇られ姿は見えなくなりました。しかし、聖餐式において、見えないけれども聖餐の食卓の主人として私たちにパンと杯をくださいます。私たちは聖餐式にあずかるごとに、やがて神の国でイエス様が目に見える仕方で祝宴の主人として私たちにぶどうの実から作ったものを振る舞ってくださることに思いを馳せることができます。神の国では、その杯は、大いなる喜びの杯となるでしょう。私たちはその時までは、この地上の教会で、わずかな人数で、イエス様と違って罪深く欠け多い罪人の牧師の司式によってこの食卓に与っています。皆さんにとって、聖餐式の食卓でパンと杯を配ってくれるのが主イエスだったら、どんなに素晴らしいことでしょう。しかし今はまだ、その時に至っておりません。ここにあるのは小さなパンと杯です。式を行ない配るのは罪人の牧師です。しかしこの小さなパンと杯は、何ものにもまさる素晴らしい栄光に輝く神の国の祝宴を映し出しています。主イエスが24節で言われたように、この杯が現しているイエスの血を、私のために流されたのだ、と信じ受け入れる人はまことに幸いな人であります。

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