「神の熱意が我らを救う」2019.12.8
  イザヤ書 8章16~9章6節

 今年もイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスを控え、先週の日曜日より、待降節(アドベント)に入りました。今日は旧約聖書イザヤ書の、メシア預言と言われている箇所から、私たちの救い主が与えられる、という神からの恵みを告げ知らせた預言者イザヤの言葉に聞きましょう。

1. 暗闇の時代の中で
このイザヤの時代は、紀元前8世紀です。今とは比べ物にならないほどに科学も文明も、医学も進んでおらず、しかも世界的に現在のような国際連合のようなものがあるわけでもなく、強大な国が力を振るっては、また別の国々が覇権を競って戦いを繰り返す。そんな時代でした。今日と同様に国と国が同盟を結んで、他の国々に対抗する、ということはしばしば行われていました。始終あちらこちらで戦いがあり、領土を奪ったり奪われたり、を繰り返していました。支配者が次々変わり、今の生活がいつどうなるかわからないような状態でした。そのように戦いが始終繰り広げられていれば、人々の暮らしにも大きな影響が出てきます。
ただでさえ、今日よりも病気とそれがもたらす死に対する恐れは、今日よりも大きかったのではないでしょうか。人が死ぬべきものであることは昔も今日も同じではありますが、この、紀元前の時代、医者はいたとしても、今日のように設備があるわけでもないですから、重大な病を発症したりすれば、すぐに死に直面しなければならなかったことでしょう。今のように救急車を呼んで、大きな病院ですぐに手術をして命を取り留めてもらえるなどということは、期待できないのですから。
そういうわけで、特に小国イスラエルにとっては、大波に翻弄されるような時代であり、人々は暗闇の中にいるというのが実情でした。だからこそ「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放、今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」(22、23節)とまで言われるのです。なんと悲惨なことでしょうか。

2. 一人のみどりごが生まれる
 しかし、それほど悲惨な、暗闇の中にいる、と言われる民に光が輝いたのです。この箇所を読むと、この時代に既に光が輝いており、特に五節にあるように、一人のみどりごは既に生まれているように見えます。そして今、成長しつつあるように記されています。このみどりごは一体誰なのでしょうか。このイザヤの預言を読んだ人々は、歴史上、いったい誰にこれが当てはまるだろうかと考えてきました。しかし、イスラエルの歴代の王たちを考えてみても、これに当てはまるような人はいません。ヒゼキヤ、とかヨシヤといった優れた、信仰深い王はいましたが、彼らとて欠けのある、神の前に罪人である人間にすぎません。
 5節後半の描写は、どう考えても普通の人間には当てはまりません。四つのことが言われていますが、二番目は明らかに神その方を示しています。指導者、父、君と唱えられる人はいますが、神、となるとこれは普通の人間には当てはまりません。真の神を信じないところでは、人が簡単に神に祭り上げられてしまいますが、旧約聖書の信仰においては、人を神に祭り上げることは決してありません。ですから、ここに言われているみどりごは、やがて神のような権威と力とを身に帯びる王様のことではなく、もともと神である方が、みどりごとして生まれる、ということを示しているのです。こんな王は歴代の王にはいないから、イスラエルの中には、やがてこのような神の権威を身に帯びる、神と呼ばれるべき方がこの世にお生まれになる、という期待が生じていったのでした。
そして時至って、イザヤの預言から700年以上経ってから、ユダヤの地に一人の男の子が誕生します。それがイエス・キリストです。イエス・キリストは、ユダヤの地にお生まれになり、30数年の地上生涯を送られました。その姿は正真正銘人間であることを表していました。ほかの人と同じように朝起きて、日中は働き、働けば腹も減り、夜になれば疲れて眠る。そのような方としてご自分を世に現されました。しかし、神の権威を持つお方として、人々の病を癒し、悪霊を追い出し、自然の力さえも治めておられました。イエスが人々の前で公に姿を現されたのは3年ほどしかありませんでしたが、その間に、イエスはご自分が神のもとから来た方であることを証しされました。それで、キリスト教会はこのイザヤの預言によって示されているこのみどりごこそ、イエス・キリストだ、と確信するようになったのです。

3.神の熱意が我らを救う
イエスは神の御子として、神の国をもたらしてくださいました。その王国はとこしえに立てられ支えられる、と言われています。イエスは公の生涯に入って約3年で捕らえられ、十字架にはりつけにされ、殺されてしまいました。しかし、罪のない神の御子は、墓の中に納められたままでいる方ではありませんでした。死の力に打ち勝って復活されました。復活されることによって、永遠の命を私たちにもたらしてくださいました。なぜ神はこのようにしてまで、人々を救おうとされたのでしょうか。愛する独り子であるイエスを十字架につけてもいとわないほどに神は私たちを救うことに熱意をもっておられたからです。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる、と6節の最後で言われています。この熱意、という言葉は妬み、とも訳されることがあります。とても強い感情を表す言葉です。
しかしこの言葉をあまり人間的に当てはめすぎない方が良いと思われます。人間が妬みの感情などを抱いて感情に任せて突っ走るとろくなことはありません。人間は自分の感情をなかなかうまく制御できないこともあります。熱意はあっても空回りしてしまうこともあります。そしていくら熱意はあっても、始めたことを成し遂げることができるとは限りません。人間にはすべてを見通す力はありませんし、判断を間違うこともあります。そのような人間と、神とを同列においてしまうことはできません。
神は人よりも知恵において、力において、愛と慈しみにおいて、はるかに勝るお方です。ましてや神はご自分の力でご自分の存在を永遠に保つことのできるお方です。そこは人間と決定的に違います。優れた熟慮をもって計画を実行に移されます。一人のみどりご、神のみ子イエス・キリストをこの世にお遣わしになるのは、ユダヤの人々のためだけではありません。全世界の人々のためです。このみどりごの肩には権威があります。人々を罪から救い、罪を赦す権威です。すべてを正しくさばく権威です。苦悩の中にある人を救うことができます。
たとえ社会が暗黒のように思えても、この世が苦悩に満ちている、と思えてどうにもならないと思えても、救うことができます。この方の造る王国は、正義と恵みの業によってとこしえに立てられます。「正義と恵みの業」とは、「公平と正義」とも訳されます。そして「平和」が確立され、絶えることがありません。私たちはクリスマスを前に、待降節を過ごしています。このような素晴らしいみどりご、救い主イエス・キリストのご降誕を心から感謝して祝う。そういう時を私たちは今年も与えられているのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節