「信ずる主に任せる」2019.1.20
 使徒言行録 14章21~28節

 今日は、この使徒言行録から、キリスト教会の福音宣教が始まった頃に、どのようにして教会ができていったかを示されています。今日、全世界の各地にキリストの教会が建てられております。今日の朗読箇所から、それは神のどのような御心と御業によっているのか、ということを私たちは知ることができます。

1.神の国に入るには多くの苦難がある
この使徒言行録は、ルカによる福音書を書いた医者(コロサイ4章14節)、ルカが記したものです。福音書が第1巻、使徒言行録が第2巻ということです。使徒言行録の14章は、使徒パウロが第1回伝道旅行を終えて帰って来た時のことです。キリスト教会の歴史の中で、多くの宣教者たちが世界中のあちらこちらの地域に出かけて行って福音を宣教してきました。中にはまだ文字を持たない人々の中へ入っていって伝道する、ということもありました。特にここで語っている二人とはパウロとバルナバ、という二人の使徒たちですが、特にパウロはキリスト教の宣教者の中で誰よりも多くの人に福音を告げ知らせ、誰よりも多くの苦難を経験した人だったと言えるかも知れません。彼は同胞のユダヤ人からも迫害を受け、ローマ帝国の迫害をも受けました。ローマで裁判を受けるために長い旅をしましたが、それ以前にも多くの宣教旅行に出かけ、数多くの苦難を経験しました。そのことは、彼が書いた書簡の中に記されています。「鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが3度」、「盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽兄弟たちからの難に遭い」、「飢え渇き」、「寒さに凍え、裸でいたこともありました」と(Ⅱコリント11章23~27節)。
使徒パウロはキリスト教会の初期の段階でぶつかる様々な困難に直面し、時には命の危機さえありました。聖書には記述がありませんが、彼は殉教したと伝えられています。では、14章22節にある、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」という言葉はどう理解すべきでしょうか。苦しみと一口に言っても種々あります。パウロのように宣教の最前線に立って、反対する人たちからの強い風当たりをまともに受ける人たちがいます。最後には殉教するような苦しみです。しかし信徒たちが皆パウロのように宣教の最前線にいるわけでもありません。それでも、社会から迫害されれば、信徒も信仰を捨てるか、保つか、という選択を迫られることがありました。しかしそれは、当時イエスを信じた人たちが神の国に入るには通らねばならなかった道でした。言い換えれば、この世では信仰のゆえにいろいろと苦しみを受けるけれども、その先には神の国が待っているということです。
 今日の私たちも、もしキリスト教信仰の道を歩んでいなかったら、この世の生活で波風立てずに生きるのは、もっと易しかったかもしれません。しかし、神の御子イエス・キリストを知らずに生きていたとしたら、果たしてそれは満たされたものだったかどうか、というとやはり違うのです。信仰によって生きる時には、世の人々との関係では様々に苦労することが多いはずです。偶像を拝まないのですから、それだけでもいちいちやることが違います。そして、一人一人に神が与える苦しみは様々です。しかしそれが信仰ゆえに受けるものであるならば、神がその中で信徒たちを守り支え、神の国まで確実に運んで行ってくれることを忘れてはなりません。だから、パウロたちは信仰に踏みとどまるように人々を励ましたのです。

