「あなたの父母を敬いなさい」2019.5.12
 出エジプト記 20章1~17節

 今日は「母の日」ということで「あなたの父母を敬いなさい」という、十戒の中にある神の戒めに聞きたいと思います。十戒は、その昔映画にも取り上げられたことがありますが、モーセの十戒として有名で、先ほど朗読した旧約聖書の出エジプト記の中の一つの戒めです。「父母を敬いなさい」という戒めは五番目にある戒めです。この十戒は、初めの4つが神様に関する戒め、後の六つは人に関する戒めです。言い換えると、前半4つは神への愛について、後半六つは人への愛についての戒めです。人への愛は、隣人愛と言われることもあります。隣人とは、自分以外のあらゆる人を含みます。隣人愛については、次週お話しする予定です。

1.十戒の第五戒としての戒め
十戒は、神が、エジプトの地で奴隷生活を送っていたイスラエルの人々を救い出してカナンの地、いわゆるパレスチナの地へと導かれた時、途中のシナイ山でお与えになった戒めです。年代について多少学説の違いがありますが、今から1,400年程前のことです。イスラエルの民は荒野の旅をしていましたが、神が指導者として立てられたモーセに、シナイ山でお授けになった戒めです。神は2枚の石の板の両面に十戒を刻んでモーセに授けられました。 この戒めが与えられたのは、イスラエルの人々が、神が彼らをエジプトから救い出されたことを感謝して、その戒めを守り、神の民として相応しく生きるにはどうすべきかを教えられたものです。民が神を畏れる畏れをもって、罪を犯さずに生きることを学ぶためでした。
前半の4つは、まず神を神として信じる民は、この神のみを神として信じあがめること、他の神々を拝んではならないこと、手で造った像を拝んではならないこと、主の御名を尊ぶこと、安息日を心に留めてその日は仕事から離れて安息し、神の創造の御業を覚えること。これらのことを命じています。
そして、人はただ神を崇めて神を信じて、神に対してだけ守るべきことを行なっていれば良いのではなく、人と人との関係の中でも、守るべきことを示されました。まず神を覚えるべきなのですが、その神は、人間を神の形に似せて造られましたので、神の形を担っている人間は、お互いを尊ぶべきなのです。そして特に親である父と母を敬うようにとお命じになりました。そうすることによって、自分を低くし、父母よりも更に上におられる天の父である神を畏れ敬うことを、私たちに学ばせようとされたのです。 ヨハネの手紙一には、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」とあります(4章20節)。まして、目に見える父と母を愛さない者は、神を愛することはできない、と言えましょう。

2.敬うとは
ところで、敬うとは、どういうことでしょうか。原文では、重んじる、敬意を払う、尊敬する、という言葉ですので、日本語の意味合いと特に違いません。先ほど一緒に読みましたハイデルベルク信仰問答問104は、16世紀にドイツで作られたものです。それによると、神がこの第五戒で私たちに望んでおられることは、「私が私の父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々に、あらゆる敬意と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである」と語っていました。
人は年を取ればとるほど、衰えてゆきます。いくら元気な人でも、どうしても若い時のようにはいろいろなことが出来なくなります。周りにいる人も本人も、その衰えを実感してゆきますが、それをどのように受け止めるかでずいぶん違ってきます。老いては子に従え、ということわざもありますが、老いてくればかつてのようにはできなくなってくることもありますから、子の言うとおりにしている方が良い、ということでしょう。しかし、だからと言って子の側が、それをいいことに親を軽んじることがあってはいけない。「彼らの欠けをさえ忍耐すべきである」という教えは、年老いた親にだけあてはまることでもなく、まだ若くても、欠けはありますから、それを忍耐すべきであるということです。その分、親は子供を育てるに当たり、もっとたくさん忍耐をしてきたことでしょう。
子どもから見てきちんとしているから敬う、とか、立派だから敬うのではなく、神が私たちに親という存在を与えておられ、親の手を通して治めようとしておられるからだ、と先ほどの信仰問答は締めくくっていました。

