「異教徒の間で立派に生活しなさい」2020.2.9
 ペトロの手紙一 2章11~17節

 2月11日は、建国記念の日と定められています。キリスト教会では「信教の自由を守る日」として、この日を覚えております。昨年天皇の代替わりで、平成から令和という元号になりました。これは、象徴天皇制という日本に生きていることを意識させますが、新しい令和の時代になった、と単純に受け止め方をしている人々も多いようです。今日は、2月11日を前にして、改めて日本に生きるクリスチャンの振る舞い、生活について、神の御言葉に聞きたいと思っています。

1.異教徒とはどんな人たちか
日本人の中でクリスチャンは人口の約1パーセントである、と言われています。ですから、私たちの周りは異教徒か、無宗教の人が殆どです。家が代々仏教である、という人は多いと思いますが、ご自分が熱心な仏教徒である、という人は案外少ないように思います。葬式をするとなれば仏教式で、お墓もお寺にある、という人は多いでしょうし、教会員の方々も、実家はそうである、という方が多いと思います。私たちは、異教徒であるかどうかはともかく、クリスチャンでない人に囲まれている、というのが実情でしょう。そういう中で、私たちはクリスチャンとして生きています。いや、生かされています。キリストを信じる信仰に導かれた人は、神によってその信仰に導かれた、と教えられています。だとすると、今自分がこうしてキリストを信じる信仰によって歩み、日曜日には教会で礼拝を献げる、というこの生活は、神によって与えられたものです。自分が選び取ったのではなく、神によって召し出されたのです。そのことを今、改めて心に深く留めていただきたいと思います。
さて、では異教徒とはどんな人たちでしょうか。一つ言えることは、唯一の真の神、天地創造の神を信じているのではない人たちです。いろいろな神様を信じている人たちは日本にたくさんいますが、確かに、天地創造の神を信じているのではない人たちは、はっきり異教徒であると言えます。預言者エレミヤが次のように言っています。「このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は 地の上、天の下から滅び去る、と」(エレミヤ書 10章11節)。神々と呼ばれてはいるが、実は存在していないも同じだ、ということです。このように言うと、だからキリスト教は排他的なのだ、と言われると思いますが、それが聖書の教えです。
では、聖書で語っておられる天地創造の神を信じていれば、その人は異教徒ではない、と言えるかというと、もちろんそうではありません。ユダヤ教徒の方と、イスラム教徒の方は、天地創造の唯一の神を信じています。聖書でアブラハムに語りかけた神様を信じています。しかし、イスラム教には「コーラン」という聖典がありまして、そこに記されていることは聖書に書かれていないことであり、厳密に言うと同じ神様とは言えない、ということになってきます。何よりも、イエス・キリストを預言者の一人としかみなしていません。イエスを神の御子、唯一の救い主とは信じていませんから、やはり異教徒です。ユダヤ教も一人の神様を信じていますが、イエス・キリストが神の御子であるとは認めませんから、やはり異教徒です。真の神は、御子イエス・キリストを救い主として世にお遣わしになった方です。
しかし、皆さんの中で周りにイスラム教徒の方やユダヤ教徒の方がいる、という方はいるでしょうか。最近では世界中からいろいろな国の人たちが入って来ていますからイスラム教徒の方などはだいぶ増えていることとは思いますが、やはり今の私たちにとって、異教徒というと日本人で仏教を信じている人たちや、神社神道を信じている人たちが思い浮かぶと思います。職場などで神棚に手を合わせる人、神社でお守りを買って身に着ける人、初詣に神社に行き、お祓いをしてもらう人、お葬式をお寺で行う人、道端のお地蔵さんに手を合わせ、仏壇や仏像の前で拝む人などでしょうか。日本には多種多様な新興宗教もあり、仏教もいろいろ分かれていますから、他の宗教行為を見たことがある、という方もいるでしょう。それが多くの場合私たちにとっての異教徒であろうと思います。それで、イスラム教徒、ユダヤ教徒の方々を念頭においてのことは、改めて考える必要があるとは言えます。ここでは、日本の諸々の宗教を対象にお話をします。

