「新しい命を与える神の恵み」2020.2.16
 エゼキエル書 36章25~38節

 エゼキエル書は、旧約聖書の預言書の中でも、不思議な視覚的啓示をいろいろ示している独特な預言書です。今日は、このエゼキエル書から、特に重要な教えを聞きたいと願っています。

1.エゼキエルという人と書物
エゼキエル書は、イザヤ書、エレミヤ書に続く大預言書と呼ばれます。この三人はそれぞれ紀元前8世紀、7世紀、6世紀に活動しました。紀元前6世紀、イスラエルの国は既に北王国イスラエルは滅びており、南王国ユダだけが残っておりました。このユダ王国にもバビロン帝国の脅威が迫ってきており、紀元前6世紀に入った頃、バビロン帝国が第一次の侵略をしてきました。エゼキエルはその時、捕囚の第一陣としてバビロンに連れて来られました。彼はそこで神の栄光を見、幻を見、時には神の霊によって引き上げられてエルサレム神殿に連れて来られる、という経験をします(8章以下)。
彼は、祭司ブジの子です(1章3節)。祭司は世襲制なので、エゼキエル本人も祭司であったと思われます。彼は預言者として、身をもって神の御心を人々に示す、という仕方で働きました。時にはエルサレムに向かって四十日にわたって横たわることを命じられ(4章)、神の毛と髭を剃ってそれを燃やしたり、打ったり、散らしたりすることでイスラエルの成り行きを示すことも命じられました。白昼壁に穴をあけて荷物を運び出せ、と命じられたこともありました(12章)。彼には妻がおりましたが、ある日彼女は突然に死ぬことを告げられ、その死を悲しむな、とも命じられます(24章)。しかし、泣いても嘆いてもいけない、と言われます。それ自体がイスラエルの人々に対する神の裁きの宣告となるのでした。
イザヤも、エレミヤもそれぞれに身をもって神の御心を人々に告げ知らせたという意味では、同じ働きをしましたが、エゼキエルの場合は非常に独特な言わば演技のような形で、しかも時には妻の死、という最も悲しむべきことすらも預言者としての務めを果たすために用いなければならなかったのでした。エレミヤも泥の井戸に沈められたり、牢屋に閉じ込められたり、と大変な経験をしましたし、独身で過ごしたと思われます。エレミヤも多くの苦悩を味わった預言者でした。そして、イザヤ書は詩的文学的に優れたものと言われます。エレミヤ書もイザヤ書ほどではないにしても、詩的な部分も多く、エレミヤ本人の嘆きが切々と歌われている所もあります。しかしエゼキエル書はそのような面が少なく、エゼキエル個人の思いとか、肉声が聞ける面が殆どない、と言われます。先ほどの妻が死んだときのことも、彼は淡々と記しているだけです。
このようにエゼキエルという人は、文学的な面よりも、神の御言葉をそのまま示し、身をもって神の啓示を示す、という預言者でした。預言者は誰でも大変な経験をしましたが、もしかすると多くの人がエゼキエルのような経験はしたくない、と思うかもしれません。愛する妻が突然亡くなっても、悲しむな、嘆くな、と命じられ、それが神の御心の啓示だ、というのですから、預言者としての務めに徹底していなければ、また、自分の心の思いを打ち消していくのでなければ務まらない、という感じがします。また、書物としてのエゼキエル書は、時に描写が露骨な部分もあります。しかしその内容は極めて重要なものを含んでいます。ではまず、今日の箇所の文脈を見ておきます。

2.預言の背景
この36章の初めを見ますと、新共同訳では「イスラエルの山に向かって」という小見出しが付いています。ここでは、イスラエルの山々と町が擬人化して語られています。それは、イスラエルの町や山々を征服した民が、「永遠の丘」として尊ばれてエルサレムの都が今や自分たちの所有地となった、と言って喜び、略奪してはしゃいでおり、しかもそれらの土地を荒れ果てた状態にしたからです。主なる神は、そのように辱められた土地がやがて枝を出し、実を結ぶ、と約束しておられます。そして略奪をほしいままにした者たちは恥を負うことになる、と。そしてイスラエルから捕え移された民は、やがてその山々に帰ってくる、というのです(~8節)。
そして主なる神は、イスラエルの廃墟を再び立て直し、人を住まわせると言われます(10節)。二度と辱めを受けることはないとも約束されました。なぜ神がそのようになさるのか、というと主の聖なる御名のためである、ということを明らかにされます(22節)。イスラエルの汚れを清め、偶像からも清めるのは、主御自身の聖なる御名が汚されてしまったので、それを一掃し、主の御名の聖なることを示すためです。主の御名によって呼ばれているイスラエルが廃墟となって汚されているままであるということは、主なる神は、ご自分の民を守ることができないのか、と侮辱され汚されることになるからです。私たちは、日頃主イエスの教えてくださった「主の祈り」を唱えていますが、「御名をあがめさせたまえ」という祈りは、主の御名がいかに尊ぶべき御名であるかということを私たちに教えているということを思い出しましょう。

