「すべてのものへの福音」2019.6.2
 マルコによる福音書 16章1~20節

今日の朗読箇所は、8節まではイエスの復活を記念するイースター礼拝にてお話ししましたが、今日改めて16章1節から20節までを朗読し、私たちに伝えられている福音書の語るところに聞きたいと願っています。それで今日は、9節以下を中心にお話しします。

1.この福音書の終わり方について
このマルコによる福音書は、16章8節の後に結び一と結び二というものがついています。9節の前と20節のあとに、〔 〕があって括られています。新共同訳聖書の凡例にありますように、この〔 〕で括られた部分は、古代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す、とされています。この新共同訳聖書の底本となったギリシャ語聖書を出版するに際して、マルコが書いたそのものではないだろうけれども、キリスト教会において古くから付け加えられてきたのでこの〔 〕入りで印刷されてきたものです。今では、マルコによる福音書は16章8節までがマルコが書いたものであり、その後についている九節から20節までの結び一と、更にその後についている、結び二は、マルコよりも後の誰かが付け加えたものであろうと見るのが定説になっています。マルコの語彙と違うとか、言い回しが違う、という理由もあります。
8節までがマルコの手によるとすると、8節で終わっているのはいかにも不自然である、という見方もでてきます。日本語で「恐ろしかったからである」で終わっていますが、言語でも「~だからである」という単語で終わっています。文章がこの語で終わることは全くないことはないようですが、大変珍しい文章であるとされています。書物全体がこの語で終わるのは他に例がないそうです。それで、この福音書の終わり方について三つほどの説があります。一つは、マルコはここまでで終わりにした、というもの。もう一つはこの先があったのだけれども、何かの事情で散逸してしまった、というもの。三つめは、マルコはこの先を書こうとしていたのだけれども、突発的な何らかの事情によって書けなくなってしまったというもの。これらは結局推測にすぎません。おそらくマルコはここまでで福音書を閉じたけれども、復活の記事そのものを加えようとした後代の人によって書かれたものが集められて結び一と二として今日のように付加された形で伝統的に伝えられてきたものと思われます。全く信頼に足らないずっと後の付加ならばまだしも、割と古い写本にも含まれている、ということから、福音書の最後に〔 〕入りではあるけれどもずっと読まれてきました。多くの翻訳聖書で大体同じように但し書きが付けられて示されています。中には全く載せていない、というものもありますがそれは逆に珍しいです。いずれにしても、復活されたイエスが弟子たちに現れた時の出来事をまとめたものをここに載せた、というものと見ることができます。そして、この結びは、イエスの約束通りにガリラヤで弟子たちが復活されたイエスにお目にかかれたことを書いているわけではないので、ガリラヤでの再会についての記事を補おうとして結びが付けられたわけではないようです。

3.復活されたイエスの予告の実現
 そのような、但し書き付きの箇所ですが、結びとして入れられている文章の内容から、私たちが学ぶことがありますので、それを見てゆきます。
 まずこの結びで記されているのは、マグダラのマリアにイエスが現れたこと、そして二人の弟子に現れたこと、これはエマオ途上にあった二人の弟子に現れたことと思われます(ルカ24章13~35節)。そして11人の弟子たちに現れたことです(ルカ24章36~49節)。
 さらに、ここで主イエスは、しるしについて語られましたが、使徒言行録にそれが実現したことが記されています。悪霊を追い出すこと(19章12節)、新しい言葉を語ること(2章4節、10章46節、19章6節)、手で蛇をつかむこと(28章3~5節)、病人に手を置けば治ること(28章8節)。毒を飲んでも害を受けない、というのはありません。
 また、マルコ16章20節にある、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した、というのは、使徒言行録全体が記していることです。私たちは、ここに記されていることの殆どが使徒言行録の中で実現していることを見ればよいのであり、それを文字通りに今日の時代にまで拡大しなくても良いと思います。今日のクリスチャンで、ここにこう言われているから手で蛇をつかむ、とか毒を敢えて飲んでみる、という人はいないでしょう。試しに病人に手を置いてみる、というのも同じことです。しかし、だからと言って、これらのことは使徒たちがいた初代教会の紀元一世紀だけの話だ、と全く線引きをしてしまうわけにもいきません。
 ある人が、伝道の結果、主イエスを信じて救いに入れられたのなら、それは神の支配のもとに移されたのであり、人を神から引き離そうとする悪霊の力に完全に勝利しておられる主イエスのものとしていただいたことです。また、ペンテコステの時に、弟子たちがいろいろな他国の言葉を語り出したようになるわけではありませんが、神からいただいたのでなければ語れない救いの福音を語るようになります。神への感謝と賛美と祈りの言葉を語るようになります。これこそ新しい言葉です。そしてその言葉には人を救う力があります。

3.すべてのものへの福音
 最後に、福音宣教に焦点を当てて、ここでの教えに聞きましょう。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。これは大変厳しい言葉です。このような厳しいものの言い方は、おそらく人々には好まれないでしょう。また、クリスチャン自身もこのような厳然たる言葉を例えば身内に対して語れるかというと、やはり語るにはそれなりの場面と配慮が必要な言葉です。誰かれなく告げ知らせるのではなく、まず、福音を聞き、救いに与り、福音宣教をゆだねられた教会として、信徒として、へりくだった立場でこの真理を弁えるべきです。そして、神からこれほど重要な真理を示された教会が、心して宣べ伝えるべきものである、と自覚しなければなりません。この16節の御言葉はそのように受け取るべきであると言えます。
 さらに主イエスは、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい、と言われました(15節)。福音を言葉で聞くのは人間に限られています。が、あえて人にではなく、ものに、と言われています。福音を聞くのは人間ですけれども、その人間は神の造られたものの中に生きています。動物も、無生物も福音を言葉では聞きませんが、神の民、神の子らとの関わりの中にあります。福音は、人の心の中の魂の問題だけに狭めるのではなく、すべてのものに関わりをもっています(ローマの信徒への手紙8章20節)。
 そして三つめに心に留めたいことは、主が御自身の民と共に働いてくださり、主の民が語る言葉が真実であることをそれに伴うしるしによってはっきりとお示しになったことです(20節)。これもまた使徒言行録の中に、使徒たちが行なった目覚ましい業が記されています。今日の私たちは、使徒たちが行なったように、病人に手を置くことによってたちどころに治る、というようなことができるわけではありません。しかし、一人の神の前に罪ある人が、神の御言葉に捕えられて悔い改めに導かれ、イエスを救い主と信じて信仰の道に入る、ということは、主が共にいてなされる大きな働きであります。主が共にいて働かれる所では、必ず主の御言葉の真実が証しされます。私たちは、自分から出た言葉を語っているだけならば、すぐに枯渇してしまうでしょう。しかし、主から来る言葉は、第一に力があり、慰めに満ちており、人を救うことができます。そしてこの福音の言葉は決して廃れることがありません。古びてしまうことがありません。それは、神の御言葉は、過去のものではなく、今も生きて語っておられる神の御言葉だからです。昔こんな素晴らしい言葉を語ったイエスという人がいた、こんなことをした、というのではなく、そのイエスは今もこの聖書において書かれているのと変わらず、信じる者たちと共に働き、御自身が本当に生きておられ、私たちと共に働いてくださる方であることを悟らせてくださいます。神の右の座に着かれた主イエスは(19節)、天において私たちを常に見守り、同時に私たちの傍らにもいてくださいます。私たちはこの主が私たちの歩みを導いてくださることを信じて、なお与えられた信仰の道を歩いてゆくのです。

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