「見よ、救い主が生まれた」2019.12.15
マタイによる福音書 1章18~25節

 クリスマスはなぜあちらこちらの国々で多くの人々によって祝われるのでしょう。特に欧米諸国ではクリスマスは大変盛大に祝われます。伝統的にキリスト教の国が多いですから、本当にイエス・キリストの誕生を祝う気持ちで過ごす人もそれなりに多いかもしれません。少なくとも日本よりはそうだと思います。日本では、殆ど単なる商業ベースに乗っかったお祭りごとになっていて、クリスマスプレゼントとケーキとごちそうによってパーティーを行って楽しむ時、となっているように見えます。最近ではハロウィンもですが、日本人は外国のものを取り入れて自分流のものにしてしまうのが得意ですから、このようになりやすいのでしょう。そういう国に生きている私たちですが、今日は、聖書を前にしています。今日は金城学院高等学校のハンドベルクワイアの皆さんも、午後からのコンサートを前に礼拝から出席してくださっています。日頃聖書のお話を聞いておられる高校生の皆さんにとっては、聖書の教えと、一般の世の中でのクリスマスの祝い方のギャップを感じておられるかもしれません。今日は、神がくださった聖書が教えているクリスマスの出来事について、改めてその教えに聞きましょう。

1. イエスの母マリアと、その夫ヨセフ
 先ほど朗読した箇所には、イエス・キリストの母となるマリアが、婚約者であるヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもった、というお話が書かれていました。今日、結婚しようとしている男女が、結婚する前に関係をもってしまう、ということが普通に語られる時代になっています。芸能人同士の結婚などでも、出来ちゃった婚などという言い方がされて、結婚前に妊娠していても当たり前みたいな風潮があります。それに異を唱えたりすると、古いとか言われそうですが、やはりそうではありません。人間には、神の定められた結婚という制度があり、一組の男女が夫婦となり、そして子を産み育てるようにされています。子どもの生まれない夫婦もありますが、子どもがいてもいなくても、その二人は結婚という形で契約を結んで生きていくものなのです。このような観念がないと、好きになった男女が関係を持ったとしても、子どもができなければそれでいいじゃない、という考え方になってしまいます。
 先ほどのマリアとヨセフは、婚約していましたが、まだ一緒に暮らしていませんでした。「二人が一緒になる前に」ということは、二人の間には男女の関係はまだなかった、ということを明らかに示しているわけです。マリアが身ごもったのは、ヨセフにはよらない、もちろん誰かほかの男性によるのでもない、ということです。
 しかし、当のヨセフは、マリアが身ごもったことが分かるようになってきてからも、しばらくはどうして彼女が身ごもったのかを知らずにいました。マリアは神の聖霊によって身ごもったからです。夫となるべきヨセフも知らない仕方でマリアはイエスを身ごもりました。その事実を知ったヨセフは、ひそかにマリアと縁を切ろうとします。このことは私たちには少しわかりにくいかもしれません。もしマリアのことが人々に知られるようになったとすると、マリアは婚約者がいるのに不貞を働いて他の誰かの子どもを身ごもったのだ、とされて、罪をとがめられ厳罰に処されて命はないかもしれない、とヨセフは思ったことでしょう。それでひそかに縁を切り、マリアとは関係がなかったのだと思われるようにしたかったのかもしれません。しかし、どの道ヨセフと別れたとしても、マリアのおなかは大きくなってきますから、いずれ出産となればいったい誰の子か、ということになります。ですから、ヨセフのもとで、世間的にはヨセフの子どもとして育てられていく以外に、マリアが生き延びることは難しかったのです。主の天使が言った言葉にあるように、ヨセフはこのことについてある恐れを抱いていたのでしょう。どうすべきか悩んだと思われます。それで主の天使はマリアが不貞を働いたのではなく、神の聖霊によってみごもったのだから、マリアを迎え入れるように命じたのでした。

