「私は救い主を見た」2019.12.22
  ルカによる福音書 2章22~38節

今日は、私たちの救い主イエス・キリストの誕生、すなわち御降誕を祝い記念するクリスマス礼拝です。今、「私たちの救い主」と言いました。この中に、まだ信じてはいないという方がおられたとしても、「私たちの」という言葉をつけて私は言います。聖書には、この世界には私たちが救われるために、「イエス・キリスト」という方以外には与えられていない、と書いてあります(使徒言行録4章12節)。イエスが12月25日に生まれたかどうかというのは、定かではありません。しかし、その日を特定して祝うよりも、神の御子、救い主が私たちのためにこの世に来てくださった、ということが重要なのです。今日は、先ほど朗読したルカによる福音書から、エルサレム神殿で生まれたばかりのイエスに出会った二人の人にまつわるお話です。この二人というのは、シメオンとアンナ、という男女二人です。アンナは84歳と年齢が書いてありますが、シメオンについては書いてありません。しかし、彼の言葉からすると、やはり年老いていた人であったことがわかります。イエスを見て、今こそ自分は安らかにこの世を去れる、と言っていますから、それなりの高齢者であったことが伺われます。

1.神の慰めを待ち望んでいたシメオン
 シメオンは正しく、信仰があつい人でした。イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた、とあります。というのは、このイスラエルは、神による慰めを必要としていたからでした。イスラエルはもともと王国であり、その王の中では特にダビデ王が有名で、その子孫から、とこしえにイスラエル=神の民を治める王が出る、と古くから預言されていました。しかし、このイエスがお生まれになった時代には、イスラエルは没落していまして、王の一族は一般庶民の中に埋没している状態でした。しかし、系図はしっかり残っていましたので、ダビデの子孫は庶民の中に生き残っておりました。国はローマ帝国に支配されており、王はいましたがローマ帝国のもとで認められていた領主という立場であり、いろいろな制限を与えられていました。  そういう中ではありましたが、預言者たちの告げた言葉によると、神の民であるイスラエルは必ず回復される、その国を建てる王なるメシア=キリスト、つまり救い主が到来すると人々は信じて期待していたのです。人々が一般的に期待していたのは、ダビデのように、文字通り国を支配して権勢を振るう地上の王国でした。
しかし、神がこの世に遣わそうとして計画されていたメシアは、この世の政治的権力を握って支配する王とは別物でした。そうではなく、人の命を救う方、魂を死と滅びから救う力と権威を持つメシアでした。メシアとは、キリストという意味で、神によって特別に選ばれて油を注がれて、この世で救いの業を成し遂げる者、つまり救い主のことです。シメオンはこの方が生まれる、ということを神の聖霊によって示されていたのでした。神が慰めてくださる、というのはこのことでした。慰めるとは、単に言葉をかけて励まし、慰めるというより、傍らに来て助け、弁護してくれる存在です。味方になってくれる方であり、大変力強い味方、弁護者となってくださるのです。
私たち人間は、神の前に立たなければならない、と聖書に言われています。自分が生きている間にしてきたすべてのことについて、神の前に弁明しなければならない、というのです。これはある意味恐ろしいことです。すべてを見通しておられる神の前で、心の中にあることも、してきたことも全てを明らかにされたら、私たちは神の前に罪ありとされるしかありません。神様という正しい裁判官の前で自分を裁かれるとしたら、有罪判決は目に見えています。しかし神は、私たちの裁判官であるには違いないのですが、同時に弁護側にも立ってくださいます。私たちの弁護側に立ってくださる。それが慰める、という意味で、先ほどお話ししたとおりです。その弁護人としてきてくださったのが、イエス・キリストです。シメオンは、そういう方が生まれるということを示されていました。

