「あなたの隣人を愛しなさい」2019.5.19
マルコによる福音書 12章28~34節
今日は「あなたの隣人を愛しなさい」という、聖書全体を通してとても大事な戒めを神から私たちは受けている、ということを教えられています。隣人愛の教えは、キリスト教の教えの中でも際立って大事なものであることは、世の中の割と多くの人が知っていることかも知れません。この戒めが何を意味しているのか、何のために与えられているのか、私たちはこれを聞いてどうすべきなのだろうか。このような問いを念頭に置きながら、この聖書の教えに聞きたいと思います。
1.律法学者の問い
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という、一人の律法学者の問いに対してイエスは、二つのことを言われました。まず、隣人を愛しなさい、の前に、唯一の神を愛しなさいという戒めがあります。この神は唯一の神ですから、他の神々にも同じように愛を注ぐのではなく、ただ一人の神だけを愛する。そして、神に対しては、心と精神と思いと力を尽くしてです。言い換えれば全身全霊で、最高に心からの愛をもって愛する、と言えます。
更に主イエスは、第二の掟として「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。隣人を愛する場合は、神に対する愛とは明らかに違って、自分のように愛しなさいと命じられています。基準が違います。ここには、人間は自分のことは誰でも愛している、という前提があります。人は、自分のことを愛せ、と命じられなくても普通は自分のことを愛している、と言えるからでしょう。確かに私たちは誰からも命じられなくても、自分にとって良いと思うことを選択します。快適な環境を求め、飢えや空腹を満たそうとします。生きていくのに必要なことを自然と求めていきます。自分の利益になることを特に意識しなくてもやっているのです。隣人に対しては、神に対するのとは違って全身全霊をもって愛するほどの愛を求められていません。しかし、目の前にいる人は自分と同じ人間だから食べなければ腹が減るし、のども渇く。少しでも快適に過ごしたいと思う。自分と同じように目の前の人が過ごせるように手を貸し、配慮をしなさい、ということです。旧約聖書では、レビ記19章18節という所に、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられており、これが隣人愛について一言で語っている掟です。
2.隣人とは
主イエスは、ある時、何をしたら永遠の命が得られますか、と質問してきた律法の専門家に対して、これら二つの戒めを守るようにと言われ、相手が隣人とは誰ですかと聞いてきたところ、あるたとえ話をされました。善いサマリア人の話として有名です(ルカによる福音書10章25節以下)。ある人が追いはぎに襲われ半殺しにされていたところ、神に仕える祭司やレビ人は、道の向こう側を通って行ってしまいました。
しかし、ユダヤ人と仲の悪いサマリア人が通りがかり、この人を憐れに思い、傷の手当てをし宿屋に連れて行って介抱し、宿代まで出してやり、宿屋の主人に、余計に費用が掛かったら帰りがけに払う、とまで言った、というお話です。そしてイエスは祭司、レビ人、サマリア人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか、と問われました。律法の専門家が、「その人を助けた人です」と答えると、イエスは、「行ってあなたも同じようにしなさい」、と言われたのでした(同37節)。このたとえ話では、隣人を愛することについて、隣人とは誰か、ということと、その隣人を愛するとはどういうことかを教えておられます。隣人とは自分でえり好みをして誰かを隣人にするのではなく、日常の中で、自分の相対する状況において、何らかの関わりを持つようになった人のことで、その人が助けを必要としているなら、その人のために自分を愛するがごとくに愛しなさい、と教えておられます。
しかし、このたとえ話を見ますと、隣人を愛するのは、そんなに簡単なこととは思えません。何しろ、このサマリア人は、追いはぎに襲われた人の手当てをし、宿屋まで運び、宿代まで不足が出たらそれも払ってお世話をしたのですから。襲われた人は持ち物もお金もないのですから、あらゆることの費用を自分が持ったのです。油にぶどう酒、宿代、そして時間も、このサマリア人は追いはぎに襲われた人のために費やしました。このサマリヤ人は、もし自分が襲われた者だったとしたら、通りかがった人にこのようにして助けてもらいたい、ということをそのまま実行したわけです。そう考えてみると、自分にように隣人を愛する、というのは容易なことではない。ましてや心と精神と思いと力を尽くして神を愛する、ということになれば、一体どれほどのことになるでしょうか。
