「まさか私のことでは」2019.1.13
 マルコによる福音書 14章10~21節

再びマルコによる福音書からお話しをします。主イエス・キリストは、ご自分がやがて捕らえられ、苦しみを受け、殺されることを知っておられました。それはご自身が天の父なる神のもとから来られたこと、そしてこの世に生まれたのは、多くの人の罪の贖いのためであることを自覚しておられたからでした。それは神の御子として知っていたのであり、単に人間的にみて、このままいけばユダヤ人の指導者たちの反感を買って殺されることになるだろう、というような予測とは全く次元が違います。イエスは、ご自分の民の罪の贖いのために救い主としてこの世に来られた方だからです。14章3節以下、べタニアで一人の女性に香油を注がれたことも、ご自分の葬りの準備だと言われました。それに対して今日の箇所では、弟子の一人であるユダの裏切りが記されます。主イエスに最も近くいたはずの弟子の一人がイエスを裏切る。この特別な出来事によって、イエスは当局者に引き渡され、そして十字架の死へとつながってゆきます。私たちはこの箇所で、神がこの世に対してお考えになった、人々の救いのための壮大なご計画が、一人の弟子の裏切りによって実現してゆくことをみます。そしてこの出来事は、ドラマを見るようにして読み、また聞いている今日の私たちに対しても鋭く問いかけてきます。「まさかわたしのことでは」という弟子たちの不安な言葉が、私たちの心にも影を落とすかもしれません。そんなことを心に留めながら、この出来事を見てゆきましょう。

1.過越しの食事の席で
イエスは、弟子たちと共にイスラエルの人たちが行ってきた過越しの食事をしようとされます。遡る事1,300年くらい前、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいました。人々の叫びを聞かれた神はモーセを遣わしてイスラエルの人々をエジプトから脱出させてくださいました。それを記念して過越の祭りが行われていました。
人々は、神がエジプトから救い出してくださった時のことを思い起こし、羊または牛を屠って食事をし、その後には酵母を入れないパンを食べます。酵母を入れないで急いで焼いたことを思い、エジプトから出た日を生涯思い起こすようにと命じられていました(申命記16章8節)。その食事そのものについては、22節以下で示されます。今日はその準備のためにイエスが弟子たちを都に遣わし、食事の際にはご自身を裏切る者について話された場面です。
まずイエスは、どのように準備しましょうか、という弟子たちの問いに対して、既に準備ができていることを語られます。イエスは予め都に行って、誰かに頼んでいたのではないか、と見ることもできなくはないのですが、ここでイエスは水瓶を運んでいる男に出会うこと、その男に聞けば2階の広間を見せてくれることなど、これから起こることを見通しておられるように見えます。11章で都に入られる時にも、ろばを手にいれるのに似たようなことがありました。やはりイエスは神の御子として、先に起こる事を予見しておられたのであり、単に用意周到な方であった、というのではなくて、人々の動きすらもご存じで、それらの人々を用いられたとみるのが妥当だと思います。

2.イエスを裏切ろうとしている者
 夕方になって一同が食事の席についているとき、イエスは弟子たちにとって非常に衝撃的なことを言われます。弟子たちの一人でイエスを裏切ろうとしている、と。10、11節で言われていたユダのことです。彼はイエスを裏切ってユダヤの祭司長たちにイエスを引き渡し、見返りとして金をもらおうとしていました。ユダがなぜこんなことをしたのか、何がユダをこんな行動へと追いやったのか、福音書記者のマルコは書いていません。他の福音書では、サタンつまり悪魔がユダに入った、と書かれています(ヨハネによる福音書13章2節)。しかし、ユダは悪魔に操られていたわけではなく、やはり自分の意志でイエスを裏切ったのです。このことは良く覚えておきましょう。
イエスは、ご自分は聖書に書いてある通りに去って行く、と言われました。人の子、とはイエスがご自分のことを指して言われた独特の言い方です。イエスはご自分がこの世を去って行くことについて、聖書に書いてある、と言われます。聖書とはここでは旧約聖書のことです。旧約聖書には、人々を救うためにこの世に到来するメシア=キリストのことが示されております。一人の、苦しみを受ける人物として描き出されてもいます。その方は正しい方で、自分には罪がないにもかかわらず自分以外の多くの人の罪を担って殺されることになる、と予告されていました。イエスは、自分がそのように聖書で予告されているメシア、つまり救い主である、と言っておられるのです。これは実に大変な発言です。長年人々がその到来を待ち焦がれていたメシア=キリストは自分である、というのですから、重大発言です。ユダは、そういう方を裏切ろうとしているのです。
しかし、ここには私たちの頭では理解できないことがあります。ユダの裏切りによってイエスは引き渡され、十字架刑に処せられることになります。ユダが裏切ることによってイエスが十字架にかけられますが、その十字架にかけられるということが実はイエス以外の多くの人々の罪の償いのわざとなります。しかもユダが裏切るのはサタン=悪魔がユダの心にそのような思いを入れたというのです。しかもユダはその責任を免れることはできません。イエスから、生まれなかった方がその者のためによかったとまで言われるのですから。私たちにわかることは、神は全能のお方であり、すべてのことをご存じであり、すべてをお考えの通りに行うことができることです。神が考えてもいないことや関知していなかったことに神が驚かされるということはありません。しかし、それでも悪魔の働きや、人間の罪や悪だくみがあり、それによってこの世に悪事が起こり、罪なき方が金で売られて処刑される、ということが起こってきます。それは決して神がユダを操られたということではありません。ユダは自分のしたことの報いを受けることになるのです。その点を心に留めて、最後に他の弟子たちが次々に口にした一つの言葉に注目しましょう。

