「私の主とはだれか」2018.9.2
 マルコによる福音書 12章35~37節

 私たちのこの世での人生、あるいは生活の中で、この方は自分の主である、と言える存在があるかどうか。これはその人のこの世での歩みにとって実に大きな影響を与えるものです。影響どころか、その人の生きてゆく道そのものが大きく違ってきます。

1.ダビデの預言
 ここまでは、イエスのもとにいろいろな人がやってきて質問するという場面が次々に描き出されていました。祭司長、長老、律法学者たち、ファリサイ派やヘロデ派の人々、サドカイ派の人々、一人の律法学者、という具合です。ここでは、主イエスが自ら神殿の境内での教えの中で人々に問いかけておられます。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と。
ここで主イエスが引用されたのは、詩編110編です。最初の「主」は神のこと。次の「主」はダビデにとってのメシア、キリストのことです。ところでここで一つ注目しておくべきことは、主イエスはこの詩の作者とされているダビデが、聖霊によって語っている、と言っておられる点です。イスラエルの王ダビデが書いた詩が旧約聖書に含まれるものとしてずっとイスラエルで読み継がれてきたわけですが、それは明確に聖霊によってダビデが語っている、と主イエスは言われるわけで、旧約聖書の預言の言葉について主イエスは、神の権威によって語られているものである、と証ししておられるのです。神の聖霊は、旧約聖書の時代にもこうして働いておられること、ここでは特に聖書が生み出されることに関して、聖霊のお働きが確かになされていたことが明らかになっています。
この預言そのものは、神がメシア=キリストとしてお立てになる方は、ダビデの主であると言っています。そしてその方は神の右の座に着く方です。神の右の座に就くとは、神の権威を身に帯びる者として、神と同等の権威を持つ者として神と共に存在し、すべてを治めるということを意味します。

2.ダビデの主であるメシア
 このように、ダビデ自身がメシアを自分の主と呼んでいるのだから、メシアはダビデの子ではないということになります。しかし、主イエスも、ユダヤ人たちも、メシアはダビデの子孫として世に来られることを認めています。メシアはダビデの子孫ではない、ということをイエスは言いたいわけではありません。ですから、主イエスがこの問いを差し出しているのは、メシアはダビデの子孫、つまりダビデの子ではない、ということを言おうとしているのではなくて、ダビデの子である、ということの意味を律法学者たちが正しく理解していないからです。
 ユダヤの人々のメシアに対する期待は、ダビデのように、強力な軍事力をもって外敵を倒してくれる王であることでした。あくまでも政治的な王としてイスラエルを治め、支配し、ローマ帝国の支配を終わりにしてくれるメシアです。しかし、主イエスはこの世において政治的権力を揮って神の民を治めるのではなく、神の霊の力によって人々の魂に救いを与え、民をすべての罪と悪と災いから救い出されるメシアです。そして永遠の命を与えることによって民を治めるメシアです。
 36節で、「あなたの敵」と言われているものは、すべて神に逆らう者のことですが、究極的には人に罪を犯させ、堕落させようとする悪魔であり、罪と悪そのものであります。ダビデの主であるメシア=キリストは、悪魔に勝利し、その誘惑によって罪に陥ったご自身の民を罪から救い出して、罪と死を滅ぼしてくださいます。真のメシアは、御自分が十字架にかかって死なれ、そして復活されることによってその救いの御業を成し遂げてくださいました。この方こそ、神がこの世にお遣わしになったメシアです。ダビデが主と呼んでいたメシアは、このようなお方です。メシアがダビデの子であるというのは、間違っているわけではないけれども、ダビデの子でありながらしかもダビデの主である、ということの正しい意味を知らねばならないのです。
 主イエスはご自身がそのメシアであられることを自覚しておられました。しかし、回りの人々も、イエスの弟子たちでさえも、イエスがメシアであることを、まだ正しくは理解できていませんでした。

3.私の主はだれか
 今日の朗読箇所では、人々のメシア理解はまだ不十分だったけれども、大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けていた、とあります。イエスのお話を喜んで聞いていた人々は、メシア理解が不十分とはいうものの、イエスの内に、律法学者やファリサイ派の人たちとは違う何かを感じ取っていたことでしょう。そしてやがてこの群衆も、イエスが何をなさる方なのかを目の当たりにすることになります。
 では、翻って、今日の私たちのことを考えましょう。今日の説教の題は「私の主とはだれか」です。この問いは、クリスチャンにとっては迷わず、それは主イエス・キリストである、という答えが用意されています。しかし、今日は、「私の主とはだれか」としたように、誰かにとってではない、改めて私の主はだれであるか、という問いを自分に投げかけてみることをしたいと思います。
 出エジプト記に、モーセがエジプトの王ファラオの前に出ていき、イスラエルの民をエジプトから去らせるように交渉する話があります(5章以下)。ファラオは、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことを私が聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えます(5章2節)。この言い方は、主に従おうとしない所では、いつでも言われることと言えましょう。また詩編には、次のような、信仰のない人の言葉を記しています。「彼らは言います。『舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない』」(詩編12編5節)。
 この主という言葉は、私たちが普通に使う主人、持ち主、財産や奴隷の所有者という意味があり、先生、旦那、君主、主君、国王、ローマ皇帝に対して用いられます。特に紀元1世紀のクリスチャンたちにとっては、ローマ皇帝を主と呼ぶ社会の中で、あなたの主はだれかと問われた時に、誰と答えるか、という問題です。今日の私たちにとっては、主イエス・キリストかこの世の権力者か、という二者択一の問いを与えられることはないかもしれません。しかし、今のこの世の中にあって、私たちの主はだれか、という問いはとても大事なこととして私たちに迫ってくるものです。私はだれを主と仰いで生きているのか、という問題です。
 自分の「主」、あるじ、主人、あるいは所有者はだれか、という問いを掘り下げてゆくと、私は一体誰のために生きているのか、何のために生きているのか、という所に行き着きます。そもそも、自分の人生に主と呼べる存在を必要としているのか、ということにすら目を留めない考え方が横行しているのがこの世界です。それでも、私たちはこうして主と呼ぶべきお方を知らされております。そして、この方に主となっていただくことができる。私の主と呼ぶのは、私のためにご自身を献げてくださった方です。ただ高い位に座って支配しているのではない。ご自身を低くして十字架にかかり、御自分の民を罪から救うために罪の奴隷になっている私たちを贖い出してくださいました。そして、死に打ち勝って復活することにより、それまで罪に仕えていた者たちを罪の奴隷状態から救い出して自由を与え、真の自由の内に主に仕えて生きるように召し出してくださったのです。それは本当に幸いなことであります。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節