3.隣人を愛するとは
これに関連することを教える別の出来事がありました。このマルコによる福音書の10章17節以下にあるお話です。やはりある人が、永遠の命を得るには何をすれば良いかをイエスに尋ねました。イエスは「殺すな、盗むな、奪い取るな、父母を敬え」という掟を知っているはずだ、と問い返します。すると彼は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。するとイエスは、あなたには欠けているものがあるから、持ち物をみな売り払い、貧しい人々に施しなさい、と言われました。ところがこの人はたくさんの財産を持っていたので、悲しみながら立ち去ってしまいました。そんなことはできないと思ったからです。彼は、自分は子どもの頃から掟を守ってきた、それはつまり、隣人を愛することは子どもの頃からやってきた、ということだったのです。しかし、イエスに言わせれば足りないことがありました。この金持ちの人は、持物を売り払うことまでは全く考えていなかったわけで、そこまでしなくても、隣人愛の掟は守っている、と思っていたのです。イエスはこの人にとってはたくさんのお金に執着する心があることを見抜いておられました。先ほどのサマリア人の場合、全財産を追いはぎに襲われた人に施したわけではありません。彼にできる限りのことをしたのでした。それでもイエスは言って同じようにしなさい、と言われました。杓子定規にこうすれば隣人愛を行なっている、とは言えないのです。全財産を人に施しても、自分を犠牲にしても、愛がない場合があると使徒パウロは書いています(Ⅰコリント13章3節)。愛がなければ、いくら外見は人に良くしているように見えても何の益もないと。
こうしてみると、この隣人を愛しなさいという戒めは、簡単に守っていますとか守ってきましたなどと言えないものであることがわかります。今日朗読したマルコによる福音書12章では、イエスは、適切な答えをした律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。彼はどんな献げ物やいけにえよりも、この戒めを行うことは優れている、と理解していました。それは適切な答えでした。しかしそれではまだ神の国に入っているというわけではない。彼はまだ、この掟の前に立たされています。しかし、神の国から遠くはない。その道を進んでゆけばよいのです。しかし進んでゆくと、その戒めの大事なことはわかるが、それを行なうことのできない自分がいることに気づかざるを得なくなります。
そのような私たちのためにおられるのが救い主イエス・キリストです。イエスは、心と精神と思いと力を尽くして神を愛しなさい、という戒めはおろか、あなたの隣人を自分のように愛しなさい、という戒めも守れない私たちの罪深さをご存じです。人は自力では、つまり自分の正しさを神の前に持ち出すのでは、決して永遠の命を得ることはできない。つまり神の国には入れないのです。それでも、そのことを認め、イエスのもとに来るならば、私たちは神の国に入ることができます。そうして、新たに神を愛し、隣人を愛する道へと押し出されていくのです。
なぜなら、イエスはご自身を十字架で献げてくださいました。それは先のパウロの言葉によれば、イエスが私たちを愛してくださって、その愛の現れとして御自身を献げてくださったのです。イエスこそ、心と精神と思いと力を尽くして神を愛し、隣人を愛してくださったかたです。イエスにおいては、十字架の苦しみを受けて死ぬ、ということが、私たちへの愛そのものの現われでした。
私たちは不完全な罪深い者です。今、この社会で隣人を自分のように愛する、ということを無意識の内にも行っている人々がいることを私たちは知っています。人のために自分の利益を度外視して施しや、慈善、ボランティアなどに力や時間や金銭を提供する人々がいます。隣人愛から出ているなら、それ自体は尊いことです。しかしやはり私たちは不完全です。そういう私達に代わって神への愛と隣人への愛の道を全うされた救い主イエス・キリストにより頼むならば、私たちの不完全な神への愛と隣人への愛にも拘らず、私たちを神の国に入れる者としてくださるのが、神による救いの道なのです。
イエスはこの律法学者に、あなたは神の国から遠くない、と言われました。それは、神の国に私たちを入れることのできる権威を持つお方だから言える言葉です。御自身が私たちの罪を担って十字架にかかってくださる方だからこそこのようなことを言えるのです。このイエス・キリストにより頼み、愛そのものである神を愛し、隣人を愛する者へと私たちは変えていただけます。それは生涯その道に歩み続けることです。人に見せるためでも、自己満足のためでもなく、そういう者に造り変えていただける(エフェソの信徒への手紙2章8~10節)。それは、実に神の恵みであります。
