「キリストの教会として立つ」2020.3.1
エフェソの信徒への手紙 4章1~16節

 今年、尾張旭教会は、「キリストの教会として成長する」という標語を掲げました。昨年からの継続で、エフェソの信徒への手紙2章20、21節によるものです。この2章では、神の家族である教会においては、キリストがかなめ石であり、キリストにおいて組み合わされて成長してゆくことに焦点が当たっています。今日の朗読箇所の4章でも「成長する」ということが言われています。今日の箇所ではどちらかというと私たちがキリストの体として造り上げられてゆくこととその状態、働き、という面に焦点が当たっています。これらの御言葉から、私たちがこの世においてキリストの教会として立てられていることの意味や目的について教えられています。それは取りも直さず、キリスト教会がこの世において与えられている使命や存在意義につながってくる話です。

1.キリストの体は一つである
この第4章では、初めの方に何度も「一つ」という言葉が出てきます。体は一つ、霊は一つ、一つの希望、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は唯一、と。このことは、今日の私たちにとっては、特に重要な教えです。キリスト教会は世界中に広がって存在しています。そしていろいろな教団教派が林立しています。未信者の方が初めて教会に来られた際、カトリックとプロテスタントがある、ということを知っている方もありますが、そういったものを全く知らない方もおられます。そして様々な教団教派があることを知ると驚かれることもあります。確かに、どうして一つではなくてそれほどまでに多くの教派が存在しているのだろうか、と疑問に思うのは不思議ではありません。聖書では、これほどまでに「一つ」という点を強調しているではないか、という疑問です。確かに神は唯一、キリストはただ一人の救い主であられます。だとしたら、みんな同じ一つの教団でよいではないか、と思いたくなるでしょう。しかし、この世では人間は不完全であり、不十分であります。どうしても偏りがあり、見逃しがあります。そのため、いろいろな主張が時代によって、また地域によっても起こり、聖書の教えの理解の仕方にも違いが出てきました。それでも、一人の神のもとに、一人の救い主イエス・キリストのもとに、教会は立っていると信じてきたのがキリスト教会です。聖書の解釈が違ういろいろあっても、一人のキリストを唯一の救い主と信じ、父なる神と、神の御子キリスト、そして聖霊なる神が三位一体の一人の神であると信じてきたのがキリスト教会です。その基本的な点から外れた者を異端としてきたのでした。私たちはそのことも心に留めつつ、それでも主キリストはこの世で教会を存続させてきてくださっていることを覚えましょう。そして、今ここに集う私たちも、イエス・キリストをかしらとする教会の一つの枝であることを自覚しましょう。

2.キリストの体としての働き
そのキリスト教会は、キリストをかしらとして結び合わされています。それゆえ、体としての機能を持ち、働きがあります。その体を構成しているのは人ですから、人の働きです。11節に挙げられているのは、教会における様々な職務です。これがすべてではありませんが、ここでは神の御言葉を教える、という点に関する職務です。使徒、預言者と呼ばれるものは初代教会独特のものであり、時代的に限定されている職務です。今日使徒たちは地上にいませんし、初代教会のように預言者、と呼ばれるものもありません。次の福音宣教者は、今日でも存在しているような、各地を巡って伝道するような働きと思われます。私たちの改革派教会では、巡回教師という働きがあります。また、宣教師の働きもこれに当ると言えるでしょう。そして牧者、教師ですが、この四つ目と五つ目だけは二つ並べて牧者また教師、と挙げられています。それで、この二つは別々の職務のことではなくて、一つの職務について二つの言葉で表現したものではないかと思われます。私たちの教会でも、牧師は教師であり、日本キリスト改革派教会の牧師として各教会の牧師を務めています。その他、今日の職務の区別では、神学教師というものもありますが、これは教師の内、特に教えることに専念している働きです。
 ここでは、教えるという点に絞って職務が挙げられていますが、聖書全体からすると、他に長老、執事に当る働きが示されています。しかしここでは特に教える務め、また牧師として教会を牧する働きが挙げられているのです。
 このようにして地上に教会という人の集まり、神の民の集まり、信仰の共同体が形をとって姿を現してくるのは、ある目的があるからです。私たち人間の営みには、みなそれぞれ目的があります。この教会にも神がお定めになった目的があります。今私たちはそのことを、この箇所から教えられています。

