「真の神のみを礼拝する」2020.8.23
テモテへの手紙二 1章1~14節
私たちの日本では、先々週はいわゆるお盆休みでしたが、今年は帰省を控えましょうと言われていました。一方では旅行へ行きましょう、他方では控えましょう、とそれぞれの思いで国と自治体が語っておりました。そういう中、やはり例年よりは人出が少なく、静かに過ぎていったように見えました。故郷に帰っても、なぜ来るのか、帰れ、と誹謗されたという人がいた、という酷いニュースも聞きました。
日本ではお盆の時期は日本中、休暇の取得と帰省ラッシュで国中がそれに染まります。クリスチャンも会社の休みはそれによっているので、家族での行動なども、それに左右されています。教会の中会大会的行事も、お盆の時期は避けて、とか逆にその時期に休むから前後には修養会やキャンプはやりにくい、ということもあります。それほどに私たちはこの国ではそういう習慣に影響されているわけです。そういう日本に生きている私たちですが、だからこそ、今私たちの信じている真の神のみを信じて生きることを改めて覚えたいと思っています。この箇所は二年半ほど前にもお話したことがあるのですが、その時は10節を中心にお話しました。今日は、パウロ、テモテ、そしてテモテの祖母や母親に与えられた信仰、という観点から、真の神を知り礼拝することの幸いを教えられたいと願っています。
1.純真な信仰を与えられる
テモテは、使徒パウロによって救いに導かれた人で、パウロの弟子と言えます。パウロの伝道旅行にも加わり、ローマに行った時にも同伴していました。彼の父親はギリシア人、母親はユダヤ人ですが、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられていました。書かれているとおり、祖母もまた主イエスを信じている人でした。
パウロは、伝道者へと導いたテモテに手紙を書いて、福音宣教者としての心構え、教会で信徒たちを導き教えるために必要なことをいろいろと教えています。パウロはまず神に感謝して、テモテに教え始めます。パウロは生粋のユダヤ人ですから、先祖に倣って清い良心をもって神に仕えている、と言います。彼はユダヤ人として非常に熱心であり、イエス・キリストを信じないでむしろクリスチャンたちを迫害しておりましたが、天から呼びかけられたキリストによって回心し、以後、異邦人への宣教を特にゆだねられた使徒としてその生涯にわたって働きました。
その同じ神をテモテも信じています。まずテモテの祖母ロイスと母親のエウニケに信仰が宿り、そしてテモテも信仰に導かれました。それは、単に家の宗教だからとか、先祖伝来の宗教だから信じたのではありませんでした。確かにパウロがそうであったように先祖にならって清い良心をもって神に仕える、ということは大事なことではあります。しかし神は先祖がどこの国の人で誰であろうと、一人一人の魂の内に信仰を宿らせることがおできになります。
2.永遠からの恵みとキリストの出現
パウロもテモテも、それぞれの内に信仰を宿らせてくださったキリストの父なる神を信じて歩んできました。この神は、14節までの今日の箇所で、父なる神、主イエス・キリスト、そして聖霊として、つまり三位一体の神として示されています。この神は、計画をもっておられ、それをこの世の中で実現してゆかれます(9節)。その計画とは、この世にキリストを遣わし、この方によって私たちを死と滅びから救い、不滅の命を与えるというものでした。
この世に生きる私たちに対してそれを実現するために、一人一人に神は時を定められて招きによって呼び出すことをなさいます。私たちの行いが良かったから、という理由ではありません。そして、神は一人一人にこの世で生きる場を与え、務めを与えてくださいます。務めという場合、このパウロの場合は宣教者、使徒、教師、という特別なものでした(11節)。キリストによって直接宣教のために任命されたのは、最初は十二弟子たちでした。ユダの後にマッテヤが加わり、そしてさらに聖書の中ではパウロとバルナバだけが使徒、と呼ばれています。人類の歴史の中で十数人しかいない特殊な職務です。宣教者、教師、というのも教会の中でのある役職を示すものですが、パウロの場合、キリストから直接任命されて特別な力を発揮することのできた使徒、という任務も、宣教して人々を教えるという任務もすべて担っておりました。