1.律法学者の問い
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という、一人の律法学者の問いに対してイエスは、二つのことを言われました。まず、隣人を愛しなさい、の前に、唯一の神を愛しなさいという戒めがあります。この神は唯一の神ですから、他の神々にも同じように愛を注ぐのではなく、ただ一人の神だけを愛する。そして、神に対しては、心と精神と思いと力を尽くしてです。言い換えれば全身全霊で、最高に心からの愛をもって愛する、と言えます。
更に主イエスは、第二の掟として「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。隣人を愛する場合は、神に対する愛とは明らかに違って、自分のように愛しなさいと命じられています。基準が違います。ここには、人間は自分のことは誰でも愛している、という前提があります。人は、自分のことを愛せ、と命じられなくても普通は自分のことを愛している、と言えるからでしょう。確かに私たちは誰からも命じられなくても、自分にとって良いと思うことを選択します。快適な環境を求め、飢えや空腹を満たそうとします。生きていくのに必要なことを自然と求めていきます。自分の利益になることを特に意識しなくてもやっているのです。隣人に対しては、神に対するのとは違って全身全霊をもって愛するほどの愛を求められていません。しかし、目の前にいる人は自分と同じ人間だから食べなければ腹が減るし、のども渇く。少しでも快適に過ごしたいと思う。自分と同じように目の前の人が過ごせるように手を貸し、配慮をしなさい、ということです。旧約聖書では、レビ記19章18節という所に、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と命じられており、これが隣人愛について一言で語っている掟です。
2.隣人とは
主イエスは、ある時、何をしたら永遠の命が得られますか、と質問してきた律法の専門家に対して、これら二つの戒めを守るようにと言われ、相手が隣人とは誰ですかと聞いてきたところ、あるたとえ話をされました。善いサマリア人の話として有名です(ルカによる福音書10章25節以下)。ある人が追いはぎに襲われ半殺しにされていたところ、神に仕える祭司やレビ人は、道の向こう側を通って行ってしまいました。
しかし、ユダヤ人と仲の悪いサマリア人が通りがかり、この人を憐れに思い、傷の手当てをし宿屋に連れて行って介抱し、宿代まで出してやり、宿屋の主人に、余計に費用が掛かったら帰りがけに払う、とまで言った、というお話です。そしてイエスは祭司、レビ人、サマリア人の中で誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか、と問われました。律法の専門家が、「その人を助けた人です」と答えると、イエスは、「行ってあなたも同じようにしなさい」、と言われたのでした(同37節)。このたとえ話では、隣人を愛することについて、隣人とは誰か、ということと、その隣人を愛するとはどういうことかを教えておられます。隣人とは自分でえり好みをして誰かを隣人にするのではなく、日常の中で、自分の相対する状況において、何らかの関わりを持つようになった人のことで、その人が助けを必要としているなら、その人のために自分を愛するがごとくに愛しなさい、と教えておられます。
しかし、このたとえ話を見ますと、隣人を愛するのは、そんなに簡単なこととは思えません。何しろ、このサマリア人は、追いはぎに襲われた人の手当てをし、宿屋まで運び、宿代まで不足が出たらそれも払ってお世話をしたのですから。襲われた人は持ち物もお金もないのですから、あらゆることの費用を自分が持ったのです。油にぶどう酒、宿代、そして時間も、このサマリア人は追いはぎに襲われた人のために費やしました。このサマリヤ人は、もし自分が襲われた者だったとしたら、通りかがった人にこのようにして助けてもらいたい、ということをそのまま実行したわけです。そう考えてみると、自分にように隣人を愛する、というのは容易なことではない。ましてや心と精神と思いと力を尽くして神を愛する、ということになれば、一体どれほどのことになるでしょうか。
3.隣人を愛するとは
