「イエスは栄光を現された」2019.12.1
 ヨハネによる福音書 2章1~12節

今日からキリスト教会の暦では、待降節に入ります。アドベントとも言います。アドベントとは「到来、出現」という意味がありますが、特に重要な人物の到来とか、重要な出来事が起こることを指します。キリスト教会では古来11月30日に最も近い日曜日から始まるとされてきました。12月を迎えて、特に慌しさを感じ始めるこの時季ですが、改めて救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったこと、つまり神の御子の御降誕について、改めてその意味を学び、それ思い巡らす時としたいと思います。今日の礼拝では、10月まで続けてお話ししておりましたヨハネによる福音書の続きの箇所から、救い主イエス・キリストというお方について、聖書の教えに聞きたいと願っています。

1.カナの婚礼での出来事
 カナという村は、ガリラヤ湖の西方20キロメートル程の所にあり、イエスがお育ちになったナザレという村の北方15キロメートルにあります。イエスの母マリアは、その婚礼で何かの役目を担う立場にあったようです。ユダヤの結婚式は、一週間ほど宴が続くということです。イエスと弟子たちも招かれておりました。ところがぶどう酒がなくなってしまったのでした。ぶどう酒が途中でなくなってしまうのは、新郎新婦にとって不面目なことでした。
 イエスの母マリアは、そのことをイエスに伝えます。彼女がそれを伝えた意図はよくわかりません。しかし、5節のマリアの言葉からすると、やはりイエスに何かを期待していたとみることができます。イエスは初め、マリアからぶどう酒がなくなったことを告げられたとき、ちょっと聞くと母のマリアに冷たい対応をしているようにも見受けられます。まずイエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言っています。普通、母親にこのような呼び方はしません。敵意や無礼さを表わす言い方ではないのですが、もうここでは公の宣教活動に入られた、イエスと母マリアとの関係はいわば新しい関係に入っているといえます。また、「わたしとどんなかかわりがあるのです」という言葉は、「私とあなたは何か」という言い方です。ここで注目すべきは、「わたしの時はまだ来ていません」という言葉です。
 このヨハネによる福音書では、特に「イエスの時」ということについて、後でも出てきます(7章6、8、30節、8章20節)。この7章、8章では、「わたしの時はまだ来ていない」とイエスは言われ、また福音書を書いたヨハネも、「イエスの時はまだ来ていなかった」と書いています。しかし、別の所では、「人の子(イエスのこと)が栄光を受ける時が来た」(12章23節)あるいは「父よ、時が来ました」(17章1節)と言っておられます。
イエスには、事をなさるべき時がある、ということです。主イエスがこの世に来られたのは、民の救い主としてご自分を十字架で献げるためでした。その時、とはご自分が捕らえられて十字架にかけられるその時のことです。イエスは母マリアに、その時はまだ来ていません、と素っ気なく伝えているように見えます。しかし、イエスはその後で水をぶどう酒に変える、という奇跡を行われたのでした。

2.新しいぶどう酒があふれる
 その婚礼の会場には、ユダヤ人の清めに用いる石の水がめが6つ置いてありました。2ないし3メトレテス入り、とは約80リットルから120リットル入りということです。大変大きな水がめです。清めのためとは、食事の前に客の手や足を洗うためのものです。イエスはそれほど大きな水がめに水をいっぱい入れるように召し使いたちに命じます。水以外には何も入っていないことを明らかにするためでした。こうしてイエスは水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われました。ヨハネは、これを「しるし」と言っています。このしるし、すなわち奇跡ですが、これは、単にイエスが物質に物理的な変化を与えることのできる方である、ということを言っているのではありません。もちろん、それだけでも大変なことであるにはちがいありません。
しかし、イエスは、ただ人を驚かせることをして人の関心を惹き付けようとしておられるのではありません。「しるし」を通して御自身が本当に神の下から来られた、世に来るべき方であることを証ししようとしておられるのです。この出来事には、旧約聖書の預言者たちが語っていたことが背景にあります。紀元前八世紀の預言者アモスは預言しました。「見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き ぶどうを踏む者は、種蒔くものに続く。山々はぶどうの汁を滴らせ すべての丘は溶けて流れる」(9章13節)。また、預言者ヨエルは、「シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び躍れ。主はあなたたちを救うために の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。麦打ち場は穀物に満ち 搾り場は新しい酒と油に溢れる」(2章23、24節)。ぶどう酒があふれる、という表現は、神の祝福が豊かに注がれていることを表しています。ぶどうの実が豊かに実って多くの収穫を得られるのは、神の祝福がそこにあることの明らかにしるしです。イエスこそ、それを本当にもたらすことのできるお方なのです。