それに対して一般の信徒の人たちは、今日でもそうですが、教会の中での職務を皆がゆだねられているわけではありません。しかし、キリストによって救われた人は誰でも、自分が信頼する神を知らされています(12節)。そしてそれぞれにゆだねられたものがあります(12、14節)。このゆだねられたものとは何でしょうか。
ここでパウロは、自分にもテモテにもゆだねられているもの、について語っていますので、福音宣教のために召し出され、そのために主からいただいている働きとそのための賜物、神のみ言葉を宣べ伝えるという極めて尊い務め、と言えると思います。では、特に福音宣教者ではない信徒の方々にとっては何でしょうか。いくつかの考え方がありますが、やはり福音そのもの、と考えていいと思います。今自分が主イエスに結ばれて救われ生かされているのは、福音によって招かれたからです。そして福音によって、つまり神のみ言葉によって魂の救いが与えられ、神の大いなる御業の中に取り込んでいただいたのでした。神の救いの御言葉が与えられ、生かされていることを覚えて、聖霊の恵みによってキリストへの信仰により歩み続けること。それこそゆだねられた良きものです。テモテに勧められているパウロからの言葉を、私たちも今日、それぞれが置かれている場で当てはめて考えてみる必要があります。
3.キリストにおいて御自身を現された神を礼拝する
それを今の日本での状況に当てはめてみると、例えば、このお盆の時期、世間一般にはご先祖様の霊が戻ってきて家に滞在していると考える風習等の中にあって、やはり私たちは唯一の創造者であり、私たちを救ってくださる唯一の救いの神、救い主イエス・キリストをお与えくださった真の神のみをあがめ礼拝する、という自分に与えられた尊いもの、良いものを守るように努めるのです。
長年の伝統とか、風習、慣習というものは、本当に強いと思います。年月の重みはなかなか一人の力では抗うことが難しい面があります。しかし、いかに日本古来のあるいは独自の宗教的伝統や慣習が生活に染みついているとしても、天地の創造主なる神の観点からみるならば、日本のようにキリスト教的伝統や習慣のない国の中で肩身の狭い思いをする必要はない、ということを知るべきではないでしょうか。全世界の主であり、創造者であられる神の御業の一つとして、この国の歴史もあります。永遠の昔にキリストにおいて与えられた、私たちのための救いとそれへの招きは、日本人であれ、どこの国の人であれ、全てその対象に入っています。キリストは全世界の人々のために、あらゆる時代の人々のためにこの世に出現されたのです。
私たちは、このアジアの東の端っこの方で、福音を伝えられ、救われましたが、特にこの日本では少数派のゆえに、それなりの苦労があります。しかし、それだけに私たちは日本の習慣的なものや偶像礼拝を通して、真の神の素晴らしさをよりはっきりと示されているのではないでしょうか。この日本ではキリストへの信仰は脇の方で小さくなっているしかないのではなく、本来真の神が礼拝されるべきなのに、そうなっていない、ということを忘れないようにしたいものです。
いろんな宗教は共存してお互いに干渉しなくてよい、という考え方もあるでしょう。確かに、この世の社会生活の面では、宗教的な違いを持ち出して論争し、争いに至り、果ては武力闘争になって殺し合いになる、ということをしてきた人間の暗い闇の部分があります。人間の深い罪のゆえです。
今日私たちは、この社会の中で家族ともに暮らし、隣人や地域の人々の中で生きています。そういう人たちは異教徒の人々か、宗教に無関心か、関わりを持ちたくないと思っている人がほとんどでしょう。特に家族と宗教の話ばかりしていたら、険悪な雰囲気になってしまい、もうやめてくれ、と言われるかもしれません。ですから、私たちはことさらに議論を吹っかけて宗教論争をするというわけではありません。そういう配慮は必要です。しかし、心の中で主をあがめ、真の神のみを礼拝することをやめるわけにはいきません。そして、真の神への礼拝に至っていない家族や周りの人々との関わりの中で、全ては真の神の御手の中にあることを常に信じてゆくのです。
必要な時、信仰について語るべき時はいずれにしても必ずやってきます。その時に備えて真の神を礼拝し続けていること、御言葉に聞き、常に祈りをもって備えていることも必要ですが、何より日頃から、真の神を信じて救いに与って生きていることを喜び、そこに自分の中心を据えて生活していることが大事です。私たちの内に主がお遣わしになった聖霊がおられて、主キリストのことを必ずや周りの人々に表わしてくださると信じましょう。聖霊なる神により頼む信仰にしっかりと立ちましょう。主はゆだねてくださった尊いものを必ずお守りくださいます(12節)。
