「天から与えられなければ」2020.2.23
 ヨハネによる福音書 3章22~30節

私たちはこの世でいろいろなものを持っています。それは命、体、人(家族、友人、知人)、物、土地、家、仕事、才能、など、いろいろなものがあります。それらは、神との関係で考えると、全て与えられたものです。いろいろものを私たちはこの世で持っているかも知れませんが、実はどれ一つとして与えられたのでない、というものはない、と言えます。すべては神から与えられて自分のものとなっている、ということです。今日は、このことをこのヨハネ福音書の朗読箇所から、特に教えられております。

1.主イエスと洗礼者ヨハネ
しかしこのことが語られた背景を知るには、洗礼者ヨハネと救い主であり神の御子であられる主イエス・キリストとの対比を見なければなりません。ヨハネと私たちとの対比と、ヨハネと主イエスとの対比を見ることで、私たちの真の姿を知ることになり、主イエスというお方を知ることになります。
さて、洗礼者ヨハネが神から遣わされて人々に洗礼を授けていたことがすでに記されていました(1章33節)。他の福音書では、イエスもヨハネのもとに来て洗礼を授けられた、と書かれております。洗礼者ヨハネの洗礼は、今日のキリスト教会が授けている洗礼とは違います。ヨハネはあくまでも、自分の後から来る神の御子、世の罪を取り除く方を迎える備えをするために人々に悔い改めを迫り、そのしるしとして洗礼を授けておりました。そのヨハネのもとに主イエスも行って洗礼を受けられました。イエスは人となられましたが神の御子として罪のないお方です。しかもヨハネ自ら、イエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。それなのにイエスが罪の悔い改めのしるしである洗礼を受けられたのは、主イエスが私たち罪ある者たちの側に立って、罪人の一人に数えられ、そうしてご自分を十字架で献げることによって私たちの罪を取り除き、贖う方となられるからでした。ヨハネはそのことを知りつつ、主イエスの願い通りに洗礼を授けたのでした。ですから、ヨハネは初めから自分の所に洗礼を受けにやってきたイエスというお方が、本来は洗礼を授けられる必要のない方であることは知っていましたが、主イエスの望み通りにしたのです。
 そういう主イエスでありましたが、イエスもまたユダヤ地方に行って、ヨハネと同じように洗礼を授けておられたのでした。しかし、4章2節によりますと、実際に洗礼を授けていたのはイエスの弟子たちでした。このイエスが弟子たちの手によって行っておられた洗礼も、今日のキリスト教会の洗礼とは異なるものと思われます。まだ主イエスが十字架についておられない段階では、キリスト教会の洗礼と同じ意味では行われていなかったはずです。洗礼者ヨハネの洗礼と同じような位置づけの洗礼として行われていたと思われます。この後、主イエスがご自分でも弟子たちの手を介してでも、洗礼を授けられたという記事は出てきませんのでそのように理解できると思います。
 この時、ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こりました。ユダヤ教においては、聖書(旧約)の教えに基づいて、いろいろな清めの儀式がありました。出産、皮膚病、時にはかびが家に生じた場合など、その他もろもろの場合に清めの儀式を行うように規定されています。ユダヤの人々は汚れとその清めについて、大変敏感でありました。この論争はヨハネの弟子たちから持ちかけられたものと見られますが、ヨハネの弟子たちは自分たちの先生によるものこそ、真の清めをもたらすと主張したかったのかもしれません。それだけではなく、同じようにイエスが洗礼を授けている、ということを知って、自分たちの先生の立場を心配したのかもしれません。