1.イエスと名付けなさい
更に天使はヨセフに、生まれてくる子にイエスと名付けることを命じました。イエスとは「主は救い」という意味です。自分の民を罪から救うからである、と天使は言いました。「罪から救う」という言葉は、私たちの今日的感覚からすると、良くわからないことかもしれません。罪というと犯罪、を思い浮かべます。盗み、傷害、殺人、詐欺、横領、暴行、放火、恐喝など、ありとあらゆる犯罪が世の中では日々起こっています。それらは確かに罪です。そして、通常は裁判で罪が認められれば有罪判決が下されます。
ではなぜ「罪」という言葉や罪の感覚があるのでしょうか。それは、人の心の中に、道徳観、倫理観というものがあって、それは人として、してはいけないことだ、という人間に共通の感覚があるからです。それは実は神様が私たちにくださったもので、「良心」と呼ばれます。それが神様から与えられていて、それに照らして善悪を判断しているのが私たちです。しかしそれだけではなく、宗教の教えもありますし、法律でも決められていて、これを破ったら犯罪、というある基準があります。けれども、世の中では、人が口にしたことや、行動に移したことが裁かれます。心の中で人の悪口を言っても訴えられることはありません。仮にそれを自白しても、誰もその真偽を確かめられませんし、相手に実害を与えていなければ裁けません。ですから、裁判所では人の心の中の思いまでは扱わないし、扱えないのです。でも先ほどの「良心」があるので、例えば人のことを誤解して、心の中で悪口を言ったとします。その後で、事実を知ったとすると、心の中で悪口を言ったことを申し訳なく思い、恥ずかしくなります。それでも、私たちはいつでも良心に従ってもいないのではないでしょうか。心の中で、まあそれくらいは誰でもしているからいいんじゃないの、と自分に甘くなるのです。
そういう私たちは、もし心の中をすべて見透かされて人の前に明らかにされたら、とても恥ずかしくて逃げたくなることでしょう。しかし人には隠せても、神の前にはそれは明らかになっています。神様には何も隠すことができません。そして神様は、そのような私たちの心の中にある悪意、自己中心の考え、ごまかし、偽り、など一切の悪いことを喜ばれません。もちろん、行動に移された悪行は言うまでもありません。そのような私たちの心の中にあるもの、言葉や行動に出てくるもの、それを生じさせる性質。それらすべてを合わせて聖書では罪と言います。神様は何よりも人が神に対して背を向けていることを悲しまれ、そして最後にはその罪の責任を人間に問われます。その時、私たちはどんな弁明もできません。
しかし神様は、私たちに罪を負わせないために、私たちのためにその罪を赦す方法を考えてくださっていました。そのためには、罪を持たない、罪を犯さない聖なる救い主が必要だったのです。

3.見よ、救い主が生まれた
 マタイによる福音書1章21節の「罪から救う」とは、そういう私たちの内にあるすべての罪を赦す、ということです。罪を赦し、その力から解放し、罪の結果罰せられないようにする、ということです。しかし考えてもみてください。神は正しい方で、罪を正しく裁かれます。そして人間のように判決を間違うこともありません。そんな神様が、私たちの罪を赦すためには私たちがそれを償うしかないはずです。この社会では、損害を与えたら弁償し、お詫びをし、場合によっては服役しなければなりません。しかし神様の前では、私たちの罪を自分で償いたくても、私たちには永久に不可能なのです。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く とこしえに払い終えることはない」(詩編49編8、9節)。これが人間の現実です。ではどうしたらよいのでしょうか。少々の良い行いでは、私たちは自分の罪を償うことはできません。私たちの精一杯の正しい行いも、神の正しさの前では汚れた着物のようです(イザヤ書64章5節)。
 しかし、神はそれでも私たちを赦す道を用意してくださいました。罪のない正しい神の御子を十字架につけて裁き、私たちの罪の償いとすることです。代わりに神の御子イエス・キリストが償うという仕方です。それが私たちに与えられた救いの道です。このイエスをただ信じるなら、私たちの罪が赦される、と神は言っておられます。だからこそ、今日の題「見よ、救い主が生まれた」と言いたいのです。「見よ」とは、神のなしてくださった救いの業に注目して、これを素通りせず、見逃さず、軽く考えずに見なさい、そして、神は私たちを愛しておられることを知りなさいということです。
今日、私たちは、このイエス・キリストの誕生を覚えて、そこに、私たちに対する神様の深い愛が込められていることを見なさい、と言われています。この素晴らしい救い主を受け入れることで、私たちにも救いが与えられる。これが神の恵み深い約束です。

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