3.新しい心、新しい霊を与える
さて、エゼキエルの預言の大事な点についてお話しします。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルと並べてきますと、それぞれ活動した時代がずれています。イザヤは、これからアッシリア帝国が北からせめて来る、という紀元前8世紀の終り近くの時代、エレミヤが預言を始めたのは、アッシリアの次にその地方一帯を征服したバビロン帝国がエルサレムを陥落させる40年ほど前、紀元前7世紀の終わり近く、そしてエゼキエルは、既にイスラエルの人々がバビロンに捕囚となって連れられて行き、しばらく経った紀元前六世紀の前半にバビロンのケバル川のほとりで神の顕現に接したのでした。このバビロンは、今のイラクの首都バグダッドのあたりで、ペルシャ湾から北西500キロメートルほどの所です。イザヤもエレミヤも旧約聖書の中で非常に重要な預言を語った預言者です。イザヤはメシアの到来と、苦しみを受けることについて、そしてそれによって神の民の受ける幸いについて、語りました。エレミヤは、新しい契約について語り、新約聖書の新しい契約に直接つながる預言を語りました。その際、石の板に書き記された律法を民の心に記す、と語っていました(31章33節)。エレミヤも、主は、主を知る心を民に与える、ということは言っていました(24章7節)。
 それに対してエゼキエルは、民の心に神の戒めである律法を書き記す、という所からもう一歩進んで、民の心を新しくしてしまう、という預言を語ったのです。それがこの36章です。聖書の預言というのは、全部、それぞれの時代の中で語られています。預言者たちも、一様にあらゆることを預言したわけではありません。次の時代の預言者は、前の時代の預言者より一歩進んだ面を語ることがあります。前の預言者と同じことばかり語っていたのなら、人々の記憶に残らないでしょうし、何よりも主なる神御自身が、時代ごとに新たな面を、預言者を通してお語りになってきたのです。これを啓示の漸進的(前進的ではなく)性質といいます。少しずつ神の御心が開かれて、民に示されてゆく、ということです。
 エゼキエルが語った、「お前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」(26節)というのがエゼキエルの語った新しい教えの一つです。そればかりか次の37章では死んだ者を生き返らせるとまで言われます。エレミヤが語ったように、神の律法が心に記されるだけではなくて、心そのものが新しくされる、というのですからこれはもう神の大いなる恵みとしか言えません。エレミヤの語った新しい契約は、実際新約聖書の時代においては、聖霊によって人々の心が新しくされる、ということは含まれていますが、エレミヤよりもエゼキエルにおいて一層明らかに語られたということです。
新しい心を与えられた人は、石の心が取り除かれます。石の心とは文字通り頑なな、神の御言葉を受け入れようとしない心です。しかし、石の心が取り除かれて肉の心が与えられると、柔らかい心で神の御心を悟り、受け入れ、従う者とされるのです。「肉」とは新約聖書では、生まれながらの罪深い人間を表わすのに用いられることがありますが、エゼキエルの預言で言われているのはそういう意味ではなく、頑なな石の心に対比しての柔らかい従順な心のことです。このような心が与えられて何が起こるかというと、人々が主なる神の民となり、主なる神はその人々の神となってくださる、ということです。この新しい心の特徴は、ただ幸せな思いになるというのではなくて、自分の罪深さを知って「自分の悪い歩み、良くない思いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに自分自身を嫌悪する」(31節)ばかりか、自分の歩みを恥ずかしくも思うのです。しかし、それは人々が清められることに伴ってだということも忘れてはなりません(25節)。主なる神は、私たちをただ自己嫌悪に陥らせて、自分の罪を嘆かせるだけではなく、そこから立ち上がり、新たな歩みを始め、主なる神のものとされて、神の民として歩むことの幸いを悟らせ、喜びの内に生かしてくださいます。
 今日私たちは、救い主イエス・キリストによって救いの恵みに与っています。エゼキエルの預言は、そのことをはるか昔に示していたのでした。今や私たちは、将来のこととしてエゼキエルが語った祝福に満ちた預言が、実現した時代に生かされています。エゼキエルの預言は確かなものであった、と言えるのです。神は主イエス・キリストによって、神の救いの御業を実現し、本当に私たちを救い、私たちを罪と死と滅びから救い、神の民として新たに生かしてくださる恵みをくださいました。私たちもなお、この世を生きてゆきますが、主イエスによって与えられた神の救いは確かに実現することを信じて進んでゆけます。死んでいた者を生き返らせる創造的な力によって私たちを新しい神の民としてくださいます。私たちはそのような恵みをいただいているのです。

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