「恵みと憐れみの神」2020.8.16
 ヨナ書 4章1~11節

 今日は、旧約聖書の中でも独特の書物であるヨナ書から、神のみ言葉に聞こうとしています。ヨナ書の物語は、教会学校でも子どもたちにしばしば語られる興味深いお話です。旧約聖書では、神に選ばれた民であるユダヤ人のことが中心で、それ以外の異邦人は神に背く民であり、偶像礼拝を行う罪深き者、という印象を受けやすいのですが、神は全ての民族に対して、実は憐れみ深いお方であることを私たちはこのヨナ書から教えられます。救い主イエス・キリストがこの世に来られて全世界の人々に救いの福音を伝えよ、とお命じになりましたが、そこに直接通じるものがあるのがこのヨナ書です。


  1.ヨナ書という書物

 アミタイの子ヨナについては、列王記下の14章25節に、その預言が実現したことが書かれています。その実現したことは、紀元前の八世紀の中頃のことですので、ヨナはそれ以前に預言したわけです。また、そこにはヨナがガチ・ヘフェル出身だとあります。そこは、主イエスが過ごされた村であるナザレから5キロメートルほどの所です。ちなみに主イエスはヨナについて取り上げて、御自身が十字架の死後三日間、墓の中におられることをほのめかされた時に語っておられます(マタイによる福音書12章40節)。しれをヨナのしるし、と言っておられました。そしてニネベの人たちはヨナの説教を聞いて悔い改めたことも語っておられます。

 この書物は預言書の中に入れられていますように、預言者ヨナが神の御心を告げるのですが、話はヨナという人物の行動と、ニネベの人々の反応、そしてそれに対する神の御心、これらを読者である私たちが聞きとるように、という狙いをもって書かれています。この預言書はどういう書物なのかという時に、歴史的事実である、という見方もあれば、一つの寓喩であり、物語のいろいろな構成要素一つ一つに具体的な事柄や国を当てはめて何かを伝えようとしているのだ、という見方もあります。さらに、これはたとえ話のようなものであって、実在のヨナという預言者を主人公にして、神からのあるメッセージを語ろうとしている、という見方もあります。この最後の見方が適当ではないかと思います。ヨナの物語を通して、神はどのようなお方であるかということを教えようとしている預言書として読むのです。


  2.ニネベの人々の悔い改めとヨナの怒り

 さて、ヨナは主から、ニネベに行って人々に呼びかけるように命じられたのですが、ヨナは船で逃亡します。ところがその船は嵐に遭い、沈みそうになったので、人々は誰のせいかとくじを引き、ヨナに当ります。ヨナは主の前から逃げてきたことを人々に白状し、自分を海に投げ込めば海は穏やかになる、と言いました。それで人々はヨナを海へ放り込むと海は静まったのでした(1章)。そしてヨナは主の備えられた巨大な魚に飲み込まれて三日三晩魚の腹の中におり、そして命によって魚はヨナを陸地に吐き出しました(2章)。

 再びニネベに行くことを命じられたヨナは、今度は逃げずにニネベに行き、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」という神のみ言葉を告げ知らせたのです。ニネベは、アッシリアの首都で、紀元前612年に滅びてしまいました。悔い改めたのに結局は滅んだのか、と思いたくなりますが、ヨナ書はニネベについての歴史的経過などについては関心がないので、私たち読者も、この物語に込められた神の御心を聞きとればよいのです。ですから、魚に人間が飲み込まれて三日三晩も生きていられるはずがない、ということを議論しても意味がありません。

 さて、ヨナが神の言葉を告げると、ニネベの人々は神を信じて断食し、王もそれを聞くと粗布を身にまとって、断食を命じる布告を出しました。そして人々は悪の道を離れ、不法を捨てたのでした(3章)。これを見た主なる神はヨナによって宣告されたように、ニネベに災いをくだすのをおやめになりました。しかしこのことがヨナの怒りの原因となりました。ヨナにはこうなることが分かっていたから、最初の時には船で逃げたというのです。神がニネベを滅ぼす、と言われたので、そのことをヨナがニネベで宣告することでニネベの人々が悔い改めたために神は思い直されて災いを下すことをおやめになりました。

