「人には造れないものがある」2019.5.26
使徒言行録 17章22~34節
「人には造れないものがある」。この言葉を、皆さんはどう思われるでしょうか。そんなことは当たり前である、という答えもあるでしょうし、確かにそうだ、という答えもあるでしょう。この言葉を裏返すと、人には造れないが、神ならば造れるものがある。さらに、神にしか造れないものがある、ということです。そちらに目を向けていただきたい、ということを初めに述べておきます。
1.人には造れないもの
先ほど朗読しました使徒言行録17章の箇所は、キリストの使徒パウロがギリシャのアテネで神について語ったことが記されています。今日のお話の題に関わる言葉としては、「世界とその中の万物とを造られた神がその方です」(24節)と、「神は、一人の人からすべての民族を造り出して~」(26節)という二つの文章がありました。
この世界はどのようにできたのだろうか。自然に出来たのか、偶然の産物なのか、誰かの意志によってできているのか。無神論の立場と神を信じる立場とでは全く違ってきます。私たちは今、もちろん聖書の言葉を前にしていますから、神がこの世界とその中にあるすべてのものを造られたと信じ、その言葉に聞こうとしています。けれども、その前に、人には造れないものについて、少し考えてみたいと思います。
人は様々なものを加工して道具を作り、家を建て、道路や橋、その他いろいろなものを造ってきました。何百メートルもある高層ビルなどを見上げますと、実に凄いものを人は造っている、と思います。飛行機も、あれがなぜ飛ぶのか、実はまだその理由は良くわかっていないということですが、それでもあんなに大きなものを空に飛ばせる。果ては宇宙のはるか彼方に宇宙船を送って、惑星や、小惑星などに着地させる。長年の人類の知識と技術と知恵と経験が蓄積されて、今日に至っているわけですが、大したものだと思います。逆に微小な世界を考えてみると、パソコンのハードディスクやメモリの中に、本にすれば10万冊以上もの情報を詰め込むことができる。これまた、人間は凄いものを作ったと思います。電気信号によるものとはいえ、どうしてあんな微小なものに膨大な情報を書き込めるのか、不思議です。それこそその道の知識を持っている人にしか、把握できないことではないでしょうか。
そうです。今の時代では知識や技術の専門化が進み、一部の人しか分からないことがたくさんあるわけです。しかしながら、それほどに専門家された深い知識と高度な技術があっても、作れないものはいくらでもあります。ドラえもんではないですが、人間を微生物ほどに小さくして体の中に入って、病気の治療をすることはできません。10万光年先の星に向けてロケットを打ち上げて、1年で往復することはできません。また、人の心の中にある思いを全て読み取る機械は作れません。決して年を取らない体を得るために不老不死の薬を作ることもできません。これらはほんの一部かもしれませんが、映画やドラマや漫画などで描き出されるのは、人には造れないものが造れたらいい、という願望がもとになっているのでしょう。錬金術とか、永久機関なども似たようなものでしょう。
その昔、神が天地を造られた時のことが創世記に記されています。神は人に命を与え、言葉を与えてくださいました。人間だけが言葉を持ち、他の動物たちを治めるようにと神が造られたのです。そして人々は増え広がってゆきました。そしてある時一つの所に集まって、高い塔を建てようとします。自分たちの名を上げようとしたのです(創世記11章)。バベルの塔のお話です。ところが神はそれを妨げるために人々の言語を混乱させ、意志の疎通ができなくなった人間は塔の建設をやめて、それぞれの地へ散らばって行ったのでした。神はこのことを通して人をへりくだらせることをなさったと言えます。天まで届く塔を建てようとしても、それはできない。現代人なら科学的にそれは弁えているかも知れません。重たすぎてつぶれてしまうと。それはともかく神は人にできないことがたくさんあることを教えておられるのです。
2.神にしか造れないもの
では、人には造れないけれども神には造れるものは何でしょうか。先ほどの聖書箇所にあった、天地にある万物。そしてあらゆるものの命。これらは人には決してつくれません。宇宙空間の何もないところに、星を造り出すことはできません。空気も、水も、土も、人には造り出せません。いや、水素と酸素があれば水は造れる、といっても、水素と酸素を造り出すことはできません。この世界にあるものは、あらゆるものが関連をもって造られています。食物連鎖や、大気と水の循環、栄養の摂取と排泄、微生物による有機物の分解、などを思い浮かべてみると、世界にあるあらゆるものをただ別々に造ったのではなく、みなつながっていることがわかります。実に素晴らしい神の知恵がここに示されているのです。そうです。神は、ただ何かを造る力をもっておられるだけではなく、人には計り知れない知恵と配慮、用意周到な計画をもっておられるのです。
