「神の子とする霊を受けた」2019.6.9
 ローマの信徒への手紙 8章1~17節

今日は、紀元1世紀のキリスト教会に、イエス・キリストが約束された通りに神の聖霊が降られたことを記念する、聖霊降臨日です。ペンテコステ、と普通私たちは呼びならわしています。ペンテコステとは、「50番目の」という意味があります。使徒言行録2章にその時のことが記されています。今日はそちらの記事を逐一見ませんが、5旬祭と言われています(同1節)。ユダヤ人にとって大変重要な祭りである過越しの祭りから50日目にあたる、刈り入れの祭りです。主イエスは、過越しの祭りのときに十字架にかけられて処刑され、死んで葬られましたが3日目に復活されました。それがちょうど日曜日であり、その日から50日目の日曜日、それが5旬祭であり、刈り入れの祭りでした。その日に神の聖霊は教会に降られました。この聖霊降臨、という出来事があったので、教会はこうして今日までこの世に存続し続けており、世界中への宣教を継続しているのです。今、私たちがこうして集まっているのも、聖霊降臨の出来事ゆえです。聖霊は昔も今も変わらず教会においてその信徒たち一人一人の内に働いておられます。

1.キリストに結ばれている者
キリストに結ばれている者は、罪に定められることはない。これは、この世で何らかの犯罪に手を染めたとしても有罪になることがない、というわけではもちろんありません。私達一人一人は、みな最後に神の前に立たされて、この世での罪について、神の判定を受けなければならない、というのが聖書の教えです。この世で犯したあの罪、この罪、というだけではありません。この世で裁判沙汰、警察沙汰になることがたとえ一度もなくても、神の前には罪がある。これが私たちです。神は人の心の中もご存じです。その神の前に、私たちはいくら自分の正当性を主張しても無駄です。なぜなら私たちは生まれながらに罪の汚れを受けており、自分自身でも神に反することを行なっており、それは神の前に弁明できません。しかし、キリストが私たちの代わりに罪を償ってくださったから、私たちがそれを信じて受け入れるなら、私たちは罪に定められることがない。これがこの8章1節が言っていることです。
私たちはたとえキリストを信じたとしても、なお私たちのうちに残っている罪がありますので、この世で完全に清くなることはできません。しかしもはや罪を赦していただいたので刑罰を受ける必要がない。そればかりか、身分としては神の子どもにしていただいている。これがキリストを信じ受け入れた者に与えられる恵みです。これについては後でお話しします。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」(3節)というのはそのことです。しかし、そうやって幸いにも罪を赦していただいた者は、その後も、神によって与えられた期間、この世で生きてゆきます。その後の地上での生活はどう進められてゆくのか。つまり信仰を与えられて洗礼を受けたクリスチャンは、その後、この世でどのような者とされてこの世の歩みをしてゆくのでしょうか、という問題です。

2.神の霊=聖霊の支配下にある
 キリストに結ばれた者は、それまでとは全く違う歩み方を始めます。見かけは一見同じように見えても、どこに立っているか、が違ってきます。何により頼んで生きているのか、という自覚も異なってきます。八節と九節には、非常に鋭い対比があります。肉の支配下にあるのか、それとも霊の支配下にあるのか。この違いです。肉とはこの場合、生まれながらの人間を指しています。神に対する畏れもへりくだりもなく、自分の思う道を進むという生き方です。
それに対して霊の支配下にあるというのは、神の霊である、聖霊の導きによって歩み、従って生きていることです。キリストを神の御子、救い主と信じる信仰がそこにはあります。
 聖霊の支配下にある者は、キリストの霊を持つ者でもあり、キリストに属する者です(9節)。キリストに属する者、つまりキリスト者、クリスチャンです。キリスト者は、霊に属することを考える人とされています(5節)。霊に属すること、すなわち真の神とのつながりに関すること、神と自分について。このことを考えることができるようにされているのです。言い換えれば、神の御心とは何か、神は何を喜ばれるのか、それを知り、その神に従って生きようと願い始めるのです。この世ではまだそれが完璧ではないにしても、その道を歩み出すのです。それが霊、神の霊の支配下にある者が受けた恵みです。
 そして、神の霊である聖霊の恵みを受けた者は、聖霊の実を結ぶようになります。使徒パウロは、別の手紙で、「例の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と書いています(ガラテヤの信徒への手紙5章22、23節)。この九つの実は、わたしたちが自力では結べません。しかし聖霊の恵みを受けて、その実を結び始めるのです。まだ熟してはいないかもしれないけれども、実は結び始める。その方向へと歩み始めたのです。教会前庭の琵琶の木が実を結び始めました。傷があったり、鳥にかじられたりしても、実は結んでいます。

3.神の子どもとする霊を受けた
 そうして神の霊の支配下にある者は、神によって罪を赦され、神の子どもとしていただいた者でもあります。その子どもたちには、歩くべき道があります。それは具体的には神の律法に従う。先ほど言ったように、神の霊に属することを考える。それは即ち命と平和について。それは神に喜ばれる者として生きるようになる、ということです(8節)。恐ろしい神様によって罪を裁かれるのではないか、という恐れをもって生きるのではなく、愛と慈しみをもって守り育てて下さる神の子どもとして生きる、という道です。厳格な親のものとで育った人は、たとえば父親の顔色を伺いながら生活する、という経験をされたかもしれません。しかしどれだけ厳格だとしても、親としての子供に対する愛情を感じることができるなら、子どもからもそれなりの愛と信頼を寄せることができ、その関係は良いものであると言えましょう。人間の親は欠陥だらけではありますが、それでもこの親の子供である、という点に無意識の内により頼んでいて、自分が追い出されることはない、というある種の安心感があると思います。
 私たちの神に対する関係も同じです。同じどころか、私たちの神は欠陥があるわけではないので、人間の親のように間違うことがなく、先に自分の前からいなくなることもありません。この神の子どもとしていただいたその信頼感、安心感はどこから来るのでしょうか。それは、ただ一人の永遠からの神の御子であるイエス・キリストによるものです。この方は神の家族の中にあって、長子であり、他の子どもたちの贖い主、魂の牧者、救い主でもあられます。
 この神の御子、主キリストによって私たち罪深い者も神の子どもとしていただきました。神の霊である聖霊は、初代教会に降られましたが、それまでも多くのお働きをなしておられました。特に多くの預言者たちの内に働いて力を現しておられました。その聖霊は、ペンテコステの聖霊降臨以来、信徒一人一人の中に共にいてくださって、神の子どもたちを起こし、導き、神の言葉を語る者にまでしてくださいました。そして、キリストと共に、栄光の神の国を受け継ぐものとしてくださいました。この聖霊の恵みに謙虚に信頼する人は真の幸いな道へ招かれたのです。  

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「神による救いの物語」 2023.11.26
?ルカによる福音書 1章1~25節

「私たちは主に立ち帰ろう」 2023.11.12
哀歌 3章34~66節