2.教会ごとに長老たちを任命する
 そして、この世においては、様々な苦しみがあるとしても教会において、一人一人が支えられ守られて生きることができるのです。パウロとバルナバは、教会ごとに長老たちを任命しました。これは今日の教会にもつながるものです。一つは、宣教に専念する使徒パウロたちは、外からやってきて宣教し、またどこかへ出ていきます。しかし長老たちはあちらこちら回るのではなくて、自分の属する教会に根ざしてそこで教会生活を続けてゆきます。彼らはそこの教会で信仰の歩みを続けている人です。
では、長老たちが立てられている目的は何でしょうか。今日の箇所には特別何も言われていません。しかし、長老たちは、先ほど言いましたように、私たちが神の国に入るという目的に仕える者です。長老たちが任命されるのは、信徒たちが羊飼いのいない羊のようになってさ迷うことのないためです。そして、長老という職務は誰に洗礼を授けるのか、誰を教会員として受け入れるのか、を判断します。そして、教会において神の御言葉が正しく語られているだろうか、聞かれているだろうか、ということに責任を負います。場合によっては、宣教に携わる牧師、教師が、間違った教えを語り始めることもあり得るわけです。そのような時、長老たちは御言葉を語る長老である牧師・教師に対して、同等の立場で指摘・忠告・警告をします。そうすることで、信徒たちが誤った教えに惑わされることがないようにするのです。
私たちの日本キリスト改革派教会は長老制という仕組みを採用していますが、聖書には長老制の細かいやり方がすべて書いてあるわけではありません。しかし私たちはそれが聖書に最もかなっていると信じています。そして今日覚えたいことは長老制という仕組みがあるのは、信徒たちが神の国へちゃんと入って行けるように、信仰に踏みとどまるために、そのことに仕える仕組みであるということです。長老制という仕組みをきちんとやっていないと教会として欠けているから、とか教会の姿として不十分だから長老を立てなければならない、ということではないのです。目的はあくまでもこの地上で私たちが信仰にしっかりと踏みとどまって生きるためであり、そしてそれを通して神の御名が崇められるために、という点です。そのために長老を立てるのがより良い仕方であると信じるからです。
私たちの尾張旭教会も、将来的にそうなることを祈り求めるものです。長老を立てることが最大の目的ではないとは言え、そういう仕組みを整えていくことが、神の国を目指して歩む信徒たちにとって、より良いものであるからです。そして、「長老たちを任命した」と言われているように、複数の長老たちを任命することが重要です。選ぶのは会衆から選び、任命は、使徒たちが行いました。今日では、先に長老になっている者たちがその務めを担います。

3.信じている主に任せる
使徒たちは長老たちを任命した後、その教会全体を彼らが信じている主に任せました。各教会に長老たちが任命されたなら、使徒たちは長老たちにその務めをゆだねますが、実は主に任せたのだ、という点を忘れないようにしましょう。使徒たちはいつもそこにはいない。だから長老たちがその会衆を治めます。しかしそうすることによって主に任せたのです。長老たちを通して主がそれぞれの群れを導かれるからです。
最後に、このようにして整えられてきた各教会が歩んで行く中で行った大事なことがあります。それが、27節にある「神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」という点です(15章3、4節も)。教会に来て感じることの一つに報告が多いという点があるかもしれません。もっとも、会社などでも日報週報月報など、報告がしばしばなされることでしょう。教会の報告の大きな特徴は、その報告される内容は、神が共にいてくださって行なわれたことだと自覚している、という点です。報告には予定の公表も含みます(ローマ15章22~29節)。過去も将来もどちらも神が共にいてしてくださった、これからもしてくださる、と信じているからです。信ずる主がなしてくださったことを感謝して受け止める。このことを通して私たちは、信ずる主に任せてきたことを顧みることになります。
主なる神は、イエス・キリストを信じてこの世を歩む教会とその民を必ず神の国へと導いて行ってくださいます。そこにたどり着くまでには、実に様々なことが私たちにふりかかってくるでしょう。それは時には心身に対して重荷となることもあるでしょう。「ああ、クリスチャンとして生きるのは、ある面大変だ」と思うこともあるかもしれません。しかし、信仰を持たず、イエス・キリストの十字架の死と復活を知らず、確実により頼むことが出来る頼れる岩のような主を知らずにいることは、もっと大変だったはずです。だとすれば、私たちのこの世での苦しみを全てご存じである主なる神に任せて歩むことは幸いであると知りましょう。そして、私たちが気になるのは自分の愛する人々、身近な人々のことです。その愛する者が、まず主を信ずることができるように祈ること。そしてその人たち自身が信ずる主に任せる歩みをすることができるように祈るのです。
そして、これからも主なる神が教会に対して、また一人一人に対して御業をなさってくださることを信じて主に任せる。これは教会がこれまで歴史の中でずっとやってきたことです。この信仰をもって歩んでゆけるように私たちは祈り、御言葉に聞き続けます。

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