「成熟を目指して進む」2020.7.26
 ヘブライ人への手紙 5章11節~6章12節

 今日朗読したヘブライ偉人への手紙の5章の終わりから6章にかけては、信徒たちの信仰の成長の度合いについての教えが書かれています。イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとして歩み始めた人は、ちょうど人が子どもから大人に成長してゆくように、初歩の段階から成熟へと向かって進むのだ、ということを教えています。信仰の度合いにも個人差がありますが、主イエスによって救われることに関しては皆一緒です。信仰歴が長いかどうか、牧師であるか信徒であるか、それに関係なく、主イエス・キリストによって、信じた者は救われています。
しかし、信仰者は成熟を目指して進むように召されている、ということを私たちは覚える必要があります。これは、信徒として成熟していかないと神の国に入れない、ということではありません。しかし、信仰の初歩に留まり続けるのではなく、成熟へと進むのが神の御心であり、そのように私たちは召されている、ということです。そうすることによって、より一層神の栄光を現すことにつながるからです。そしてもう一つここで教えられていることは、一度神の光に照らされて信仰に入った人が、その後に堕落してしまう、ということについてです。この二つのことを私たちはここで教えられています。

1.神の言葉の初歩を離れて成熟を目指す
この手紙の著者が誰であるか、諸説がありますが、よくわかりません。著者が誰であれ、キリスト教会では新約聖書として神のみ言葉として受け入れられてきたものです。ということは、そこで教えられている内容が、キリストを証ししているのであり、初代教会において、キリストを証しする神のみ言葉としての権威ある書物とみなされ、受け入れられてきた、ということです。
11節冒頭の「このことについて」とは、直前で言われていたことで、キリストが神の御子としてこの世に人としてお生まれになり、そして私たちの永遠の救いの源になってくださった、という趣旨のことです。そしてメルキゼデクのような大祭司と呼ばれた、と言われています。さて、私たちはこのことについてどれだけ理解しているでしょうか。著者は、これについて話すことがたくさんあるが、読者の耳が鈍いので容易に説明できない、とまで言っています。信徒たちを相手に、かなり厳しいことを語っていると言えます。あなたたちはいまだに初心者のままで甘んじているではないか、と。
固い食物と乳とが対比されています。乳とは初心者の時には誰でも教わるような、信仰と悔い改め、神とキリストについて、罪からの救いについて、などいろいろあります。固い食物とは、初歩の教えからさらに進んだ深い教えを指します。それは時には少し難しいと思われるようなキリスト教教理の話になるかもしれません。それは、6章1節、2節で言われている、基本的な教えを見ると分かりやすいです。「死んだ行い」とは神に対する関係を持たずに、あたかも神などいないかのように生きていることです。そこから神に立ち帰って、神に聞き従って歩むこと、それが「悔い改め」です。「神への信仰」。人が考え出した神々や偶像ではなく、生ける真の神を信じて生きることです。「種々の洗礼についての教え」「手を置く儀式」とは、教会において大事な儀式である洗礼式と、按手つまり教師や長老などが任職される時に、先に任職されている者たちが手を置く儀式があります。それによって教会の中で、その人が正当に神の前に職に任ぜられたことが公になるのです。「死者の復活」「永遠の審判」といったキリスト教信仰にとって大事な教理があります。キリストが復活されたのだから、キリストにつながる者も同じように復活させていただける。これは決して外せない教えです。そして神はこの世の最後に人間の罪を裁く時を定めておられること。このような基本的な教えがあります。キリストの十字架の贖いが言われていませんが、それはあまりにも大事なことで言うまでもないと思ったのでしょう。そのようなキリスト教信仰にとって、最重要な基本の教えに留まっていないで、成熟を目指して進みなさいと著者は読者を促しています。

