「罪を担い苦しむ救い主」 2019.2.10
マルコによる福音書 14章27~42節

主イエスは、過越しの食事の際に、聖餐式を制定されました。その後でのことです。イエスは、これ空先、ご自分の身に起こってくること、そして弟子のペトロに関することをお語りになります。そして、ゲツセマネというところで苦しみつつ祈られたイエスの姿が示されます。私たちは、今日示されたこの聖書の記事から、私たちの救い主、と呼ばれる方がどんな苦しみを担われたのか、どうしてそんなに苦しまれたのかを教えられています。

1.羊飼いが打たれる
主イエスは弟子たちがつまずくことを予告されます。つまずくとは、そのまますんなりと歩いてゆくことが出来なくなることです。弟子としてただイエスに従って来た彼らでしたが、この先起こって来ることの中で、弟子たちは今までのように単純にイエスに従って行けなくなる時を迎えるのです。ここではまだ、その先のことはあまりはっきりとは語られません。ただ、弟子たちより先にガリラヤに行く、という御言葉にある一つの希望が示されています。ここは、ガリラヤに先立って導く、とも訳される所です。復活されること、そして弟子たちもガリラヤに行くこと、そこで主イエスと出会うことがほのめかされてはいます。しかし、今はまだ弟子たちは聖霊を受けていないので、イエスと共にあることによって命の危険にさらされることに対して十分な覚悟も備えもできておらず、危機の中で倒れたり、イエスを捨てて逃げてしまうのです。
そして、羊飼いであるイエスが打たれることによって、羊である弟子たちは散らされてしまいます。イエスはこれをゼカリヤ書の預言によって予告されました。「羊飼いを打て、羊の群れは散らされるがよい」(ゼカリヤ書13章7節)、とある預言です。ゼカリヤ書では、「打て」と命令形になっています。イスラエルの牧者=指導者たちに対する神の裁きについての警告となっています。主イエスはその預言を自由に引用して、羊飼いが打たれること、しかもそれは神の御心によることを示しています。羊飼いを打つのは、ほかでもない神御自身なのです。羊飼いである方が打たれ、羊たちが散ってしまうことは神がご存じであり、むしろ神のお考えの内にあることでした。羊が散ってしまうのは、羊の弱さゆえの結果です。それによって、羊飼いが1人残されてしまうことが示されているわけです。次の場面に示されているように、弟子たちは苦しみ祈るイエスを前にしても、目を覚まして祈っていることすらできず、やがてイエスが捕えられる時には、皆イエスを見捨てて逃げてしまいます(14章50節)。主イエスは、弟子たちが散らされることをご存じでしたが、弟子たちにはもちろんそんなつもりはありません。特にペトロは自分だけはイエスにつまずくことなどない、と自信ありげに言いました。他の弟子たちも同じようなことを言ったのでした。しかしイエスはペトロがイエスを否認することをはっきりと予告されました。