3.愛に根差して真理を語る
 そもそも主なる神が福音宣教を教会にゆだねられたのは、救い主として来られた主イエス・キリストの福音を世界に広め、人々を救いに導くためです。人々に救いの道を示し、神の国へと招き、永遠の命の恵みがあることを告げ知らせるためです。そのために、神はこの世に教会を立てるという手段を取られました。イエス・キリストを救い主と信じた人々の中から人々が個別に宣教に出かけて行って各地で福音を伝える、というだけではなくて、福音を聞いて信じた人々がキリストの復活された日曜日ごとに集まって神を礼拝し、そうすることによって信仰が養われ、保たれ、成長してゆくようにとされたのです。私たちはやはり一人では大変頼りないものです。だれでも、良く教えられて、育てられていかなければ、成長は望めません。そして主は、私たちが教会において、礼拝を共にし、神の御言葉を教えられながら、互いに祈り合い、助け合いながらこの世の中で主の民として生きてゆくようにしてくださっています。そのために教会は立てられており、その教会によって福音が広く告げ知らされるようにされました。そして教会の中に、先に見たようにいくつかの職務を立てられたのでした。先ほども言いましたように、御言葉を語る職務の他に、長老、執事、という務めを定められました。使徒言行録14章23節にあるように、教会ごとに信徒たちの中から長老たちが任命されて、教会を治めるようになさったのです。私たちの尾張旭教会も四年前まではそのような体制でありました。今、牧師の他に長老たちが立てられていない状況が続いていますが、主なる神の御心に従って、長老たちが立てられるように、祈り求めてゆきましょう。それが聖書の示す教会の姿として最もふさわしいからです。日本キリスト改革派教会では、伝道所のことを「自治組織未完備」の教会として位置付けています。「伝道所」も「教会」には違いありません。ただ、自治組織が未完備なのです。全く備わっていないわけではないけれども、完備までは行っていない。そういう状態です。伝道所には宣教教師がいますが、二人以上の長老たちが立てられて、牧師と共にその教会を治めてゆくことが望ましいのです。
 そして主が器を立ててくださって、導いてくださることを祈り求めるのですが、そのためには、現在の教会の裾野が広くなってゆくことも必要です。そして福音宣教にさらに励んで必要があります。その際に忘れてはならないことがあります。それは、どんなに小さく、あるいは自治組織が未完備であるとしても、救い主イエス・キリストをかしらとする教会として神が立ててくださったのだ、という真理です。そこに神の御心があるということです。誰か人間の意向や好みで教会が立てられたのではありません。そのことを覚えつつ、15節にありますように、「愛に根差して真理を語る」ということ。そして「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長して」ゆくこと。これを私たちは心に留め、主がそのように導いてくださるよう祈り求めるのです。
 「あらゆる面で」という言葉に注目しましょう。人間の成長も、身長体重の成長と共に、知識や分別が育ち、段々と自分だけでなく、人との関係も考え、社会の中での一員として振る舞い、大人としての考え方ができるようになってゆきます。教会においても、人の数が増え、経済的に力が付くことは大事なことで、そのために努める必要がありますが、それと同時にそれ以上に、霊的に、信仰の面で、また聖書の御言葉をよく知る、という点において成長してゆくことがここで言われている成長です。数量的な面だけでの成長が成長ではないのです。そうすることで、風のように変わりやすい教えにもてあそばれることがなくなりなります。この成長は、信徒一人一人が信仰の面で大人になってゆくことでもありますが、教会は、キリストをかしらとする一つの体ですから、体全体として成長してゆくことが求められています。それは一朝一夕にできるものでもありませんが、それを神は求めておられ、必要な助けと導きを与えてくださることを私たちは信じるのです。
そして真理を語るのですが、その際、愛に根ざして語るのだ、と言われています。ただ正しいことだからと言って語るだけではなく、愛に根ざして。これは言葉で言うほど簡単ではありません。しかし、愛に根ざすというとき、他の人も救われてほしいと願う自分の中にある隣人愛に基づいて、という所よりももっと掘り下げて、神様が、その御子イエス・キリストによって私たち罪人を救おうとしておられるのだ、というその愛に根ざしてです。個人的に誰それの救いを願う、ということはとても大事なことです。けれどもその愛が、キリストを十字架に着けるほどの神の愛に根ざしている、ということをよくよく弁えておきましょう。私たちが願う前に神が望んでおられるのが罪人の救いです。そのような教会としてこの世に、この地域に立てられていること。そのことをよく自覚して互いが補い合い、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、それぞれの部分が分に応じて働く。それが教会の姿です。長老が立てられることは祈り求めますが、それはあくまでも、魂の救いと信徒の養い、福音宣教のために仕えるものです。かしらなるキリストの御心に従って、体全体がふさわしく成 長してゆけるように祈り続けましょう。

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