しかしながら、神は私たち人間にある能力をくださいました。それは、神の素晴しい御業を眺めて、思いを巡らすということです。犬や猫も、時に外の景色を眺めているかのように見えることがあります。しかしそれは空の遠大さに思いを馳せて、人生を思い巡らしているわけではないでしょう。しかし人はそれをします。人は神のなさることを見極めることはできませんが、永遠を思う心は与えられています(コヘレトの言葉3章11節)。そして言葉を用いて思索をし、真理を探究しようとするわけです。しかし聖書は、人が神に対して背を向けたために、神を正しく認めることができなくなり、神との関係を歪めてしまった、と教えています。それ故、この世には様々な悪いことや悲惨なこと、悲しいこと、苦しいことが起こっているのです。
それでも、神は、この世界を全くどうしようもなく悲惨な状態にはされませんでした。人間は大気を汚し、海や川の水を濁らし、生物を絶滅させたりしてきました。それにも拘らず、自然の美しさは保たれています。先ほどの使徒言行録にありました。神が人を造り、季節や人の居住地を定められたのは、「人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」(17章26、27節)。
この言葉は一見すると、人間には神を探し求めて見いだせる能力があるように見えますが、実は人はその能力を失ってしまいました。世界にあるものは、神の存在とその知恵と力を現しているのに、人はそれを正しく受け止めることができないのです。ちょうど、電波は空中を飛び交っているのに、受信機が壊れていると、電波を受信できないのと同じです。この状態のことを、聖書では人は神に対して罪を犯している、と言っています。
しかし神は、ただ知恵と力とに満ちているだけではなく、歪んでしまった人間を愛してくださる方です。そして、自然界だけでは不十分なので、言葉によって人に語りかけられ、御自身のことを現しておられます。そうして人を神御自身に立ち帰らせ、新しくしてくださいます。それを実現するためにこの世に送ってくださったのがイエス・キリストという救い主であります。イエスによって私たちに新しい命を与え、永遠に神と共にいられるようにしてくださっています。これは人には決して造り出すことができません。どんなに善い行いを積み上げても、どれだけ慈善に励み、人に親切にし、献身的な奉仕をしても、私たちの力では造り出すことが決してできません。しかし、神はそれを造りだすことができるお方です。人は、命も、宇宙も、地球も、造り出すことができません。その中でも特に、神との決して壊れない、結びつきを造り出すことができません。先ほど、現代科学では専門家でないと全く分からないことがある、と言いました。だとしたら、人の命、この世界のなりゆき、そういうものは、造られた神に聞くのが一番です。そして幸いにも神は私達に救いの御手を差し伸べ、ご自分のもとへと招き、引き寄せてくださいます。聖書によって、教会の福音宣教を通してそれをなしておられます。私のもとに来なさい。私の送った救い主イエスに聞き、より頼みなさい。そうすれば永遠の命を受けられる。そう今も私たちに呼びかけ、語っておられるのです。その御声を逃さずに聞くことができる人は幸いです。
1.人には造れないもの
先ほど朗読しました使徒言行録17章の箇所は、キリストの使徒パウロがギリシャのアテネで神について語ったことが記されています。今日のお話の題に関わる言葉としては、「世界とその中の万物とを造られた神がその方です」(24節)と、「神は、一人の人からすべての民族を造り出して~」(26節)という二つの文章がありました。
この世界はどのようにできたのだろうか。自然に出来たのか、偶然の産物なのか、誰かの意志によってできているのか。無神論の立場と神を信じる立場とでは全く違ってきます。私たちは今、もちろん聖書の言葉を前にしていますから、神がこの世界とその中にあるすべてのものを造られたと信じ、その言葉に聞こうとしています。けれども、その前に、人には造れないものについて、少し考えてみたいと思います。
人は様々なものを加工して道具を作り、家を建て、道路や橋、その他いろいろなものを造ってきました。何百メートルもある高層ビルなどを見上げますと、実に凄いものを人は造っている、と思います。飛行機も、あれがなぜ飛ぶのか、実はまだその理由は良くわかっていないということですが、それでもあんなに大きなものを空に飛ばせる。果ては宇宙のはるか彼方に宇宙船を送って、惑星や、小惑星などに着地させる。長年の人類の知識と技術と知恵と経験が蓄積されて、今日に至っているわけですが、大したものだと思います。逆に微小な世界を考えてみると、パソコンのハードディスクやメモリの中に、本にすれば10万冊以上もの情報を詰め込むことができる。これまた、人間は凄いものを作ったと思います。電気信号によるものとはいえ、どうしてあんな微小なものに膨大な情報を書き込めるのか、不思議です。それこそその道の知識を持っている人にしか、把握できないことではないでしょうか。
そうです。今の時代では知識や技術の専門化が進み、一部の人しか分からないことがたくさんあるわけです。しかしながら、それほどに専門家された深い知識と高度な技術があっても、作れないものはいくらでもあります。ドラえもんではないですが、人間を微生物ほどに小さくして体の中に入って、病気の治療をすることはできません。10万光年先の星に向けてロケットを打ち上げて、1年で往復することはできません。また、人の心の中にある思いを全て読み取る機械は作れません。決して年を取らない体を得るために不老不死の薬を作ることもできません。これらはほんの一部かもしれませんが、映画やドラマや漫画などで描き出されるのは、人には造れないものが造れたらいい、という願望がもとになっているのでしょう。錬金術とか、永久機関なども似たようなものでしょう。