2.一度光に照らされた者が堕落する
次に4節以下は主題が変わります。一度信仰による歩みを始めながらもその後堕落した人のことです。これは一見すると、大変私たちを恐ろしい思いにさせる言葉かもしれません。ここで言われている堕落とは、何を意味するかを知ることがまず大事です。全ての人間は神の前には堕落しています。それは最初の人アダムとエバの時から始まりました。このヘブライ人への手紙で言われていることは、もちろんそのことではなく、ひとたび主の救いの恵みをいただいたのに、堕落して信仰を捨ててしまった、という場合です。その場合は再び悔い改めに立ち帰らせることはできない、ということです。しかし、人によっては、洗礼を受けて信者になったのに、長期にわたって教会から離れて遠ざかっている人がいます。そういう人が、ここで言われているような人であるかどうかを簡単に判別することはできません。ここで言われているのは、あからさまに、徹底的にキリストに反対し、貶めるような場合です。キリストの十字架の贖いをけなすようなことを言い、完全に背いていることを公にし、偶像礼拝に染まっていくような場合ではないかと思います。他の人にも多大の悪影響を与えているわけで、茨やあざみを生えさせている、とはそういうことです。聖霊のお働きにあずかりながら、聖霊の恵みに背を向けて徹底的に背いてしまうことです。
主イエス・キリストを本当に信じて救われた者が、そこから堕落して落ちてしまうことがあるのでしょうか。人間の目から見れば、一度信仰に入った人が信仰を捨ててしまって、無信仰になる、というようなことがあるでしょう。しかし、神の側から見れば、一度主イエスによって救いに導きいれた人を神が失うということはありません。ひとたび主がその人を救われたのならもうその人を主の御手から奪い去ることなど、誰にもできはしないのです(ヨハネによる福音書10章27、28節、ローマの信徒への手紙8章38、39節)。真に神によって救われた者であれば、決して生涯の最後まで信仰を捨て去った形で終わることはありません。私たちは、このような御言葉を前にして、畏れを抱く者ですが、しかし、著者はこのことで読者を怯えさせようとしているのではない、ということがこの続きの言葉でわかります。

3.もっと良い、救いにかかわること
 それが、9節以下です。読者は、このような恐るべきことを聞いて恐れをなしているかもしれないと、著者は配慮して、「あなたがたについて、もっとよいこと、救いに関わることがあると確信している」と切り出すのです。読者のことを、神の言葉の初歩から教えてもらわねばならない人たち、と言っていたのですが、それでも、「あなたがたの働きや」「神の名のために示したあの愛を」神がお忘れになることはありません、と言っています。初心者のままだといって叱責するだけではないのです。読者は励まされたことでしょう。そして信仰の先輩たちを見習うようになってほしい、と締めくくります。既にあなたがたは熱心に主のために、教会のために働いている。だから最後までそれを続け、怠け者とならないように、と勧めています。ただし、主の教えの理解、神の言葉に対する理解については、幼い子供のままでいないで、成熟を目指しなさい。これがこの箇所での著者の言いたいことです。
 私たちも、信仰の道に入りますと、教会の中でいろいろな働きに与るようになってきます。初めは自分の信仰と、それに基づいて生活を築いていくことで精一杯ですが、段々と人のことにも目を向けられるようになっていきます。教会のことも、聖書に示されている教会についての教えを基準にして考えられるようになっていきます。
 信仰の初歩の段階から、進んでゆくのです。ここでは教えの初歩、と言われていますから、まずは、聖書の教えについて、キリスト教信仰についての知識を深めてゆくことが大事です。実は6章1、2節で言われている基本的なことですら、掘り下げてゆけば大変深い教えではあります。
では、難しいことをよりよく知っていればそれだけクリスチャンとして成熟しているのでしょうか。やはり、聖書とキリスト教教理について、良く知っているとしてもそれがその人の信仰を強め、教会において、家族や社会の中でも揺るぐことなく、キリスト者としての光を放ってゆくようになることが求められます。聖書のことは実によく知っているのに、家族にも周りの人々にも何も影響がない、というのではどうでしょうか。「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練」(5章14節)されていく必要があるわけです。
こう見てゆくと、クリスチャンとして歩むのは、ずっと成長してゆき、成熟することが求められているので気が重い、と思うでしょうか。しかし、それを心配するよりも、神のみ言葉をさらに深く知ってゆき、キリストの恵みの素晴らしさを知ってゆくことで、違ってきます。その歩みは、神が私たちを向上させようとしてスパルタ式で訓練するというのではなくて、私たちのうちにいてくださる主キリストが私たちを強め助け、聖霊によって心を常に支え、導いてくださるのだ、ということを覚えましょう。私たちの歩みは、ひたすら成熟を目指す競技者のような面が確かにあります。しかしそれだけではなく、主イエス・キリストと共に、主に連なる兄弟姉妹たちと共に、輝かしい神の御国を目指すものであり、それは喜ばしいものであるのです。

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