「本当の信仰とは」2018.9.9
マルコによる福音書 12章38~44節
主イエスは、御自身が世に来るべきメシア=キリストであることを自覚しておられました。しかしユダヤ人たちの宗教的指導の立場にある律法学者たちは、主イエスがお考えになっているものとは違うメシア理解をしていました。そしてそれは正しいメシア理解ではありませんでした。そこで主イエスは、律法学者たちの教えだけではなく、その行いを見て注意するようにと言われました。そしてそのすぐ後に一人の貧しいやもめの話が続きます。今日はこの二者が対照的に描き出されています。この律法学者と貧しいやもめの対比を通して、私たちは真の信仰とはどういうものか、それは日常の中でどのようにあらわれてくるのかを教えられています。 1.律法学者の行い 律法学者の教えではなく、彼らそのものに気をつけるようにと主イエスは言われます。その教えのみならず、普段の行状全体を見て気をつけるようにというのです。長い衣とは、いわゆる正装のことで、いかにも律法学者であることが分かるような服装です。律法学者ともなれば町の人々にも知られている存在ですから、町を歩いていれば大体わかるというものです。その上さらに正装をして、すぐに分かるようにするということは、要するに自分の存在を周囲に知らしめて目立たせ、挨拶されるなどして尊敬を受けているものであることを見せびらかすような態度です。 そしてやもめの家を食い物にする。貧しいやもめの家に行き、祈りを献げることで何らかのお礼や、食事などの接待を受けるのでしょう。そして見せかけの長い祈りをします。この見せかけという言葉は「言い訳」とも訳されます。この長い祈りを、やもめの家を食い物にすることと一組で見るならば、やもめの家で祈って何らかの見返りを受け、その言い訳として長い祈りをしておく、とでもいうことでしょう。要するに、彼らは律法学者として民衆からの尊敬を受けることで自分が満足し、真の意味で神の前にへりくだって生きている、ということには程遠いのです。威厳を示す服装、挨拶されること、上席、上座を好むのは、結局神よりも自分が満足することに関心があるからです。 そもそも、人が自分のことを高く見られたい、優れた者と見られたい、というのは人間が神の前に堕落した結果、へりくだらなくなっていることのしるしです。創世記3章にある堕落の記事では、蛇に誘惑された最初の人間アダムとエバは、神のように賢くなること...