これに関連することを教える別の出来事がありました。このマルコによる福音書の10章17節以下にあるお話です。やはりある人が、永遠の命を得るには何をすれば良いかをイエスに尋ねました。イエスは「殺すな、盗むな、奪い取るな、父母を敬え」という掟を知っているはずだ、と問い返します。すると彼は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。するとイエスは、あなたには欠けているものがあるから、持ち物をみな売り払い、貧しい人々に施しなさい、と言われました。ところがこの人はたくさんの財産を持っていたので、悲しみながら立ち去ってしまいました。そんなことはできないと思ったからです。彼は、自分は子どもの頃から掟を守ってきた、それはつまり、隣人を愛することは子どもの頃からやってきた、ということだったのです。しかし、イエスに言わせれば足りないことがありました。この金持ちの人は、持物を売り払うことまでは全く考えていなかったわけで、そこまでしなくても、隣人愛の掟は守っている、と思っていたのです。イエスはこの人にとってはたくさんのお金に執着する心があることを見抜いておられました。先ほどのサマリア人の場合、全財産を追いはぎに襲われた人に施したわけではありません。彼にできる限りのことをしたのでした。それでもイエスは言って同じようにしなさい、と言われました。杓子定規にこうすれば隣人愛を行なっている、とは言えないのです。全財産を人に施しても、自分を犠牲にしても、愛がない場合があると使徒パウロは書いています(Ⅰコリント13章3節)。愛がなければ、いくら外見は人に良くしているように見えても何の益もないと。
こうしてみると、この隣人を愛しなさいという戒めは、簡単に守っていますとか守ってきましたなどと言えないものであることがわかります。今日朗読したマルコによる福音書12章では、イエスは、適切な答えをした律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。彼はどんな献げ物やいけにえよりも、この戒めを行うことは優れている、と理解していました。それは適切な答えでした。しかしそれではまだ神の国に入っているというわけではない。彼はまだ、この掟の前に立たされています。しかし、神の国から遠くはない。その道を進んでゆけばよいのです。しかし進んでゆくと、その戒めの大事なことはわかるが、それを行なうことのできない自分がいることに気づかざるを得なくなります。
そのような私たちのためにおられるのが救い主イエス・キリストです。イエスは、心と精神と思いと力を尽くして神を愛しなさい、という戒めはおろか、あなたの隣人を自分のように愛しなさい、という戒めも守れない私たちの罪深さをご存じです。人は自力では、つまり自分の正しさを神の前に持ち出すのでは、決して永遠の命を得ることはできない。つまり神の国には入れないのです。それでも、そのことを認め、イエスのもとに来るならば、私たちは神の国に入ることができます。そうして、新たに神を愛し、隣人を愛する道へと押し出されていくのです。
なぜなら、イエスはご自身を十字架で献げてくださいました。それは先のパウロの言葉によれば、イエスが私たちを愛してくださって、その愛の現れとして御自身を献げてくださったのです。イエスこそ、心と精神と思いと力を尽くして神を愛し、隣人を愛してくださったかたです。イエスにおいては、十字架の苦しみを受けて死ぬ、ということが、私たちへの愛そのものの現われでした。
私たちは不完全な罪深い者です。今、この社会で隣人を自分のように愛する、ということを無意識の内にも行っている人々がいることを私たちは知っています。人のために自分の利益を度外視して施しや、慈善、ボランティアなどに力や時間や金銭を提供する人々がいます。隣人愛から出ているなら、それ自体は尊いことです。しかしやはり私たちは不完全です。そういう私達に代わって神への愛と隣人への愛の道を全うされた救い主イエス・キリストにより頼むならば、私たちの不完全な神への愛と隣人への愛にも拘らず、私たちを神の国に入れる者としてくださるのが、神による救いの道なのです。
イエスはこの律法学者に、あなたは神の国から遠くない、と言われました。それは、神の国に私たちを入れることのできる権威を持つお方だから言える言葉です。御自身が私たちの罪を担って十字架にかかってくださる方だからこそこのようなことを言えるのです。このイエス・キリストにより頼み、愛そのものである神を愛し、隣人を愛する者へと私たちは変えていただけます。それは生涯その道に歩み続けることです。人に見せるためでも、自己満足のためでもなく、そういう者に造り変えていただける(エフェソの信徒への手紙2章8~10節)。それは、実に神の恵みであります。
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