元旦礼拝「救いが実を結ぶように」2020.1.1
 イザヤ書 45章1~13節

 新たな年を迎えました。天地創造により、あらゆるものが形を現わしました。神の形に似せて造られた人間は、特年を数え、年月を数えながら生きています。この年月も、神が造られた天体の動きによって数えています。1年間という単位も、地球が太陽の周りを1周する期間を1年としているからで、その意味で私たちは天体とつながりをもって生きています。地球は地軸が傾いていますから季節の変化があり、夜空の星の動きも1年で移り変わっていくので、1年365日という単位を見出した昔の人々は大したものだと思います。しかしそれらもすべて神の御手のなせる業です。ほんの一寸地球の回転軸を傾けることによって季節の変化をお造りになった神の知恵はなんとすばらしいものでしょう。その大いなる神の御力と知恵の素晴らしさを私たちはどれだけ本当に知っているでしょうか。そのことを今日の御言葉は改めて私たちに顧みさせてくれています。

1.神は光も闇も創造された
さて、イザヤ書に目を向けましょう。ここで預言者イザヤは紀元前6世紀のペルシャの王キュロスについて述べています。私たちには別に何も関係ないのではないか、と思えてしまいます。このイザヤ書は前半と後半で、どうも歴史的背景が違うのではないかということで、昔から多くの議論がなされてきました。正月早々、聖書学的な難しい問題をお話しするつもりもありませんが、ただ言えることは、神は長い人間の歴史の中で、御自身が我々人間にお語りになりたいことを、いろいろな時にいろいろな人の手と口を介してお語りになってきたということです。時には遠い将来のことも、私たち人間がまだ存在していなかった天地創造の時のことも、含んでいます。私たちに必要なのは、聖書において明らかにされている神の御言葉をよく聞いて、へりくだって神を知ること、神の御心を悟ること、そして信じ従うことです。そのために聖書は神から私たちに与えられています。この御言葉は、その時のキュロスについてだけではなく、今日の私たちに対しても親しく告げられているのです。
今日朗読しました箇所の中で、私たちの目を引く言葉はいろいろあるかもしれませんが、特に7節は非常に重要です。神は光を造り、平和を創造されるだけではなく、闇も、災いも創造されるというのです。これは私たちの心の中に、穏やかならざる風を吹かせるものではないでしょうか。単純に言って人が神を求める時に、良いものを求めると思います。また、良いことが起こった時には神のおかげだと思い易いですが、何か悪いことが起こった時に、それをそのまま神のせいだとは思いたくない、あるいは思えない、と考えるのではないでしょうか。神を信じている者でも、そういう思いがあるのだと思います。特に信仰者にとって、闇とか災いというものが神によって創造された、とは考えたくないのではないでしょうか。神は愛の神であるべきですし、憐れみと慈しみに満ちた神なのではないでしょうか。神はそうあるべきだ、と私たちは考えているのではないでしょうか。確かに神は愛に満ちた方であり、慈しみ深い方であります。それは本当にそうです。しかし私たちはこの7節の御言葉を聴くようにと召し出されています。では、この御言葉はどのように聞くべきなのでしょうか。

2.救いが実を結ぶために
この御言葉は、聖書の示す神についての教えに沿って理解しなければなりません。文脈を読み取る必要があります。神は平和と災いを同じように並べて述べてはおられません。ここで神が言われることは、神はただ一人、ここで語っておられる方だけであり、他にはいないということ。そして、その神を知るならばむなしさに陥ることはない、ということ(6、7節)。そして神がすべてのものの創造者、造り主であられるのは、神の恵み深い御業が芽生えて、救いが実を結ぶためです(8節)。神にとって一番の関心事は、天地創造に始まる御業によって、人に対して神を知らせるにあたって、救いが実を結び、恵み深い御業がなされて、人とこの世界にその神の栄光が満ち溢れるためなのです。
闇とか災いは、全てその目的のために仕えるものです。あえてご自分の民に闇の中を歩ませたり、災いを経験させたりすることすらあり得ます。しかしそこには、神が救いの実を結ばせようとしておられる御心があることを知らねばなりません。神はいたずらに闇を創造し、災いを創造されたわけではないのです。
新たな年を迎えて、皆それぞれに今年はどのような一年になるだろうか、と考えることと思います。人間として見れば良いことも悪いこともいろいろ起こってくることでしょう。それは過去を振り返ればわかることでもあります。しかし一つ一つを別々にみると良いことと悪いことに分類できてしまうかもしれませんが、神のなさることはつながっています。神の目的は救いが実を結ぶことである。この点を忘れずに、私たちは神のなさる御業を信仰の目をもって歩み始めたいと願います。救いが実を結ぶ、とは、私たち一人一人が信仰の道を歩み続けついには全うすると共に、神の民が神に立ち帰り、神の栄光を現す道を歩み始めることによって知られます。キリストが言われたように、私たちがイエス・キリストにつながっているなら、必ずその実を結ぶことができるのです(ヨハネによる福音書15章5節)。

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