「天から来られた方に聞く」2020.3.8
 ヨハネによる福音書 3章31~36節

私たちはこの世に生まれてきていろいろなことを聞き、学び、語ります。そして多くのことを吸収し、考えるようになります。人類全体として考えると、人間がこれまで探求し、解明してきたことは数多くあり、私たちの今日の生活はそこから非常に多くの恩恵を被っています。しかし、それでも人間の知識や知恵にはやはり限界があります。たとえば宇宙の始まりはどのようであったのか、ということを今日の物理学などではいろいろな仮説が立てられていて、それらにはそれぞれある根拠があって語られているわけですが、やはり誰一人として目撃したわけではありません。そのようなことを思いつつ、今日の御言葉に聞きましょう。私たちはこの、神の御言葉である聖書から、地から出る人間の言葉ではなく、天から、上から、神から来る御言葉を聞こうとしています。

1.人間の限界を知る
先ほど、宇宙の始まりのことについて触れましたが、そう言いますと、聖書は人が直接的には書いたのに、天地創造の話が、まるで見てきたかのように書かれているではないか、という声が聞こえてきそうです。確かに神の存在を信じない人々にとっては、人間の創造や、それ以前のことがどうしてわかるのだ、それらは人間の作り出したお話、神話、物語にすぎないのではないか、と。私たち人間は、もし神からの言葉があって、それが人間に与えられているとして、それを何らかの証拠によって示すことができるでしょうか。特に神の存在を否定する人に対しては、何を言っても、証拠にならない、と言って受け入れられないことでしょう。ということは、今日私たちが神を信じていることは、神が私たちの心の中に、聖書の御言葉が本当に神から来たものだというある確信を与えてくださっているからです。それは聖書に示されています。聖書が本当に神の御言葉である、という確信は、私たちが聖書を学び、聞くときに神の聖霊が働いてくださって、悟らせてくださるからです。ですから、私たちは天地創造のお話しを聞いたときに、最初は分からないかもしれませんが、次第に神の御言葉である、という信仰に導かれます。それは、自分がすべて納得したとか、全ての意味が良く分かったということではありません。私たち人間には限界があって、理解できない面もあるけれども、確かにここで神が語っておられ、神が何かを私たちに向けて告げようとしておられることを信じるのです。

2.天から来られる方に聞く
さて、31節以下の言葉を見ていきますが、まず、今日の朗読箇所は誰の言葉でしょうか。ギリシア語の原文では括弧などはついていませんから、文脈で判断するしかありません。新共同訳では31節から新たな括弧でくくられています。30節までは洗礼者ヨハネの言葉ですが、また改めて括弧でくくっていますので、著者のヨハネの言葉ではないとしています。前の口語訳聖書では36節まで連続して洗礼者ヨハネの言葉でした。そして新しく翻訳された聖書協会共同訳では、31節以下は著者のヨハネの言葉としています。恐らく著者のヨハネの言葉ではないかと思われます。ヨハネによる福音書は独特な書物で、主イエスの言葉にしても、著者ヨハネの言葉にしても、ヨハネの深い瞑想と考察を通して語られているような雰囲気があります。この箇所も、誰の言葉にしても、著者ヨハネの深い考察を通して神から示された真理が明らかにされているものです。
上から来られる方、つまり天から来られる方。これはイエス・キリストのことです。つまり神から来られる方です。27節では、洗礼者ヨハネが、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言いましたが、それはあくまでも天つまり神から与えられて人は初めて何らかの働きをすることができる、ということでした。今日の箇所では、御子とも呼ばれるキリストは、天から来られ、神から遣わされて、この世に来られたことが示されています。
そしてこの方は何をなさるのか、またこの方に対して、神が何をなさったかがいくつか上げられています。まず神の言葉を話されます。そして神が霊を限りなくお与えになること。そして、神がこの方、つまり御子を愛してすべてをその手にゆだねられたことです。今あげた三つのことは、人に対してはどうかというと、確かに神は人に神の霊を与えてくださって、新しい命に生かしてくださる、と私たちは教えられています。しかし限りなくとまでは言われません。預言者たちも神の言葉を人々に告げ知らせますが、彼らの語る言葉がそのまま神の言葉であるというわけでもありません。また、神は人を愛してくださいますが、全てをゆだねるということはありません。いわば人間に対しては、神は神の霊である聖霊を与えてくださいますし、神の御言葉をくださいます。また、私たちを愛してもくださいます。しかし、人に対しては限定的であるとも言えます。神は私たちをこの御子キリストによって救ってくださいますから、その恵みは私たちにとっては十分であり、豊かなものであります。しかし、全てをゆだねられるわけではない。ここで語られている神の御子キリストとの違いは、まず神にとって御子は救う対象ではありません。御子キリストは、私たち罪人を救うために神が遣わした全権大使というべきお方です。御子キリストを信じること、従うこと。これは取りも直さず神を信じること、神に従うことです。御子キリストに従うことは神に従うことなのです。私たちはそのような方として神の御子イエス・キリストをいただいているのです。