2.ゲツセマネの祈り
 主イエスと弟子たちはゲツセマネという所に来ました。そこはイエスがいつも来られる所でした。エルサレムの東、オリブ山のふもとにあり、イエスはそこへ祈りのために退くことがありました。そしてこの時の祈りは特別な祈りとなりました。主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れてゆき、他の弟子たちには座って待っているようにと言われます。ここから先の記述は、福音書の中でも、イエスというお方が一体どういうお方なのかを最もよく現わしている個所の一つです。
 私たちは、イエスは神の御子であると信じています。それは、この世界にただ1人しかいない存在であられます。そして、イエス以外に誰も果たすことのできない、神の前で罪人の罪を贖う、という務めを果たされるお方です。ここでイエスは大変な苦しみを味わっておられます。「イエスはひどく恐れてもだえ始め」られました。ひどく恐れて、とは「驚愕して恐れおののいて」とも訳されます。イエスは天の父なる神のもとから遣わされた方ですから、ご自分が何のためにこの世に来たのか、これからどのようなことが追こるかを、知っておられました。ですから、何がご自分の身に起ころうとも、思いがけないことが起こったわけではありません。しかし、それでも、恐れてもだえる、あるいは驚き恐れて困惑する、というような状態に陥られたのです。
 このゲツセマネの園で起きたことは、イエスが本当に神の御子であり、本当に人間でもあられることを最も鮮やかに示していると言えます。私たちには、1人の人の中に、神としての御性質と人間としての御性質が両方ともある、ということは頭で理解することはできません。唯それを信じるばかりです。そしてここからわかることは、イエスは神の御子であられるけれども、人である以上、悲しみ嘆き、もだえ苦しむということが在り得るということです。
イエスは神の御子で、これから起こることを全て見通しており、結果もわかっているから、十字架にかかることも、大したことではなく、少しの間肉体の痛みを我慢すれば済む、というような生易しいことではありません。人間になられたイエスは、単に十字架の上での肉体の苦しみを恐れておののいていたわけではありません。十字架にかけられるということは、その時、神から見捨てられて呪われた者の状態を味わうことになります。それは、イエス以外の人が決して担うことのできない重荷であり、苦しみです。人間としてだけ考えれば、こんな苦しみは到底担うことはできない、ということになります。しかし、イエスはご自身が神の御子であり、父なる神に遣わされてこの世に来たのであることを自覚しておられました。それゆえ、ご自分がこの世に来られた目的を自ら放棄してしまうことはなさいませんでした。確かに、「この杯をわたしから取りのけてください」と言われましたが、すぐに「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。神の御子であられますから、父なる神と思いを全く一つにしておられます。それでも、苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈られた、ということは本当にイエスが苦悩のただ中におられたことの証しです。もし人が何か役目を与えられたとして、それがその人の命を懸けるほどのものでない場合、役目を遂行するのに苦しみもだえるということはないでしょう。人としてかなり重い役目を担うことになった場合、重荷に押しつぶされそうになったり、緊張で眠れなかったり、不安感が消えなかったり、人間である以上は何かしらそのような感情に襲われることがあるでしょう。
まして主イエスの場合、神の前にあらゆる人々の罪の償いのために十字架刑という恐ろしい刑を受け、しかも神からは見捨てられる状態に追いやられるのです。その苦しみを味わわれ、そしてそれがご自分の精神状態にも大きな影響を及ぼしてきたことに驚き、恐れを抱いたのではないでしょうか。私たちも、大変な状況に追い込まれたりした時、自分がこんなに苦しい思いをするとは予想できなかった、自分がこんなに弱いとは思わなかった、ということで動揺することがあることでしょう。イエスも人である以上、何が起こっても心を動かされない石のような心を持っている超人ではなかったのです。イエスが受けられる苦しみは、他の誰も担うことが出来ないものでした。同じことを経験しようにも経験できない苦しみでした。
 ここに描き出された主イエスの姿は、福音書の中で殆ど唯一の弱さを見せているものです。もう一ヶ所、イエスが人であることを証しする箇所が、親しい友人であるラザロが死んだときのことです。イエスは心に憤りを覚え、興奮して、しかも涙を流されたのでした(ヨハネ11章33、35節)。それ以外では、悪魔に対しても、律法学者やファリサイ派の人々、祭司長に対しても、ヘロデ王に対しても、厳然とした厳しい態度を取られたイエスとは違うようにさえ見えます。しかし、私たちはこのような方だからこそ、人の苦しみをも思いやることが出来るということを知るべきです。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ2章18節)。

3.立ち上がられたイエス
神の御子でありながら人となられたイエスは、他の誰も味わうことのない苦しみを味わわれましたが、父なる神への祈りを通して、ご自分が父なる神の御心を行なうべきことを確認して力強く立ち上がられました。そして弟子たちの所へ戻られましたが、弟子たちは眠りこけていました。心は燃えても肉体は弱い。イエスは弟子たちに厳しくお語りになっているようにも見えますが、やはり根底には弟子たちの弱さを知り憐れむお方の姿があります。イエスは弟子たちを頼りにすることはできませんでした。イエスはただ1人でこの苦しみを担わなければならなかったからです。
しかし、弟子たちは後々、この出来事を通して、自分たちの救い主がいかに苦しまれたかを悟ったことでしょう。罪なき聖なる方であるイエスを十字架に追いやった人間の罪の大きさと重さを悟ったことでしょう。その時彼らはイエスにどう言えばよいかわからなかったとあります。確かにそうでしょう。弟子たちはまだこの時イエスの苦しみの意味が良く分からなかったかもしれませんが、それでも神の言葉を語り、神の力によって様々な奇跡をさえ行ってきた自分たちの主である方の前で自分たちが全く無力で、何も支えることができなかったのですから。弟子たちもまた自分たちの弱さと頼りなさを味わい尽くす必要があったと言えます。
しかし弟子たちもイエスの苦しみと、自分たちの頼りなさと弱さと罪とを味わって、イエスがこうして罪人の手に渡されることを通して、自分たちも含めた多くの人の罪の贖いが成し遂げられるということを知ったはずです。私たちも、弱さと頼りなさと罪深さという点では、ここにいた弟子たちに引けを取らないのではないでしょうか。確かに聖霊降臨の後の弟子たちは、殉教すらもいとわないほどの信仰の勇者になりましたが、やはり超人のような強さを持つ者ではなかったはずです。今日の私たちも、自分の弱さに驚くことすらあるかもしれません。自分は信仰者なのに、こんなに頼りないのだ、と思うことが在るかもしれません。しかしそれでも主イエスはそのような私たちのために苦しみを受け、ご自分を十字架に差し出してくださったことを思い起こしましょう。そして、イエスの苦しみの場から目を背けず、離れず、復活して先にガリラヤへ行っておられると言われた約束を信じましょう。主イエスは私たちよりも先に死を通り抜け、復活されて栄光の神の国へ先立って進まれたのです。私たちにはこのような救い主、神との間に立ってくださる大祭司がいてくださるのです。

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