2.クリスチャンの世界観
その意味での異教徒の方々とクリスチャンとで、信じていることの違いはどこにあるでしょうか。それは世界で起こっていることは全て天地の創造者である一人の神のもとにある、という点です。世界観が違います。聖書は一人の神の御意志によって世界が造られ、神の国の完成という目的にすべてのものは向かっている、と教えています。もちろん聖書以外にも、天地開闢のお話しがある宗教はありますが、やはり天地創造について明確な世界観を示しているのはキリスト教です。そのような世界観に立っているクリスチャンは、この世の生活を旅人であり仮住まいの身である、と自覚しています(11節)。この世で持ち家のあるなしは関係ありません。永久にそこに住むわけでないことは誰でも知っていますが、クリスチャンは特に、神によって与えられた土地や家を感謝して受け、そこに神が許したもう期間、住まわせていただくのです。しかしそこには、常に魂に戦いを挑む肉の欲があります。つまりこの世の目に見える持ち物、人々からの賞賛や栄誉などは手を変え品を変え、私たちを目の欲、肉の欲に誘います。それらを避けなさい、というのです(同)。与えられたものは感謝して受け、その上でよりよく用いることを考えます。持ち物を何も持たずに禁欲的に生きよと命じられているのではありません。施すのも献金するのも、自分のために使うのも良しとされています。しかし、天に宝を積みなさい、と主イエスが言われたことを思い出しましょう(マタイによる福音書6章20節)。また、施しをしたバルナバを真似して偽って献金し、厳しい裁きを受けたアナニアとサフィラの罪を、警告としましょう(使徒言行録 5章1~11節)。
いずれにしても、全ては神から来るのであり、神が感知していないことなどこの世には何一つないことを信じて生きているのがクリスチャンです。もちろんクリスチャンとて、人間ですから、何が来ても動じることはない、と自信をもって言えない、ということもあるでしょう。確かにその通りです。しかし、クリスチャンの場合、世界観、人生観、死生観、人間の寿命、病気と健康、といったこの世の人間についてのとても大事な要素について、ある一つの筋の通った見方をしています。それは私たちにすべての理由や意味や目的がわからなくとも、神様がご存じである、という信仰があり、その中に私たちは生かされている、ということです。
そして、何よりも、私たちのすべての罪を、神の御子、救い主イエス・キリストが十字架で担ってくださったという真理に足を据えています。人の罪は究極的には、イエスの十字架によらなければ拭い去られることはない、という信仰があります。私たちが、もし立派な生活をするとしたら、私たちの生活の根底には、この真理が土台にあるのです。そしてその生活の特徴として言えることは、クリスチャンは、この世を決して世捨て人のようには生きていない、ということです。世の中にあって、まじめに、社会の一員として生活し、社会的義務を果たせるように努めます。そうでないと、キリストの栄光が曇らされてしまうからです。

3.立派な生活の目的
もし、町の中でクリスチャンとして神の前に立派に仕事をし、慈善事業をして人々を助け、地域に安全と平和と秩序をもたらすのに貢献している人がいたら、それは立派な生活をしている、と言えるでしょう。しかし誰でもがそうできるわけでもありません。立派な生活とは、全てを見ておられる神様の目の下にある、ということを知っているからこそできる生活です。それは、人が見ていなければよい、裁判で無罪になりさえすればよい、権力によって悪事を覆い隠してしまえばよい、立場を守るためなら、嘘でも方便でもなんでもあり、というものの考え方とは対極にあります。それは言い換えれば私たちが、主イエスの言われたように地の塩、世の光となるということです(マタイによる福音書 5章13、14節)。
それは私たちが自分を律して、立派な生活をするクリスチャンに無理して自分を仕立て上げるということではありません。そうであったら、この世でのクリスチャンの生活は息苦しいものとなるでしょう。そうではなく、自分には神様がおられる、主であるイエス様がおられる。この単純な事実に立ち、そういう者として日々生きていることに現れてくるものです。そういう者として隣人に出会うなら、必ずキリストの香りを放っているはずです(コリントの信徒への手紙二 2章15節)。キリスト御自身が光を放ってくださるでしょう。神がすべてご存じですから、私たちは見栄を張る必要はない。自分を偉く見せる必要もない。失敗や過ちを犯した時には、神の前に心から悔い改める道があります。嘘やごまかしで切り抜ける必要もない。究極的にはすべてをご存じである神様にお任せすればよい、と考えているのです。それはこの世に対する投げやりな生き方とは違います。祈りによって神様が良い方へと導き、助けてくださることも信じています。自分だけでなく、家族や隣人も助けてくださると期待します。
そうすることで、今は主を信じないで、あるいは反対している人も、訪れの日に神をあがめるようになると言われています。訪れの日とは、その人に神が訪れてくださって、神御自身を現わしてくださる時である、と言えます。クリスチャンとして生活することは、時に誤解されて、悪人呼ばわりされることがある、と言われています。今日、人々は勝手なイメージでキリスト教や、クリスチャンに対してあるレッテルを貼っているかもしれません。それでもすべては神がご存じです。解くべき誤解は解いておきたいですが、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」と言われている御言葉を心に留めましょう(ペトロの手紙一 3章15、16節)。

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