「永遠の命に至るために」2020.8.9
 ヨハネによる福音書 6章22~33節

 弟子たちを先に湖に漕ぎ出させた主イエスは、後から湖の上を歩いて弟子たちの舟まで行かれました。そして舟に乗り込まれると、舟は間もなく目指す地に着いたのでした。他の福音書では、イエスが舟に乗りこまれると風は静まった、と書いています。今日の朗読箇所では、イエスは御自身のことを、永遠の命に至る食べ物を与えるお方であることを示されました。御自身が天から降って来た命のパンであることを、これから後、語って行かれます。このイエスの御自身についての証しを巡る論争が続きます。私たちは、この主イエスのお話から、神がこの世に、永遠の命を与えるために遣わされた御子イエス・キリストというお方を目の前に見せられています。私たちはこの方に目を向け、そのお語りになったことを見なければなりません。

1.パンを食べて満腹したから
 さて、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちの舟に乗りこまれたことを知らない人々は、イエスも弟子たちもいないことに気づくと、他からやって来た別の小舟に乗って、イエスを探し求めてカファルナウムへやって来ました。いつここへ来たのか、と人々は問いましたが、主イエスは初めから彼らの目的を見抜いておられました。人々は、イエスのなさった「しるし」、つまりイエスが神のもとから来られた方であることを明らかにする業を見て、それに引き付けられて更にイエスを求めたのではなく、ただパンを満腹するまで食べさせてもらったから探し求めていたのです。
 ですから、人々はイエスを王にしようとしたのでしたが、それはあくまでもこの世の生活で、食べるものを十分に供給してくれる有り難い王様になってほしいと思ったからでした。つまり、人々の中には、この世の生活が安心して送れるならばそれでよいという考え方が根っ子にあるということです。
 それに対して主イエスは、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。まず、ここで言われていることは、この世で生きて生活してゆくための食べ物を得るために働く労働を否定しているわけではありません。ここで主イエスが言われる「働く」とは、私たちの命にとって、それが最も大事なものであるとして追求し、獲得しようとして全身全霊をそれに向けてゆくという意味です。
   主イエスは、普通の食べ物は大事であり、日ごとにそれを天の父なる神に求めるようにと主の祈りで教えておられます。しかし、更に大事なのは、主イエスが与えてくださる、永遠の命に至らせていただける食べ物を追い求めなさい、ということです。主イエスは、5,000人以上もの人々にパンと魚を十分に食べさせることのできるお力を示されましたが、それはこの世の食糧をいつでも十分に供給することを第一の目的にしているわけではありません。永遠の命に至る食べ物を与える方であることを知らせたいのです。それこそ、主イエスが人々に与えてくださる食べ物です。
    「父である神が、人の子を認証された」と主イエスは言われました。別の訳では「証印を押された」(新改訳)となっています。他に「確認する、判を押す、封印する」という意味があります。すべてにおいて主権を持つ天の父である神が、人としてこの世に来られたイエスこそ真に神の御子であり、天の父なる神が世にお遣わしになった唯一の救い主であることを確かに認めておられるのです。

2.神の業を行うために何をしたらよいか
 これを聞いていた人々は、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」という主イエスの御言葉を聞いて、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのでした。彼らが言う「神の業を行う」という時の「行う」という言葉は、27節で主イエスが「働きなさい」と言われた言葉と元々は同じ言葉です。ただ、人々が言った「業」という言葉は複数形で言われていますので、人々はやはりあの業、この業、という風にいろいろな人間の働きのことを指して考えていたのです。
 しかし、主イエスは違うことを言われました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と(29節)。ここでイエスが言われた「神の業」は単数形です。そして、神が遣わされた者とは、即ちご自分のことですから、イエスを信じることが神の業そのものだということです。神の業という時、神が私たちのためになしてくださる業、という見方もあるのですが、ここでは神が私たちに求めておられる業、という意味であると受け止めます。神は、神の独り子である御子イエス・キリストを信じることを私たちに求めておられるのです。
 では、それ以外の、例えば神への愛と隣人愛はどうなのか、という問いが出てくるかもしれません。しかし、神の御子イエスを信じる、ということにそれらも全て含まれていると言えます。神の御子を信じることから全てが始まるのであり、聖霊の恵みを受けて神の子どもとされた者たちが、新しい歩みを始めるのです。そして信じることは、私たちが働いて成し遂げた何かの業績ではなく、ただ神の前にへりくだり、主イエスによる救いをいただくことです。

3.神のパンは永遠の命を与える
 これを聞いた人々は、ではあなた、つまりイエスを信じることができるようにどんなしるしを行ってくれるのか、と問いかけます。イスラエルの先祖たちは、モーセの時に、荒れ野でマンナと呼ばれる、神が天から降らせてくださった食べ物をモーセの手を通して受けたのであり、同じように天からのしるしを見せてほしいと言うのです。主イエスは、既にパンと魚を人々に十分に食べさせるというしるしを行われたのですが、人々はそれをしるしとして受け止めることができていませんでした。やはり彼らは、偉大な預言者モーセに捕われており、目の前にいて、しるしを見せてくださったイエスのことをモーセより偉大な方だとは見ることができなかったのです。
 それに対して主イエスは、昔、人々に天からのパンを与えたのはモーセではなくイエスの父である神が与えたのだ、と言われます。モーセも確かに天の父である神が遣わされた預言者には違いありません。しかし、モーセは与えられた務めとして人々に神の言葉を語ったのであり、モーセ自身が神からの、人々に命を与えるパンそのものではないのです。それに対してイエスは、御自身こそ、天の父である神がこの世に遣わされた神のパンであり、世の人々に命を与えるものだ、と言われました。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、と過去形で言っておられますが、その後、わたしの父が天からの真のパンをお与えになる、と現在形で言っておられます。大昔ではなく、今この時に、イエスを信じる者に命を与えてくださるのです。
 命とは、この世が決して与えることのできない命です。モーセを通して与えられたマンナという食物は、確かに神がくださったものでしたが、それはあくまでも体を養うための食糧でした。しかしイエスという天からのパンは神のパンであって、新しい命、神とつながる命、栄光の神の国につながる命、永遠の命を授けてくださるのです。
 このようなお方を私たちも今、天からのパンとしていただいているのです。永遠の命に至る食べ物のために働くとは、その主イエスを信じより頼むことです。それはイエスのために教会で奉仕するという意味ではありません。そのことは、イエスという天からの真の命のパンをいただいて、神の業を行う、つまりイエスを信じたことの結果として現れてくるものです。あれこれの働きをしなければ永遠の命に至ることができない、と考えるのをまずやめて、自分のあれこれの働きを脇へ押しやって、天からの命のパンであるイエスを見上げて信じ、この方によって新しく生かしていただくという一つの「神の業」をまず求めるのです。そこから初めてあれやこれやの働きが始まってゆきます。

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