その昔、神が天地を造られた時のことが創世記に記されています。神は人に命を与え、言葉を与えてくださいました。人間だけが言葉を持ち、他の動物たちを治めるようにと神が造られたのです。そして人々は増え広がってゆきました。そしてある時一つの所に集まって、高い塔を建てようとします。自分たちの名を上げようとしたのです(創世記11章)。バベルの塔のお話です。ところが神はそれを妨げるために人々の言語を混乱させ、意志の疎通ができなくなった人間は塔の建設をやめて、それぞれの地へ散らばって行ったのでした。神はこのことを通して人をへりくだらせることをなさったと言えます。天まで届く塔を建てようとしても、それはできない。現代人なら科学的にそれは弁えているかも知れません。重たすぎてつぶれてしまうと。それはともかく神は人にできないことがたくさんあることを教えておられるのです。
2.神にしか造れないもの
では、人には造れないけれども神には造れるものは何でしょうか。先ほどの聖書箇所にあった、天地にある万物。そしてあらゆるものの命。これらは人には決してつくれません。宇宙空間の何もないところに、星を造り出すことはできません。空気も、水も、土も、人には造り出せません。いや、水素と酸素があれば水は造れる、といっても、水素と酸素を造り出すことはできません。この世界にあるものは、あらゆるものが関連をもって造られています。食物連鎖や、大気と水の循環、栄養の摂取と排泄、微生物による有機物の分解、などを思い浮かべてみると、世界にあるあらゆるものをただ別々に造ったのではなく、みなつながっていることがわかります。実に素晴らしい神の知恵がここに示されているのです。そうです。神は、ただ何かを造る力をもっておられるだけではなく、人には計り知れない知恵と配慮、用意周到な計画をもっておられるのです。
しかしながら、神は私たち人間にある能力をくださいました。それは、神の素晴しい御業を眺めて、思いを巡らすということです。犬や猫も、時に外の景色を眺めているかのように見えることがあります。しかしそれは空の遠大さに思いを馳せて、人生を思い巡らしているわけではないでしょう。しかし人はそれをします。人は神のなさることを見極めることはできませんが、永遠を思う心は与えられています(コヘレトの言葉3章11節)。そして言葉を用いて思索をし、真理を探究しようとするわけです。しかし聖書は、人が神に対して背を向けたために、神を正しく認めることができなくなり、神との関係を歪めてしまった、と教えています。それ故、この世には様々な悪いことや悲惨なこと、悲しいこと、苦しいことが起こっているのです。
それでも、神は、この世界を全くどうしようもなく悲惨な状態にはされませんでした。人間は大気を汚し、海や川の水を濁らし、生物を絶滅させたりしてきました。それにも拘らず、自然の美しさは保たれています。先ほどの使徒言行録にありました。神が人を造り、季節や人の居住地を定められたのは、「人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」(17章26、27節)。
この言葉は一見すると、人間には神を探し求めて見いだせる能力があるように見えますが、実は人はその能力を失ってしまいました。世界にあるものは、神の存在とその知恵と力を現しているのに、人はそれを正しく受け止めることができないのです。ちょうど、電波は空中を飛び交っているのに、受信機が壊れていると、電波を受信できないのと同じです。この状態のことを、聖書では人は神に対して罪を犯している、と言っています。
しかし神は、ただ知恵と力とに満ちているだけではなく、歪んでしまった人間を愛してくださる方です。そして、自然界だけでは不十分なので、言葉によって人に語りかけられ、御自身のことを現しておられます。そうして人を神御自身に立ち帰らせ、新しくしてくださいます。それを実現するためにこの世に送ってくださったのがイエス・キリストという救い主であります。イエスによって私たちに新しい命を与え、永遠に神と共にいられるようにしてくださっています。これは人には決して造り出すことができません。どんなに善い行いを積み上げても、どれだけ慈善に励み、人に親切にし、献身的な奉仕をしても、私たちの力では造り出すことが決してできません。しかし、神はそれを造りだすことができるお方です。人は、命も、宇宙も、地球も、造り出すことができません。その中でも特に、神との決して壊れない、結びつきを造り出すことができません。先ほど、現代科学では専門家でないと全く分からないことがある、と言いました。だとしたら、人の命、この世界のなりゆき、そういうものは、造られた神に聞くのが一番です。そして幸いにも神は私達に救いの御手を差し伸べ、ご自分のもとへと招き、引き寄せてくださいます。聖書によって、教会の福音宣教を通してそれをなしておられます。私のもとに来なさい。私の送った救い主イエスに聞き、より頼みなさい。そうすれば永遠の命を受けられる。そう今も私たちに呼びかけ、語っておられるのです。その御声を逃さずに聞くことができる人は幸いです。
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