「黙する時、語る時 愛する時、憎む時」2019.1.6
 コヘレトの言葉 3章1~11節

 新しい年の最初の主の日を迎えました。主の日、というのはキリスト教会独特の表現です。キリストが復活されたのは日曜日ですが、それを週の初めの日と呼んでいます。ですから、一週間は日曜日から始まります。聖書からすると、終末は土曜日であり、週の初めは日曜日です。この日曜日に主イエスが復活されたので、教会では特にこの日を主の日と呼んでいます。ヨハネによる黙示録には、既に主の日という言い方が記されています(1章10節)。
この最初の主の日に当たり、私たちのために十字架にかかられ、復活された主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、すべての日においても主であられる神の御言葉に聞こうとしています。今日は旧約聖書の中でも独特な書物であるコヘレトの言葉から御言葉を聞きます。コヘレトとは「集会で語る者」、あるいは語るために「会衆を集める人」といった意味です。著者は1章1節によるとダビデ王の子であるソロモンのように記していますが、もっと後の人であろう、という説があります。

2.何事にも時がある
私たちはこの独特な書物から、この世の生活、世界、人生とは何か、ということにまで思いを巡らせるように促されます。世の中のことを楽観的に捕える人もいれば、悲観的に捕える人もいます。単にそのどちらかに色分けすることはできないかもしれませんが、このコヘレトの言葉は、はじめからこの世は全て空しい、と言っています。このコヘレトは神を信じて生きている人です。神を信じて生きていても、この世は空しいと嘆くしかないのかというとそういうわけではありません。
コヘレトの言葉は、この世の現実に目を向けさせ、私たちがまずこの世の人の生活や人生、社会の不条理などを見つめ、その上で、私たちはそれをどう受け止め、生きて行ったらよいのか、ということを教えているのです。一見悲観的な物の見方ですが、神のもとでは全てが空しく終わらず、光があることを私たちは知ります。それを踏まえて第3章に目を留めます。ここは、コヘレトの言葉の中でも、印象深く、しかも奥深い箇所です。8節までは「時」について、9節以下は神の業についてです。
 まず、時について。この世では様々なことが次々起こります。それには定められた時がある、とコヘレトは言います。2節以下、生まれる時と死ぬ時、のように対照的なものが挙げられていきます。初めは最も根本的なものを挙げ、そして人の世において常に起こって来ることをいろいろ挙げています。

2.黙する時、語る時
今日は、題として取り上げた7節と8節の、黙する時、語る時と愛する時、憎む時の四つを見ます。まず黙する時と語る時。語るべき時と、黙っているべき時があります。このコへレトの言葉の後の方に、「焦って口を開き、心せいて 神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ」(5章1節)とあります。私たちには神に対して祈る、という神とつながる手段が与えられています。神の前に心を注ぎ出せ、とも言われます(詩編62編9節)。しかし、神の前には沈黙すべき時もあります。まず神の御言葉を聞き、そして思い巡らす。そうして神の御心を探り求めるのです。
 また、人との関係でも、黙るべき時があります。非常に大きな悲しみをもたらすことが誰かに起こった時、私たちはどんな言葉をかけてよいかわからない、ということがあるでしょう。そういう時、言葉を発して慰めようとしても、それができない時もあります。それは黙する時かも知れません。あるいは、自分の立場を考えて発言するのをあえて控える、という場合もあるでしょう。言うべきことを言う立場にある人がいる時には、自分は黙っている、ということもあります。
 そして、語るべき時に語る。自分が語るべき立場にある時、あるいは、誰かが語るべきであると考えられる時に相応しく語る。旧約時代の預言者たちは、主から御言葉をいただいて、それを人々に語るように命じられました。人々が聞いても拒んでも、ただ主の言葉を語るべき相手に語らなければならない、とエゼキエルは言われました(2章7節)。またエレミヤは、主の言葉を受けた者は、忠実に主の言葉を語らなければならない、と命じられました(23章28節)。私たちも、誰かに主の言葉を伝えなければ、と考えた時に、相手が拒んだり聞きたくないと言っているからとすぐに諦めてしまってはいないでしょうか。確かに私たちは誰でもが、上手に、良く語る才能や賜物を持っているわけではありません。まず、黙するか、語るか、その時を見分ける力をまず主に求める必要があります。主の言葉を語るべき時に語れるように主の助けと力をいただきましょう。