3.神の御心を尋ね求める
私たちはこのような天から来られた方、キリストを与えられています。しかし、ここでヨハネは、この方の証しを誰も受け入れない、と言っています(32節)。キリストは神の御子としてもともと神のもとにおられ、神と共におられ、しかも神であった、とヨハネは一章の冒頭で語っておりました。それもまた預言者たちとは大きく違います。預言者たちはあくまでも神から語るべきことを受けて、示されたことだけを語っていました。預言者と言えども、神のことをすべてわかっていたというわけではありません。しかし神の御子キリストは神のもとに会って、全てを神と共にしておられました。そのような方の証しを誰も受け入れない、と言うのです。それは、全ての人は自分の力では受け入れることができない、ということです。
しかしすぐその後で「その証しを受け入れる者は」と続けていますから、何らかの理由で受け入れることのできる人がいることを明らかにしています。私たちは、神から来られた方の証しを受け入れるためには、まず聞かなければなりません。神は、今や全世界に向けて神の御言葉を、教会を通して告げ知らせてくださっています。そこで、神の御言葉を聞く機会を備えてくださっています。そして聞いて神が真実であられることを確認するためには、神の霊、つまり神の聖霊のお力による恵みが必要です。その聖霊の恵みもまた、天から来られた方であるキリストに聞くことを通して、いただくことができます。
ですから私たちは、聖書を通して語っておられる神の御子キリストの御声を聞かなければなりません。聞く、というのはまず聖書において語っておられる御言葉を聞くことです。しかし私たちにとってはそれだけではありません。今、私たちに語りかけておられるキリストの御心を尋ね求めるのです。私たちは、地から出た者ですし、地に属する者です。それでも地に属する者に上から、天から来られた方の御言葉が与えられています。地に属する者の言葉はこの世に満ちています。そして私たちにたくさんのことを語りかけ、この世での充実した生活、経済的に満たされる方法、目に見える形の幸福を描き出して引き付けようとします。健康も、仕事も、娯楽も、芸術鑑賞も、もともとは神から与えられた恵みの一つです。しかし地に属する者はそのことを当初は知りませんから、それ自体で楽しもうとします。しかし、天から来られた方の御言葉を聞くと、それらは神のくださったもので、感謝して受けるなら捨てる必要はないものだということを知ります。しかしそれらは私たちを救うことはできません。私たちの魂の救いのためには、すべてのものの上におられる神の御子キリストを仰がなければなりません。もし人がこの世に属する者の上に目を上げて、天から来られた方に目を向けるなら、神の真実を見出すことができるのです。それは神から与えられる神の霊、聖霊の恵みによります。目を天に向ける人は、実は神の霊の恵みを受けていたことを自分の身において明らかにするのです。
これは私たちの思いや意向や努力などによっては得られません。神から私たちを救うための全権をゆだねられている御子キリストに自分を明け渡す人に与えられるものだからです。自分が自分の主ではなく、主は天から来られた方なのだ、と認めて自分を主に明け渡す。こうすることが、私たちの真の喜びになり、真の平安をもたらし、魂の救いをもたらします。
今、新型コロナウイルスによる感染の脅威が広がっています。特に高齢者の方は注意が必要です。このようなことは、今年の初めには私たちは誰も予想もしなかったことでしょう。今後どうなってゆくか誰にもわかりません。私たちも正しい情報を得て、デマなどに惑わされない姿勢を持つ必要があります。そういう中でも、全てを支配し御心のままに御業をなさる神を信じ、その御心がどこにあるかを私たちは尋ね求めます。私たちは主なる神の御手の力を信じつつ、出来ることはし続けます。一人一人が日々の生活の中で守られ、注意しながらも決して惑わされず、浮足立たず、揺れ動かされないでいることができるように、天から来られた神の御子、イエス・キリストの憐れみと導きと助けを祈り求め続けましょう。天から来られた主イエス・キリストに常に聞く者は、決して揺り動かされることはないのです。

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