3.イエスの栄光が現された
この福音書を書いたヨハネは、イエスがこうして水をぶどう酒に変えられたことが、イエスの「しるし」であることと、これによってイエスは「栄光を現された」、と記しました。イエスはこのしるしを行うことによって、御自身が豊かに人に祝福を与えることのできるお方であることを示されました。イエスが婚宴の席で水をぶどう酒に変えられた時、事情を知らなかった婚宴の世話役は、花婿に「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言いました。人々の酔いがまわったころに劣ったものを出す、というのが宴会を経済的にこなすための常套手段だったようです。花婿は世話役が何を言っているのかわからなくて、答えに窮したかもしれません。世話役は「だれでも」と言っていますから世の常として、それくらいのことは誰でもやる、それが普通であり当たり前だと思っていたわけです。人は出し惜しみをします。しかし神は出し惜しみをされません。従って神の御子であるイエス・キリストも、出し惜しみをされませんでした。ご自分が神の御子として、神の力をもって物質を変化させることによって、素晴らしい祝福をもたらすことのできる方であることを示されました。もちろん、ここでのぶどう酒は象徴です。単に良いぶどう酒を提供することがイエスの目的ではありません。
詩編の中に「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ パンは人の心を支える」とあります(詩編104編15節)。ぶどう酒もパンも、人の命を保つための大事な食糧です。そこには、食べ物そのものの味わいや上質な食べ物が人を喜ばせる、という意味も込められています。おいしい食べ物も、おいしい飲み物も、すべては神の恵みであり賜物です。しかし神は、この世において、私たちの胃袋を満たし、味覚、嗅覚、視覚、聴覚、触覚までも満足させ、美食で喜ばせることを最高の目的とされたのではありませんでした。それらの素晴らしい飲食物を通して、神その方に目を向けさせ、命そのものに目を向けさせようとしておられるのです。その命は、毎日胃袋を満たさなければ満足できないようなものではなく、私たちの魂を喜ばせ、満足させるものです。永遠の命の源である神と共にいれば、三食の心配は要らなくなります。それは栄光の神の国で完成します。それをもたらすために天の父なる神がこの世に送られたのが、神の御子であるイエス・キリストです。イエスは飼い葉桶に寝かされた赤子としてこの世に生まれ、人として成長され、時至って公に人々の前に姿を現されて、神の言葉を語り、多くの人々の病気を癒し、奇跡を行って神の力と権威と慈しみを示されました。出し惜しみすることなく良い業をなさいました。しかし、指導者たちの妬みを買い、ついには十字架で処刑されてしまいました。しかしそのことによって、信じる者にご自分の命を献げてくださったのです。
 イエスは十字架につけられて処刑される前に、そのことを予め知っておられましたので、弟子たちと共に最後の晩餐を行い、そこでパンとぶどう酒によって、今日聖餐式と呼ばれる大事な食事の儀式を制定されました。今日、この後でそれを行います。私たちがこの聖餐式をずっと初代教会の時代から行い続け、今も続けているのは、イエスこそ、真に神からの永遠の命を授けてくださる方であると信じ、告白しているからです。水をぶどう酒に変えられて、栄光を現されたイエスを、神の御子、救い主、キリスト、と信じているからです。ですから、パンとぶどう酒は確かに象徴ではありますが、でも象徴以上のものです。なぜなら、この聖餐式という儀式を通して、私たちが本当にイエスにつながっていることをこれ以上ない程に、目に見える形で、手で、味覚で、味わうことができるようにされ、そして信仰によって、神の命を味わうようにされているのだからです。ですから、聖餐式に与る信者は、私にはこれがないと生きていけない、いやこれを抜きにしては、私は生きているとは言えないと思っているのです。このことを覚えつつ今日の聖餐式に与りましょう。未信者の方は、聖餐式はそういうものだ、そして聖餐式にあずかっている信者の人たちは、イエスを抜きにしては生きていないと思っている人たちなのだ、と思って見ていただきたいと思います。そして待降節第一主日に当り、このような救い主が、私たちにこの世界に来てくださったのだということを心から感謝しましょう。

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