3.まさか私のことでは
イエスが、弟子たちの誰かが自分を裏切ろうとしている、と言われた時、弟子たちは代わる代わる「まさかわたしのことでは」と言い始めました。弟子たちは自分の弱さや頼りなさを承知していたと言えます。自分はイエスを裏切るつもりなどない、とユダ以外の者たちは思っていたはずですが、「まさか私のことではないだろうか」と思ってしまう。自分はこれから、そんな大それたことをしてしまうのではないか、と思わずにいられなかったのです。確かに弟子たちはこの時は、まだ天から遣わされる聖霊の恵みに与っておらず、復活の主イエスを見てもいません。イエスという方をまだ良く知らない薄い信仰でした。ペトロは、この後「あなたは、今日、鶏が二度鳴く前に、3度わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスから言われた時、力をこめて、「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました(マルコ14章31節)。しかしイエスの言われた通りになりました。
私たちは、信仰をもって生きているか吟味しなさい、と言われています(Ⅱコリント13章5節)。もし主イエスが目の前に現れて、「あなたたちのある者が私から離れようとしている」と言われたら、「まさか私のことでは」と不安になるでしょうか。それとも、「決してそんなことはいたしません」と力を込めて言うでしょうか。
ここではイエスを裏切る、という大変恐ろしいことが言われました。今、聖書を通し、聖霊の恵みにあずかり、主イエスを救い主と信じている者は、言ってみればユダよりもイエスのことをよく知っているはずです。そんな今日の信仰者でも、「まさかわたしのことでは」と不安になった弟子たちと同じような気持ちになることがあるかもしれません。「決して離れたりなど致しません」ということを力強く言えない、という弱さを感じるかもしれません。しかし、そう思うならそれは本当に信仰があるからこそ思うことです。主イエスから離れて、自分のために十字架にかかってくださった方を軽んじて生きてゆくことなどできはしないし、そうはしたくない、という気持ちがあるなら、それは主イエスとのつながりの内に生きているからです。
確かにユダは人類の中で他の誰一人としてしなかったことをしてしまった人でした。イエスが殺されることになるために、金と引き換えにイエスを引き渡してしまいました。生まれなかった方が良かった、とまで主イエスから言われるほどでした。このユダの話を聞く時、ユダはどうしてこうなったのだろうか、といろいろ考えがちですが、私たちはユダのことに注目するのはある程度でやめて、自分の信仰を顧みるべきです。「まさかわたしのことでは」と言いたくなるような弱い者であっても、主イエスのもとに立ち帰る者は、必ず赦しに与ることができます。それはペトロが後に立ち直ったことを見ればわかります。
誰にでも、自分はクリスチャンとしてあれはどうだったのだろうか、と思わずにいられないような苦い思い出があるかもしれません。自分はそういう汚点のようなものが一切ない聖人のような信徒ではないことを誰もが知っています。この、弟子たちの頼りなさは私たちに信仰を顧みる機会を与えてくれています。しかし、次回の話になりますが、22節以下は聖餐式の制定のお話です。「まさかわたしのことでは」と言って、弱さと頼りなさと罪の中にいた弟子たちに対して、主イエスは、新しい契約の血を表わす杯をくださいました。私たちは自分の罪と弱さと頼りなさを自分で何とかして、私は大丈夫です、と言えなければ信徒としてだめでしょうか。そうではありません。その罪と、罪に陥り易い弱さを知って、そういう自分だからこそ、救い主により頼むのだ、という信仰に立つのです。そういう者を、主イエスはご自分の流された血によって贖ってくださったのです。

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