3.父母を敬う目的
 親を敬いなさい、という教えは、聖書に限らず、どこの国にも、どんな宗教にもあることでしょう。それほどに、人はその存在を両親に負っているからだ、と言えます。世界中どこでも教えられることですが、私たちは今、聖書からこの教えを聞いています。単に自分を産んでくれた親だから敬うのは当然だ、というのではなく、親の背後には神がおられて、親を敬うことを通して神を敬い畏れることを知るのです。そして、この戒めは人に対する戒めの第一番目に置かれている、ということからも、非常に大事な戒めであることがわかります。
 この戒めは、ただ自分の親を敬うというだけではなく、すべて自分の上に立てられている人々を敬うことも教えています。旧約聖書レビ記には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」という教えがあります(19章32節。)。今、この世ではそれとは正反対の犯罪が横行しています。判断力の衰えなどをいいことに、簡単に高齢者をだまして大金を巻き上げるという犯罪が繰り返されます。そしてあの手この手と手口を変えてお金を出させようとしています。そこには高齢者を、ただ金づるとしか見ていない連中がいます。もし被害者が自分の親や祖父母だったらどうだろうか、ということを想像することすらしないのかもしれません。
 そのようにあからさまに、敬うどころかお金を巻き上げる者たちは論外かもしれませんが、そういう者に対してではなく、普通に暮らしている者に対して、神は「父母を敬いなさい」と命じておられます。これは神を全く知らぬ人も聞くべき戒めではありますが、特に神を信じている者に対しては、一層重い意味のある戒めです。十戒の他の戒めも皆そうですが、この戒めは、天地の主であり、人も含めた一切のものを造られた方が命じておられるのです。そのことを私たちはよくよく知らねばなりません。
 日本では一般的に祖先崇拝が重視されていると言えるでしょう。イスラエルでは、先祖を非常に大事にします。アブラハムの子孫であることを誇りに思い、モーセを偉大な預言者として尊びます。しかし、誇りに思っても、神に代わって崇拝はしません。神と人とを明確に区別しているからです。逆に日本では容易に人が神になってしまい、先祖として祀られます。天におられる唯一人の真の神を信じる信仰においては、父と母とを敬いますが、父も母も神によって与えられた存在で、神の前には罪と弱さのある同じ人間として見ます。そして同時に両親、年長者を尊び敬います。しかし、父や母を敬えない、という人はどうしたらよいでしょうか。実際世の中にはそういう方がおられるのではないでしょうか。暴力を振るわれたり、愛されているという実感がなかったり、兄弟間で差別されたり、果ては虐待されたりと。そういう人に向かっても、「父と母を敬いなさい」と言えるのでしょうか。神は私たちに確かにそう命じておられます。しかし、もし親が先に挙げたような親であったとしても、敬うということは単に無条件服従をするわけではありません。罪を犯すことをしきりに勧めるようであればそれを拒むこともまた神の御言葉に従う者には必要なことです。しかしどんな場合でも、自分が親よりも偉くなってしまって、裁き手になっていないかどうか、これは私たちが学んでいかねばならないことでしょう。そしてこの戒めは、これだけやったら守っています、と簡単に言い切ることのできないものです。十戒後半の20章13節以下はすべて、何々してはならない、という否定的な命令ですが、第五戒だけは「敬え」という積極的命令です。否定的な命令も、実は積極的な命令を含んではいるのですが、字面の表現だけ見れば確かに第五戒だけが違います。こういう戒めは果てがありません。それは神に対して畏れと敬いの気持ちを抱くのと共通しています。
 そして最後に、この戒めには付け加えられている言葉があります。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」と(12節後半)。これは約束を伴う最初の掟です(エフェソの信徒への手紙6章2節)。これは神が良しとされる限り、つまり神に栄光をもたらすことと、その人の益になる限りにおいて実現される約束です。ですから、自分の長寿を第一の目的としてこの戒めを仕方なく守るというのではこの戒めを守っているとは言えなくなります。心では敬っていないのに、自分の長寿を願って表面だけこの戒めを守ろうとしても、それは人の心の内を見ておられる神の前には明らかです。ですから、この戒めは、自分と、父母と、またすべての人の上におられる天の神を畏れ敬い、愛する心を抜きにして守れるものではないということがわかります。そう考えるとこの戒めを「私はちゃんと守っている」などと自信をもって言える人などいないことが分かるのです。それでも神はこの戒めを私たちに命じておられます。神の御子キリストでさえ、親であるマリヤとヨセフに仕えて生活していました(ルカによる福音書2章51節)。私たちはこの戒めと向き合うことによって、自分と親、自分と神との関係をへりくだって考え、受け止め、従いなさい、と父である神から語りかけられているのです。  

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