日本ではお盆の時期は日本中、休暇の取得と帰省ラッシュで国中がそれに染まります。クリスチャンも会社の休みはそれによっているので、家族での行動なども、それに左右されています。教会の中会大会的行事も、お盆の時期は避けて、とか逆にその時期に休むから前後には修養会やキャンプはやりにくい、ということもあります。それほどに私たちはこの国ではそういう習慣に影響されているわけです。そういう日本に生きている私たちですが、だからこそ、今私たちの信じている真の神のみを信じて生きることを改めて覚えたいと思っています。この箇所は二年半ほど前にもお話したことがあるのですが、その時は10節を中心にお話しました。今日は、パウロ、テモテ、そしてテモテの祖母や母親に与えられた信仰、という観点から、真の神を知り礼拝することの幸いを教えられたいと願っています。
1.純真な信仰を与えられる
テモテは、使徒パウロによって救いに導かれた人で、パウロの弟子と言えます。パウロの伝道旅行にも加わり、ローマに行った時にも同伴していました。彼の父親はギリシア人、母親はユダヤ人ですが、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられていました。書かれているとおり、祖母もまた主イエスを信じている人でした。
パウロは、伝道者へと導いたテモテに手紙を書いて、福音宣教者としての心構え、教会で信徒たちを導き教えるために必要なことをいろいろと教えています。パウロはまず神に感謝して、テモテに教え始めます。パウロは生粋のユダヤ人ですから、先祖に倣って清い良心をもって神に仕えている、と言います。彼はユダヤ人として非常に熱心であり、イエス・キリストを信じないでむしろクリスチャンたちを迫害しておりましたが、天から呼びかけられたキリストによって回心し、以後、異邦人への宣教を特にゆだねられた使徒としてその生涯にわたって働きました。
その同じ神をテモテも信じています。まずテモテの祖母ロイスと母親のエウニケに信仰が宿り、そしてテモテも信仰に導かれました。それは、単に家の宗教だからとか、先祖伝来の宗教だから信じたのではありませんでした。確かにパウロがそうであったように先祖にならって清い良心をもって神に仕える、ということは大事なことではあります。しかし神は先祖がどこの国の人で誰であろうと、一人一人の魂の内に信仰を宿らせることがおできになります。
2.永遠からの恵みとキリストの出現
パウロもテモテも、それぞれの内に信仰を宿らせてくださったキリストの父なる神を信じて歩んできました。この神は、14節までの今日の箇所で、父なる神、主イエス・キリスト、そして聖霊として、つまり三位一体の神として示されています。この神は、計画をもっておられ、それをこの世の中で実現してゆかれます(9節)。その計画とは、この世にキリストを遣わし、この方によって私たちを死と滅びから救い、不滅の命を与えるというものでした。
この世に生きる私たちに対してそれを実現するために、一人一人に神は時を定められて招きによって呼び出すことをなさいます。私たちの行いが良かったから、という理由ではありません。そして、神は一人一人にこの世で生きる場を与え、務めを与えてくださいます。務めという場合、このパウロの場合は宣教者、使徒、教師、という特別なものでした(11節)。キリストによって直接宣教のために任命されたのは、最初は十二弟子たちでした。ユダの後にマッテヤが加わり、そしてさらに聖書の中ではパウロとバルナバだけが使徒、と呼ばれています。人類の歴史の中で十数人しかいない特殊な職務です。宣教者、教師、というのも教会の中でのある役職を示すものですが、パウロの場合、キリストから直接任命されて特別な力を発揮することのできた使徒、という任務も、宣教して人々を教えるという任務もすべて担っておりました。
それに対して一般の信徒の人たちは、今日でもそうですが、教会の中での職務を皆がゆだねられているわけではありません。しかし、キリストによって救われた人は誰でも、自分が信頼する神を知らされています(12節)。そしてそれぞれにゆだねられたものがあります(12、14節)。このゆだねられたものとは何でしょうか。