3.愛する時、憎む時
 次に、愛する時と憎む時。皆さんはどのような状況や場合を思い浮かべるでしょうか。一つには、その対象が同じ相手であるという場合があります。他方、ある者を愛し他の者を憎む、ということもあります。しかしこの文脈からすると、同じ対象に対して、それぞれの時がある、ということのようです。旧約聖書に、ダビデ王の息子アムノンの話があります。彼は異母姉妹のタマルに恋して無理やり犯してしまうのですが、その直後に激しい憎しみを抱くようになりました(サムエル記下13章15節)。全く身勝手なものですが、人は、初めは愛していたものをすら、いとも簡単に憎むことがあります。アムノンの場合、タマルのことを本当に愛していたというよりも、恋い焦がれて自分の欲望を満たそうとしただけでした。タマルのことは考えてはおらず、その愛は歪んだものでした。愛には偏愛もあれば身勝手な愛もあります。それは尊ばれるべき愛とは言えません。
 かつては心から愛していたものを、愛することが出来なくなった、という場合もあります。これは、先ほどのアムノンの場合とは違います。真の神を知るまでは、私たちは神様抜きの生活をしています。そういう状態での生活をいわば愛している。神を信じて礼拝することは、自分の生活の中でどこにも位置を占めていない。つまり神を愛するということがない、そういう生活です。しかし、神を知り、救い主イエス・キリストを知るようになると、神を愛する、ということが私たちの生活に、そうなると、かつて愛していたものを憎むようになります。つまり神を無視して生きていた生き方を憎むようになるのです。憎むとは愛することの反対です。
 今まで愛の対象になっていなかった神が自分の人生の視野の中に入ってくる。それは自分の愛の対象に、神が入ってこられたのです。神は私たちを、神に背を向けていた状態から救い出して、神を愛する者へと変えてくださいます。愛する時、憎む時、をそのように当てはめると、私たちが神を愛する者へと変えられていくのは、神の定められた時が来たからだ、と言えるわけです。そう考えると、人生にはいろんな時があるさ、と軽く片付けるわけにはいかなくなります。神を知らず、神の御言葉を聞かずにいる。それは神を憎むことだと言われると、いや、そんな知りもしない神を憎んでいたわけではない、という反論が出るかもしれません。
 しかし主イエスは、第一に愛する者に比べれば、それ以外のものは憎むことだ、と言っておられます(マタイ10章37節、ルカ14章26節)。家族でさえこれを憎まないなら私の弟子ではありえない、と言っておられますが(ルカ14章26節)、それは隣人愛や家族への愛を否定しているのではありません。たとえば家族から、イエスを信じて従うのはやめてくれ、と言われたとしても、それでもイエスへの信仰を捨てないかどうか、ということです。その覚悟で私のもとに来なさい、というのです。そして、もしそうして神と主イエスを愛する道へ歩み出すなら、その人と共に主イエスはおられて、その人を救い、導き、助けてくださる方だとわかるのです。
 ですから、キリストを信じるということは、家族を捨てるのでも、家族を文字通り憎むのでもありません。この世において何よりも大事なものとされている家族、大切な人々への愛にまさって、主なる神を、主イエスを愛するか、ということなのです。この場合、第一に愛する方以外を憎む、という、極端な表現を用いているのです。これほどの、愛するか、憎むか、という両極端の間に挟まれたら、私たちはどうしたらよいでしょう。私たちは、神を愛し、救い主イエスを愛するという道に入り込んだなら、実はそこから新たに家族や隣人を愛する道へと導かれます。愛する家族は、イエスの座つまり神の子、私の救い主、罪の贖い主の座に着いてもらうことはできません。しかし、愛する家族も、同じ主イエスに救われ、愛され、贖われることを求めます。それが何よりの幸いだからです。神はそのような時を、私たちに備えてくださっています。
私たちは、神のなさる業を始めから終りまで見極めることはできません。しかし、見極めなくても、神は見極めておられますから、委ねればよいのです。全て時宜に適うように造られたのですから。そのことを信じて、今年始まった歩みを続け、神の定められたいろいろな時の中で、その御業を期待し、神の愛の内を歩ませていただきましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節