「私はいつも主に目を注ぐ」2019.12.29
 詩編 25編1~22節

 私たちは12月にクリスマスを迎えて救い主の御降誕を祝い、そして年末となり、新年を迎えます。このことは地上に生きている限りは毎年続きます。子供の頃は、クリスマスや年末、正月が楽しみで何となくうきうきした気がします。しかし年を重ねてくると、うきうきするようなことばかりではない、ということもわかってきます。もちろん子供の頃でも、良い思い出ばかりではない、という方もいることと思います。年末に大病をした、とか家族が亡くなった、とか経済的にぎりぎりでしのいでいた、などということもあったかもしれません。毎年繰り返すけれども、毎年何かは違います。そして確実に地上の歩みの日は短くなり、天の御国が近づいてくるのです。しかし、慌しい年末を過ごすのに、天を仰いでばかりもいられない、というのが私たちの現実なのかもしれません。確かに、神を信じて生きる者は、この世でただ天国に憧れてそれを待ち望むだけではなくて、この世を神の御国を憧れながらしかも周りのことにも目を注いでおり、しかも決して主から目を逸らさないでいる。そういう歩みへと招かれているのであります。今日は今年最後の主の日に当たり、この詩編25編で教えられていることに心を留めたいと思います。

1.詩の形式と歌われる内容
この詩には、「敵」(2、19節)とか「いたずらに人を欺く者」(3節)、「不法を仕掛ける者」(19節)が出てきます。また、自分の「若いときの罪と背き」について述べています。さらに「恥」、「悩む心」、「痛み」、「貧しさ」、「労苦」、「苦難」という言葉も出てきます。これらを合わせてみると、作者はどうも平穏無事な状況には置かれていない、ということがわかります。つまり、外にも、自分自身の中にも、自分の過去にも、自分を苦しめて困難な状況に追い込もうとするものがいろいろあるというわけです。しかし最後の行で、イスラエルをすべての苦難から贖ってください、と言っていますから単に個人的な苦しみだけに関心があるのでもない、ということもわかります。
また、この詩は(アルファベットによる詩)と冒頭に書いてありますように、「いろは数え歌」のようなものです。各節の頭の文字が、順番にヘブライ語のアルファベットに並んでいるのです。詩編の中に箱のようなアルファベットによる詩がいくつかあります。ヘブライ語のアルファベットは22文字あります。この詩はちょうど22節ありますからわかりやすい構造です。考えてみれば、苦しい時、困難な状況が自分を取り囲んでいるとき、詩を書くこと等できるでしょうか。ましてや技巧を凝らしてアルファベット数え歌を作ることはなどできない、と多くの人が思うのではないでしょうか。とすると、この詩は、作者が困難な状況から助け出された後に振り返ってこの詩を書いているのかもしれません。その際には、多少の技巧を凝らして数え歌にできたのかもしれません。しかし、作者の心の中に、字神への信仰と信頼の思いがあるからこそ、技巧を凝らすこともできるのです。中身がない所でいくら技巧を凝らしても、上っ面の言葉だけの詩ができるばかりです。

2.神に依り頼む
作者は神に依り頼む人です。さて、私たちはこの一年、神に依り頼む人だったでしょうか。一年の終わりに、このことを顧みるのは有益です。他の詩編では、母の胎にある時から神に寄りすがってきた、と歌っているものがあります(22編11節、71編6節)。これは自分のことをある程度客観的に見ている言い方です。母の胎にある時のことなど、何も覚えていないので、自分は自覚していなかったけれども、神に寄り縋って生きていた。神に依らなければ生きていることさえできなかった、という事実を言っているわけです。しかしこの25編では、自覚的に意識的に神に依り頼む、と言っています。とても信仰深い人の信仰告白です。けれども、作者は自分の罪を知っています。若い時の罪ばかりでなく、自分という人間が、神の前に罪深いことを知っています(11節)。自分の弱さと罪深さを知っているからこそ、主なる神に依り頼むのです。「主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます」(8節)。神の前に罪を認めてへりくだる人に対して、主は憐れみ深く、その罪から救われる道を示してくださることを知っているのでこのように言うことができます。
そして作者は、自分の罪を赦していただくのは、主の御名のためである、と言っています(11節)。人間の内にある罪はすべて神の怒りに値するものです(エフェソの信徒への手紙2章3節)。ですから、罪の赦しはただ神からしかいただくことができません。そして神は、正しい方であるだけではなく、愛と憐れみに満ちた方でもあります(同4節)。人間の罪を赦す、ということはただ一人の正しく、愛と憐れみに満ちた神のみがなしうることです。だから、罪を赦すことによって神の御名があがめられることになります。ほかの誰かが罪を赦すことができるくらいなら、それは神にのみ栄光を帰さなくてもよいことになってしまいます。しかしそんなことはあり得ません。罪深い人間は、神に対する人間の罪を赦してそれを取り除くことなどできるはずもないのです。

3.いつも主に目を注ぐ
それだからこそこの作者は、ただ神にのみ目を注ぎます。しかしながら、私たちがこの世に生きている間、私たちは始終いろいろなものに目を注いで生きているのではないでしょうか。日々の生活のために、いろいろなものに目を留めなければなりません。日々の食事のこと、健康のこと、家族のこと、経済的必要のこと、家や持ち物の修理のこと、仕事のこと、人との付き合いのこと、そして自分の嗜好や趣味や欲求を満たすものを求めること、など様々です。特に現代人はあらゆる情報がたちどころに目と耳に入ってくる時代に生きていますので、注意して周りに目を配らなければなりません。毎朝、テレビのニュースで詐欺に引っかからないように注意を促す、という状況は、よくよく考えてみると実に異常なことではないでしょうか。この世は、私たちの目の向く方向をあちらこちらに分散させるものに満ちています。
そういう中で、聖書を通して神の恵みと救いの御業に心を留めさせていただいた人は、幸いです。真の唯一の神に目を留め、救い主のなさった御業に心を留めるように導かれた人は幸いです。先週、私たちは救い主の御降誕を祝い、クリスマス礼拝を献げました。それは主のなさったことに目を注ぐことです。聖書には神のなさった恵み深い御業と御言葉が示されています。私たちはそれらに目を注いできました。そして自分自身に主がなしてくださった救いの御業にも目を注ぐことができます。そして忘れてならないのは、主がなしてくださったことだけではなく、主なる神にその方に目を注ぐということです。過去も現在もそして未来も、主なる神が導き、憐れんでくださることを信じて主その方に信頼していくことです。
具体的には日々、一日の歩みを主にゆだねて始め、一日の終りには顧みて主に感謝し、罪の赦しを求め、夜の間も御手にゆだねて眠る。確かに私たちは先ほど言ったように一日の歩みの中で、始終いろいろなことに目を向けなければなりません。ですから、ここで言ういつも、とは、主に目を注ぐことを継続的に続ける、日々それを繰り返す、ということです。それは主の祈りに示された祈りを、毎日継続するということでもあります。主の祈りを毎日、心に留めて祈る人は、いつも主に目注いでいることができます。それは神の前にある自分を、日々立ち止まらせて主の前に置くことです。それを継続してゆくこと。それは神が私たちに与えてくださった恵みの手段であり(ウェストミンスター小教理問答問88、89)、私たちはそれを日々繰り返すことでますます主に近く歩ませていただけるのです。

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