ここでパウロは、自分にもテモテにもゆだねられているもの、について語っていますので、福音宣教のために召し出され、そのために主からいただいている働きとそのための賜物、神のみ言葉を宣べ伝えるという極めて尊い務め、と言えると思います。では、特に福音宣教者ではない信徒の方々にとっては何でしょうか。いくつかの考え方がありますが、やはり福音そのもの、と考えていいと思います。今自分が主イエスに結ばれて救われ生かされているのは、福音によって招かれたからです。そして福音によって、つまり神のみ言葉によって魂の救いが与えられ、神の大いなる御業の中に取り込んでいただいたのでした。神の救いの御言葉が与えられ、生かされていることを覚えて、聖霊の恵みによってキリストへの信仰により歩み続けること。それこそゆだねられた良きものです。テモテに勧められているパウロからの言葉を、私たちも今日、それぞれが置かれている場で当てはめて考えてみる必要があります。
3.キリストにおいて御自身を現された神を礼拝する
それを今の日本での状況に当てはめてみると、例えば、このお盆の時期、世間一般にはご先祖様の霊が戻ってきて家に滞在していると考える風習等の中にあって、やはり私たちは唯一の創造者であり、私たちを救ってくださる唯一の救いの神、救い主イエス・キリストをお与えくださった真の神のみをあがめ礼拝する、という自分に与えられた尊いもの、良いものを守るように努めるのです。
長年の伝統とか、風習、慣習というものは、本当に強いと思います。年月の重みはなかなか一人の力では抗うことが難しい面があります。しかし、いかに日本古来のあるいは独自の宗教的伝統や慣習が生活に染みついているとしても、天地の創造主なる神の観点からみるならば、日本のようにキリスト教的伝統や習慣のない国の中で肩身の狭い思いをする必要はない、ということを知るべきではないでしょうか。全世界の主であり、創造者であられる神の御業の一つとして、この国の歴史もあります。永遠の昔にキリストにおいて与えられた、私たちのための救いとそれへの招きは、日本人であれ、どこの国の人であれ、全てその対象に入っています。キリストは全世界の人々のために、あらゆる時代の人々のためにこの世に出現されたのです。
私たちは、このアジアの東の端っこの方で、福音を伝えられ、救われましたが、特にこの日本では少数派のゆえに、それなりの苦労があります。しかし、それだけに私たちは日本の習慣的なものや偶像礼拝を通して、真の神の素晴らしさをよりはっきりと示されているのではないでしょうか。この日本ではキリストへの信仰は脇の方で小さくなっているしかないのではなく、本来真の神が礼拝されるべきなのに、そうなっていない、ということを忘れないようにしたいものです。
いろんな宗教は共存してお互いに干渉しなくてよい、という考え方もあるでしょう。確かに、この世の社会生活の面では、宗教的な違いを持ち出して論争し、争いに至り、果ては武力闘争になって殺し合いになる、ということをしてきた人間の暗い闇の部分があります。人間の深い罪のゆえです。
今日私たちは、この社会の中で家族ともに暮らし、隣人や地域の人々の中で生きています。そういう人たちは異教徒の人々か、宗教に無関心か、関わりを持ちたくないと思っている人がほとんどでしょう。特に家族と宗教の話ばかりしていたら、険悪な雰囲気になってしまい、もうやめてくれ、と言われるかもしれません。ですから、私たちはことさらに議論を吹っかけて宗教論争をするというわけではありません。そういう配慮は必要です。しかし、心の中で主をあがめ、真の神のみを礼拝することをやめるわけにはいきません。そして、真の神への礼拝に至っていない家族や周りの人々との関わりの中で、全ては真の神の御手の中にあることを常に信じてゆくのです。
必要な時、信仰について語るべき時はいずれにしても必ずやってきます。その時に備えて真の神を礼拝し続けていること、御言葉に聞き、常に祈りをもって備えていることも必要ですが、何より日頃から、真の神を信じて救いに与って生きていることを喜び、そこに自分の中心を据えて生活していることが大事です。私たちの内に主がお遣わしになった聖霊がおられて、主キリストのことを必ずや周りの人々に表わしてくださると信じましょう。聖霊なる神により頼む信仰にしっかりと立ちましょう。主はゆだねてくださった尊いものを必ずお守りくださいます(12節)。
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