「私だ、恐れることはない」2020.8.2
ヨハネによる福音書 6章16~21節

主イエスは、5,000人以上もの大勢の人々に、わずかなパンと魚を分け与え、しかも十分に与える、という奇跡をなさいました。そして人々がイエスを捕らえて王にしようとしている、ということを知って、主イエスは一人で山に退かれたのでした。今日の朗読箇所は、パンと魚の奇跡と、それに関係する22節以下の出来事との間にあって、とても短いいお話なのですが、主イエスが御自身をどのようなお方として弟子たちに示しておられるかが表されています。マタイやマルコの平行記事に比べて、ヨハネの書き方は大変簡潔です。簡潔なだけに、ヨハネが伝えようとしていることを、私たちはよりまっすぐに受け取ることができるのではないかと思います。

1.湖の上を歩くイエス
 主イエスはまだ弟子たちの所に来ておられませんでした。マタイやマルコは、イエス御自身が強いて弟子たちを舟に乗せて先に行かせた、と書いていますから、そういうことだったのですが、ヨハネは、とにかくイエスは一緒ではなかった、ということを言いたいのでしょう。イエスが一緒におられない弟子たちはガリラヤ湖に漕ぎ出しましたがガリラヤ湖特有の強い風が吹いて、湖が荒れ始めたのでした。ガリラヤ湖はすり鉢状になっており、時折山から強い風が吹き降ろしてきて、湖が荒れることがあるのでした。湖の向こう岸とありますが、割と北の方の湖岸からそう遠くない所を舟で渡って行ったものと思われます。
 主イエスは、神の御子としていろいろな奇跡をなさいましたが、いつでもどんな場面でも奇跡を行ったわけではありません。通常は自然現象などが起こる中に身を任せておられます。ですから、主イエス御自身が舟に乗っていても嵐が起こる時には起こりました。今回は主イエスが乗っていません。その中で弟子たちは舟に乗り込みました。弟子たちにとってはガリラヤ湖がこのように荒れることは承知の上でしたでしょう。今回の場合、嵐に遭ったというよりも、逆風にこぎ悩んでいた、とマタイとマルコは書いています。
 主イエスは、自然を支配する御力をお持ちですが、弟子たちが逆風に遭わないように予め風を静かにしておく、ということはなさいません。しばしば人生の逆境などを嵐に譬えることがありますが、主なる神はご自身を信じる者たちが嵐に決して遭うことのないようにはなさいません。むしろ世に生きている限り誰でも遭うような困難な状況、時には逆境と言えるような試練の中に置かれることもあります。しかし、そのことを通して、神を信じる民が、一層神に信頼を置くようにある種の鍛錬をし、その中においても主なる神の助けと導きがあることを悟らせてくださって、神と、より近く生きるようにと配慮されることがあるのです。

2.水の上をも歩くお方
 弟子たちは25ないし30スタディオンばかり漕ぎ出したとあります。5キロメートル前後です。イエスは強い風が吹いている湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られました。それを見て弟子たちは恐れます。このイエスのなさった水上歩行は、特に現代人には信じ難いことなのかもしれません。小さなトカゲのようなものが水の上を走る、という映像を見たことがあります。しかし人間の体重ではどう考えても水の上を歩くのは不可能だと思うのが普通です。しかしイエスは水をぶどう酒に変える、というしるしも行いました。いろいろな奇跡も、神の存在と力を信じるならば、その奇跡を信じるのはさほど困難ではなくなります。
 神はこの世にある一切のものを造られました。それは形ある目に見えるものばかりではなく、見えないもの、例えば重力や磁力、電気、なども造られました。通常は神はこの世界に与えられた自然の現象が起こるままにしておられます。雨や雪が降り、風が吹き、季節が移り変わること。時には大風が吹き、地震もあり、雷も落ちます。しかし御心に従ってそれらを意のままにして、通常起こらないことを起こすことがおできになります。
 ですから、主イエスが湖の上を歩かれたことも、通常の重力の法則からすればあり得ないことですが、神はそれをなすことができます。神の御子であられる主イエスは、必要に応じて神としての御力を発揮してこのようなことを行うことができるのです。もし私たちが主イエスのうちに、真の神を見ることができるならば、この水上歩行はあり得ないことして簡単に退けるわけにはいかなくなります。