 ヨナは何が気にいらなかったのでしょうか。二つ考えられます。一つには、アッシリアという、異教徒でしかも神の民を苦しめている者が神の憐れみによって赦されることです。神は憐れみ深いお方だから、もし滅びの宣告をしてニネベの人々が悔い改めればきっと赦しを与えるに違いない、と思ったのです。アッシリアの人々など滅んでしまえばよいと思っていたということでしょうか。

 もう一つは、ヨナは預言者としてニネベの町で滅びを宣告したのに、自分が言った通りにはならなくて、預言者としての立場をなくした、と思ったのかもしれません。しかし、どちらにしても、神がニネベの人々を赦される、ということが不満だったわけで、このようなヨナの態度に対して、神の憐れみと慈しみを対比させようとしていると言えます。ヨナはそれをよく知っているはずでしたが、神のその大いなる憐れみと慈しみが異邦人にも注がれることを素直に喜べませんでした。しかし神は、ヨナに対しても憐れみの目を注ぎ、神の憐れみを悟るように願っておられます。


  3.神は恵み深く、憐れみ深いお方である

 このようなヨナに対して、神はとうごまの木を生えさせられて、日射しを避けさせ、しかし翌日には枯れさせることで、ヨナにとうごまの木を惜しませる気持ちを味わわされました。とうごまは旧約聖書でここだけに登場する木で、2~3メートルに成長する一年生植物です。日射しを避けることができたのでヨナはとうごまの木を喜びましたが、翌日には枯れてしまい、そのことを大変惜しみ、怒りました。

 主なる神は、ヨナがそのようにとうごまの木を惜しむくらいなのだから、御自身はなおさらニネベの人々や家畜などを惜しまずにいられるだろうか、と言われます。ニネベの人々も他のあらゆるものも、全ては神の御手の業によるものです。神はご自身がお造りになったものに対して、憐れみの御心をもっておられます。その憐れみの御心は、ユダヤ人にだけ向けられているのではないことをヨナも、最初の読者であるユダヤの人々もよくよく知るべきでした。

 確かに神はユダヤの人々を神の選びの民とされましたが、そのことによって神の恵みと憐れみと慈しみを受ける神の民がいかに幸いであるかを教えようとしておられました。そしてその恵みと憐れみは異邦人にも向けられる、ということをユダヤの人々も喜ぶべきです。神の選民とそれ以外の異邦人という線引きをせずに、あらゆる民族、世界中の人々に対して神の恵みと憐れみは及んでいることを、神の民として選ばれた人々こそ知らねばならないのです。

 今日、ここにいる私たちは、ユダヤの人たちから見れば、最も神に遠い所にいた者です。創世記の10章にはあらゆる国々の一覧表がありますが、地上の諸民族の中に私たちなど影も形もありません。そのような私たちですが、神の恵みと憐れみによって救い主イエス・キリストの福音を聞くことができます。神は、旧約聖書の時代から長い時間をかけて、そして特にこのヨナ書において、御自身の恵みと憐れみを歴史の中で示してこられました。私たちは、ヨナが4章2節で言っているように、言葉の上で神は恵み深く憐れみに満ちておられる、と言うことは簡単です。しかし、本当にそのことがわかっているでしょうか。私たちはどうしても偏狭になりやすいものです。自分とその周りの人々、自分の町や祖国、それらのものに目が向いてそれらが良いものを受けることを自然に願っています。

 しかし、神は憐れみ深いこと。悔い改める者には赦しを与える恵み深く、忍耐深いお方であること。私たちはもっとそれを味わう必要があるのかもしれません。この世で起こる様々なことを通して、私たちはそれを一層よく知るようにと招かれているのではないでしょうか。その神の恵みと憐れみと、忍耐深さと慈しみは歴史の中でこのように示されてきましたが、特に主イエス・キリストの御生涯と十字架に現れ、私たちにも与えられました。今一度、主の十字架を仰ぎ、その大いなる恵みと憐れみを悟らせていただきたいと願いつつ、祈りましょう。

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