「子どもをイエスのもとに」2019.5.5
 マルコによる福音書 10章13~16節

 この一ヶ月間は、尾張旭教会だより第5号でご案内した題によってお話をします。今日は、日本では「子どもの日」であり、それに因んでお話しします。大辞林によると、「子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかるとともに母に感謝する日」とあります。「母に感謝する日」というのは、あまり知られていないかも知れません。もともと「端午の節句」で、「古くはショウブ・ヨモギを軒に挿して邪気を払う風があった」とありました。これらの言葉には、ある面でとても大事なことが含まれています。今日は、聖書からお話をしますが、この、辞書に言われていることを視野に入れながら、考えてみたいと思います。

1.イエスに触れていただこうとする
先ほどの辞書の説明に、「子どもの人格を重んじ」とありました。そもそも聖書では、人間は神の形に似せて造られたものである、と教えています。それは、他の動物とは違って人間は神というお方の中にあるイメージに似ているものを刻み込まれているものだということです。動物には言葉がなく、倫理や道徳、つまり正義とか善悪についての判断はできません。どんなに知能が高くてもそれはできないわけで、人間とは決定的に違います。自分の存在について考えて、死んだらどうなるのだろうかとか、永遠に思いを馳せたりするのは、人間がそのようなことを考える者として造られているからです。それは子供の内にもあるわけであって、一人の人間として重んじなければならないわけです。
しかしながら先ほど見た新約聖書の記事を見ればわかるように、子供はある面軽んじられやすい者であることがわかります。大人が何かやっているところに子どもは容易に入ることはできませんし、大人の話に口をはさむな、と言われます。日本でも同じことで、子供の日について「子供の人格を重んじ」と敢えて言われるのは、普段軽んじられていることの裏返しと言えます。普段から重んじられていればそうは言わないはずです。
イエスのもとに人々が子供たちを連れてきて、触れていただこうとしたのは、近頃評判のイエス様に触れていただければ、子供たちにとってはありがたいことだ、子供たちが元気に成長してゆけるように祈っていただけるのではないか、祝福の言葉をいただけるのではないか。何がしかをいただけるに違いない。そういう思いを抱いて子供たちを連れて来たのだと思われます。それは、親としては自然な思いであったことでしょう。

2.イエスに向かうことを妨げる力
ところがイエスの弟子たちがそれを叱りました。恐らく、イエス様は忙しいのだから、子供たちの相手をしている暇はない。だから邪魔をしてはいけない、とでも思ったのでしょう。これもまた、いつでもどこの社会でもありそうな情景ではないでしょうか。しかし、イエスはそのような弟子たちを叱りました。イエスのもとに来るのを妨げてはならないと。子供は確かに大人に比べれば様々なことを判断する力はありません。善悪の区別はそれなりにするようにはなりますが、人前でどう振る舞うべきか、社会ではどのように人と接するのが常識的なのか、など大人がいちいち気にするようなことも気にせず勝手に振る舞うこともあります。思ったことを正直に口にしてしまうものです。そういう中、ものの本質を大人よりも鋭く見抜いてしまうこともあります。自分にとって単純に好きか嫌いか、良いか悪いか、を直感的に感じ取るという面もあります。そういう子供たちには、大人は、本当に良いものを提供してあげる務めがあります。もちろん親はそのことをまずします。イエスも人々に言われたことがあります。親が悪い者であっても、子供には良いものを与える、と(ルカによる福音書11章13節)。イエスは、ご自身が子供たちにとって最良のものを与えることが出来るとお考えになっているのです。大人の都合で、子供たちをイエスのもとに連れて来るのを妨げることをしてはならない。イエスはこのことに非常に熱心であられます。
ここで子供の人格を重んじる、ということを考えてみると、子供が何を学び、何を求めているか。それは子供自身が自分で見出してゆくべきものだから、たとえば親の信念や人生の指針を、子供たちに押し付けるのはいかがなものか、という考えも必ず出てきます。子供の人格を重んじるのなら、子供に親の信念や信仰、そして宗教を押しつけてはならない、と。果たしてそうでしょうか。悪事を働く親が、子供にも悪事を働く知恵を身につけさせ、悪の道に誘うのなら、それは論外です。子供は確かに何でも吸収し、自分の好きなものを見つけてそれに没頭するのが得意です。しかし、この世と社会については何も知りません。ですから、親は子供をしつけ、諭し、作法を教え、社会常識を身につけさせようとします。自由に好きなようにやっていくのにも限度があります。しかし、人はただ社会常識や社会性を身に着けていればそれで良いわけでもありません。人間とは何なのか、という非常に大事なこともやがては学んでいかねばなりません。それを考えると、親は、まず自分の人生観や世界観を持っていないと、子供に教えることなどできはしません。そこで立ち止まってみると、果たして自分の中には、子供に明確に伝えるべき教え、人生とは世界とは何ぞや、という問いに対する答えを持っていないことに気づかざるをえないのです。そこで言えることは、まず大人である親である者がイエスのもとに行かなければならない、ということです。
イエスは神から来られたお方であり、私たちはその御言葉に聞くべきである、と天の神は人々に語られました。そしてそれは子どもに限らず大人も一緒です。であるからには、まず大人が、親が、イエスの御言葉に聞くということです。そして親も大人も、子供のようにまっすぐにイエスのもとに来るものでなければ、神の国に入ることはできない、と言われています。子供はイエスのもとに連れられて来て、まさか妨げられるとは思っていません。今イエス様は忙しいのか、近くに行ったら邪魔になるのではないか、など、大人が考えそうなことは何も考えません。幼い子供、乳飲み子であればなおさらです(ルカ18章15節)。大人もそうであるべきなのです。