2.天から与えられて受ける
しかし、当のヨハネは全てのことを正しく判断していました。ヨハネは自分の立場と役目を神の前で正しく理解していたのですが、その弟子たちはそうではなかったようで、後に、洗礼者ヨハネの弟子たちによる分派的な集団が生じたのでした。主イエスも、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった」と言われました(マタイ 11章11節)。それほどの人ですから、ヨハネの役割を正しく理解できなかった弟子たちは、自分たちの先生が本来伝えたかった、イエスこそ世に来るべきお方である、という大事な使信を脇へ追いやって、ヨハネの存在を高めることに心が向いてしまったのでしょう。
 このような弟子たちを持っていたヨハネでしたが、彼はやはり自分の立場を正しく受け止めていました。天から、つまり神から与えられるのでなければ人は何も受けることはできない。この真理を彼は語ります。ここでヨハネが言うのは務め、働き、という面についてですが、持ち物はもとより、何であっても私たちは天から、つまり神からいただくのでなければ何も受けることができません。ヨハネは、自分がメシア=イエスの前に遣わされたものであることを十分自覚していました。
 ヨハネは人間の中で最も偉大なものだと主イエスは言われましたが、そのヨハネも、神の御子イエス・キリストの前では与えられた役割を果たすべく遣わされた者に過ぎません。私たちも全く同じであって、神からいただいたものを受けて、その範囲内でなすべきことを行うのみであり、何も誇ることはできません。
 人は自分を高く評価してもらいたい、という潜在的な思いを持っているのではないでしょうか。そして高く評価されないと不満に思ってしまうのです。確かに人間は人のことを完全に把握することなどできませんから、人を評価するにあたって間違うことがあり得ます。むしろ正しく評価できていないことの方が多いかもしれません。そういう人間同士の中にあって、私たちは、すべてのものを人に与えることのできる神の前では、与えられるものを喜んで受けることができます。なぜなら、神は私たちのことをすべて知っておられ、人間のように判断や評価を間違えたりすることがないからです。もとより、私たちは神の前に、高く評価してもらえるものなどないと言えます。それでも神は御自身の御心に従って賜物をそれぞれに分け与え、それをよく用いるようにと望んでおられます。

  3.花婿キリストを喜ぶ
そして、ここでヨハネが言っているように、私たちは一切のことを神の御子イエス・キリストとの関係において理解するのです。花嫁と花婿の譬えがありますが、旧約聖書においては、神とその民(イスラエル)を、花婿と花嫁に譬えることがあります。主なる神は、ご自分の民を花嫁に譬えて見ておられるのです。ユダヤの結婚式では、花婿の介添え人は花嫁を迎えて確実に花婿のもとへ連れてゆきます。そして二人が一緒になればそこで彼の役目は終わります。ヨハネは自分がそれだと言います。そして花婿が花嫁を迎えることを心から喜ぶのです。何よりも人々が主イエスのもとにいって、イエス・キリストと一つに結ばれることを喜ぶ。自分はそれを見届ければあとは退いてゆくばかりであることを知っており、それでも喜びに満たされていることができるのです。
さて、改めて私たちが天から、つまり神様から与えられているものは何か、考えてみましょう。最初にあらゆるものをいただいている、ということをお話ししました。天、つまり神の御心によって私たちは生かされ、命を与えられ、まずこの世で生きるようにとされました。しかし神の前に罪ある私たちは、新しく生まれなければならない。その新しい命も、神の御子キリストによって私たちに与えられます。そこにも神の御心があります。そして私たちは、自分が主なる神によって命を与えられ、賜物を与えられ、救いを与えられている、ということを知ると、人のことを全く違う目で見ることができるようになります。人は、自分が比較して競う相手ではなく、共に花婿である主イエス・キリストを喜び、神のもとにあって共に喜ぶべき存在となってゆきます。
天から、つまり神から与えられなければ人は何も受けることができません。これは裏返せば、神から与えられれば人は素晴らしい恵みを受けることができるということです。この受ける、というのも神が与えてくださるからこそ受けられる、ということです。いくらください、ください、と願っても神が与える、と言ってくださらねば人は受けることができません。しかし、幸いにも、神は恵みを出し惜しみすることなく、溢れるばかりに注いでくださいます。救い主イエス・キリストのもとに来て、この方を花婿として喜ぶ者には、惜しみなく与えてくださいます。そのような神の恵み深い御心が、キリストによって自分に向けられているということを知り、キリストを花婿として喜ぶ者としていただけるのです。私たちはそのことを知らされて、天から与えられて受けることの幸いを知るのです。

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