3.わたしだ、恐れることはない
 弟子たちは、逆風にこぎ悩んでいたわけですから、主イエスが助けてくれないだろうかと思っていたかもしれません。しかし、まさか水の上を歩いて主イエスが近づいて来られるとはだれも思っていなかったようです。無理もないことでしょう。それで弟子たちはイエスの姿を見て恐れたのでした。一番頼りになる方が来てくださっているのに、それが分からずに却って恐ろしがる。確かに私たちも、暗闇で誰がいるのかわからないとその正体がわかるまでは恐怖を覚えるのです。
 ここで主イエスが「わたしだ」と言われたことには、実は深い意味があります。モーセに主が現れた時、主はエジプトからイスラエルの民を導き出すように命じられました。しかしモーセはイスラエルの人々に、主の御名を聞かれたら何と答えたらよいでしょう、と尋ねます。すると主は「わたしはある」というものだ、と言われたのでした(出エジプト記3章14節)。この「わたしはある」という言葉のギリシア語訳に訳した言葉が、主イエスの言われた「わたしだ」と言う言葉と同じなのです。主イエスは、出エジプト記でモーセに自己紹介をされた主なる神と同じ答えをされたということです。
 このような方が弟子たちの前におられたのです。弟子たちはこれを聞いてイエスを舟に迎え入れました。すると間もなく舟は目指す地に着いたのでした。それまで逆風に悩まされていた舟でしたが、イエスが乗りこまれるとこぎ悩んでいたはずの舟はまもなく目的地に着いたのです。「主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った」という詩編107編29、30節は、あたかもこの時の主イエスと弟子たちの姿をはるか昔に見て描き出したかのようです。主イエスはこのようなお方であることを、ヨハネは私たちに示しているのです。
 私たち人間は、この世でいろいろなものを恐れて生きているのではないでしょうか。子どもの頃は何もわからないのですが、段々と子どもにも怖いものができてきます。そして段々と病気や怪我等を通して、痛み、苦しみ、つらさを知るようになります。年を取れば、自然の力の恐ろしさを知るようになり、死を恐れるようにもなります。特に今、私たちはまだ正体のよくわかっていない新型ウイルスに恐れを抱いているかもしれません。
 また、漠然としているかもしれないが、何かを恐れている、ということも人の世にはあるでしょう。今手にしているものを手放さなければならない時がくること、愛する者との別離を味わわねばならないこと、今できることができなくなるかもしれないこと。恐ろしい病気にかかるかもしれないこと。地震、雷、火事、台風、洪水等のあらゆる災害。この世には人を恐れさせるものが満ちています。そのようにこの世の逆風に悩まされ、こぎ悩む私たちは未経験のものに出くわすたびに恐れるのです。
 しかし、その恐れているものの中に、またそれを通して、主イエスが近くにおられることを私たちは知らされます。ただ恐れるな、というのではなく、「わたしだ」と言って、一切のものの主権者であり、私たちに命を与えてくださったお方であり、私たちをお救いくださる方がそこにいる、と教えてくださいます。
 主から目を逸らして、恐れをもたらすものばかり見ているのではなく、目を天に向け、私たちに近づき、私たちの舟に乗り込もうとしてくださっている主がおられることを信じましょう。そして私たちが信仰の目をもって主イエスを見るならば、「わたしだ」と言って御自身を御言葉によって現わしてくださいます。そして主イエスが共におられると、こぎ悩んでいた状態から助け出し、間もなく、舟は目指す地に着くことができるのです。

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