3.イエスは私たちを神の国へ導く方である
 イエスは、ここで一つ大事なことを言っておられます。「神の国」という言葉です。私たちはこの世で生きていると、自分の生まれた国、あるいは住んでいる国というものがおのずとあります。それはいわばこの世の国です。しかし聖書では、この目に見える世界だけではない、目には見えていないけれども「神の国」と呼ばれる国があることを教えています。それは私たち普通の人間はだれも言ったことがないし、見てきたこともない、聞いたこともないものです。しかし神は古の時代からイスラエルの人々にそれを語ってこられました。そして、神の国とは、神がその国の王であり支配者であり、その国の民を治め、守り、生かしてくださる国です。神に勝る王はありませんから、その国の民となることは実は私たち人間にとっては最も幸いなことです。
ですから、子供たちのことを思うなら、一人の人格を重んじ、子供の幸福を求めるならば、イエスのもとに連れてくることが何よりです。イエスの御言葉にふれさせ、その祝福に与れるようにするのです。しかし、そのためには、まず親と大人たちがイエスの御言葉の素晴しさに触れて、その恵みを味わい知っている必要があります。だからこそイエスのもとに連れてこようとするのですから。この福音書の記事では、イエスの所に子どもを連れてきた人々は、イエスのことをどれだけ理解していたかはわかりません。しかし、この方は子どもに良いものをもたらしてくださる。神から来られた方で、子供たちを祝福してくださるなら、子供たちにとってそれはまたとない幸いである、と信じていたのではないでしょうか。他の福音書の並行記事では、イエスに手を置いて祈っていただくために連れて来た、と書かれています(マタイ19章13節)。
ここで私たちは考えます。「子どもをイエスのもとに」ということを考えた時、まずは自分の子どもをイエスのもとに連れてくる。次に、既に大人になっている、あるいは物心ついて自分の考えを主張してくるようになっている子どもたちのために、祈り、常にイエスに連なる機会がないかどうか考え、備える。そして、世の中の子どもたちのことを考え、祈る。神の御言葉を聞いてイエスのもとに来た大人にはそのくらいすることがあります。
私たちは、自分の子どもにも、世の中の子どもにも良いものを与えたいと考えます。しばらく前に、親に虐待されて命を失った女の子のことが繰り返し報道されていました。そのようなことが繰り返されないようにしなければなりませんが、まずは親自身も真の幸いと慰めとを受けていないと、この問題は繰り返される可能性があります。大人自身がイエスのもとに来る必要があります。そして子どもたちをイエスのもとに導くのです。イエスは私たちを神の国へと導く力があります。その力を信じて主イエスのもとに、大人も子どもも近づくことによって、神の国の王である真の神に感謝を献げ、その恵みの内に生きる者とならせていただきましょう。

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