2.神のお言葉どおりに
シメオンは神の聖霊によって、救い主が生まれることを示されていました。なんと幸いな人でしょう。主が遣わすメシア=キリスト、つまり救い主に会うまでは決して死なない、と神から保証されたのですから。シメオンにとって、メシア(キリスト)に会うとは、自分をすべての罪から救ってくださる方に出会うということであり、この方に会うということは、自分の罪はもう赦していただいたと同じであり、安心してこの世を去ることができるのです。シメオンの場合は神の聖霊によってそのことを示されていましたから、彼はその確信を得たのです。そして今日の私たちも聖霊によってイエスが救い主だと教えていただいています。そしてイエスは私たちの弁護者になって慰めてくださいます。シメオンと同じ恵みをいただけるのです。
私たちは、自分がこれまで行ってきたこと、心に思い描いてきたこと、それらを顧みたときに、神様を本当に信じているとしたら、自分の正しさで天国に入れていただけるとはとても思えません。自分は人と比べてそれほど素晴らしい善人ではないかもしれないけれども、まあまあ善良な市民として生きてきて、極悪な犯罪人とは違うから、天国に入れていただけるのではないか、と思いたくなるのが私たちかもしれません。しかし、残念ながら、神の前ではそういうわけにはいきません。人間同士で比べれば、殆どの人は平均点を取れる善良な市民かもしれません。しかし、神の正しさ、清さ、聖なることに比べれば、人間の正しさや正義など、吹けば飛ぶようなものです。
しかし、人間の正しさや正義などにより頼むのではなく、神の御言葉の約束に依り頼む者は、自分の救いについて、全く異なる保証を持つことができます。私たちもシメオンと同じように、既にこの世に来られた救い主イエスを信じ受け入れより頼むならば確かな救いをいただくことができるのです。シメオンが言っているようにこれは神が「万民のために整えてくださった救い」だからです。

3.救いを見た幸い
 シメオンは、自分の目で救い主の誕生を確かに見たのですが、彼は聖霊によって、さらに深く大事なことを示されていました。それは、この幼子イエスは多くの人を倒したり立ち上がらせたりし、また反対し受けるしるしとして定められている、という点です。そして母であるマリアは、剣で心を刺し貫かれるというのです。
 これは、イエスが大人になってから何をなさるかをほのめかしています。イエスが十字架で殺されことを指し示しています。イエスは十字架で殺されることによって、多くの人の罪を担い、その罪を取り除いてくださいました。そのイエス・キリストを信じる人は立ち上がらせていただき、逆に逆らう者は倒されることになります。反対を受けるしるしとはそのことです。そして十字架で殺されるわが子をみてマリアは心を刺し貫かれることになります。これら一連の出来事を通して、多くの人の心にある思いがあらわになります。つまり神に対してどういう態度をとるか、ということがイエスに対する態度で決まる、ということなのです。イエスというお方はそのようなお方であります。だからこそ、神の権威をもっておられて私たちを救うことができるのです。
 シメオンは、まだ赤ちゃんのイエスを見て、その将来に何が起こるかを聖霊によって示されました。それゆえ、シメオンが見たのは赤ちゃんにすぎないイエスでしたが、「わたしはこの目であなた(神)の救いを(神による救いを)見た、と言えたのでした。後で登場したアンナという女性も同じです。シメオンもアンナも、神によって教えられたので、この赤ちゃんが救い主であることを知りました。そして特にシメオンの場合、これで安らかに世を去れる、と言ったのです。たとえ赤ちゃんであっても、イエスを見た。そうであれば、イエスが十字架にかかるところまで見届けなくても十分である。イエスが十字架で殺されることによって自分たちの罪を償ってくださることは神がお定めになったことですから、確かなことです。だからイエスを見たらそれで充分なのです。
 今日の私たちの場合は、シメオンと何か違うでしょうか。私たちの場合は、既に十字架にかかられたイエスを知らされています。確かにイエスは十字架で殺されました。そしてシメオンが予告した通りになりました。特に信じた者は立ち上がらせていただきました。罪と死と滅びの中から、立ち上がらせていただいたのです。私たちはシメオンと違って肉眼でイエスを見てはいません。しかし信仰によって見ることができます。信仰によってイエスに出会うことができます。今、この礼拝を通して、イエスは私たちに出会ってくださいます。そのイエスを見たなら、私たちも安らかに世を去ることができます。自分の罪が赦されるかどうか不安になる必要はない。すべてイエスにゆだねればよいのです。イエスが十字架で死の刑罰を代わりに受けてくださったのだから、もう私は罪の罰を受けなくともよいからです。私たちもシメオンやアンナと共に、この目で、信仰の目で、神による救いを見た、と言わせていただける。これに勝る幸いはありません。

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