「神のものは神に返しなさい」 2018.7.29
マルコによる福音書 12章13~17節

この世での私たちの生活は、国家に税金を払わなければならないという仕組みが出来ています。必要であるということはわかっていますが、時には重荷に感じて、必要以上に取られている、という印象を私たちは受けてしまいます。今日の朗読箇所では、主イエスのもとにやってきた人々がイエスに対して、この世の国家権力に対して税金を納めるべきか否かという問題を吹っかけてきます。今日の朗読箇所を通して、私たちは単に税金を納めるべきか否か、という問題ではなく、もっと根本的な、信仰者として心得るべきことを主イエスから示されております。

1.イエスに対する悪だくみ
さて、主イエスは、ぶどう園の農夫のたとえによって、ユダヤ人の指導者たちがイエスを殺そうとしていることを示されました。自分たちの考えを言い当てられたことを知った指導者たちはイエスを捕えようとしますが、群衆を恐れて手を出すことが出来ず、その場を離れたのでした。そして今度は、イエスとの問答を通して、その言葉じりを捕えてイエスを不利な状況に追い込もうという企みを持ってやってきたのでした。
イエスのもとにやってきたのは、ファリサイ派やヘロデ派の人たちでした。ヘロデ派の人たちは、ローマ帝国に従う立場を取り、ファリサイ派の人たちはローマ帝国に従いたくはなかったのですが、納税については協力的であったとされています。また、当時イエスの弟子たちの中にも属していた者がいた熱心党と呼ばれる人たちもいて、彼らは納税を拒否し、一時的な反乱さえ起こしたことがありました。ローマ帝国の属国となっていたユダヤの国では、納税に対する考え方が右から左までいろいろあったわけです。そういう中でイエスを陥れようとする企みをもって、彼らはやってきました。
まず、彼らはイエスに対して、その言動を持ち上げてほめそやすようなことを言いました。人を陥れようとする人が用いる手段だと言えましょう。真実な方、だれをもはばからない方、人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えている方。これ以上ないほどのほめようです。人々を分け隔てせず、という言葉は、「人々の顔を見ない」という言い回しです。人の顔色を窺わないで、ただ真直ぐに言うべきことを言う、ということです。イエスはその通りのお方ですが、彼らはまずイエスを持ち上げて取り入って、油断させ、それによって言葉じりを捕えられると思ったのでしょう。
そして彼らは本題の質問を投げかけます。皇帝に税金を納めるのは律法に適っているかどうか、と。ここで言う税金とは、紀元後六年、主イエスがお生まれになって数年の後のことですが、ユダヤがローマの属州に編入され、ローマ総督の行政下に入りました。そして人頭税が課せられてきました。人頭税ですから、収入の多い少ないに拘らず、一人いくら、と決められて課税されてきたのでした。
この税金をローマ帝国に納めるのは律法に適っているかどうか、という言い回しは、許されているか、差し支えないか、当然のことか、よろしいことか、という意味の表現です。つまり、ユダヤ人として正しいことかどうか、ということです。そして彼らは、納めるべきか、納めてはならないのか、という単純な二者択一の問いを投げかけ、どちらか一方にくみする答えをイエスから引き出し、一つの立場に立たせようとするものです。
この問いに対して、もしイエスが納めるべきではない、と言えばそれは即ちローマ皇帝に対する反逆者として訴える口実となります。反対に、納めるべきだ、と言えば神の民として異教徒に服従することを認めることになり、ユダヤ人の民衆感情の反発を買うことになり、イエスを支持する者はいなくなるであろう、と彼らは読んだわけです。自分たちの中でも意見が分かれている事であるにも拘らず、イエスに一つの見解を述べさせて、ある立場を鮮明にさせ、それによってイエスを陥れようという魂胆です。
しかし、イエスはその下心を見抜いておられました。ご自分を試そうとしていることを見抜いておられたのです。

2.皇帝のものは皇帝に
 主イエスは、デナリオン銀貨をもって来させました。これは当時の労働者の一日分の賃金に当る銀貨です。これにはローマ皇帝の肖像と名が刻み込まれていました。イエスは彼らにそれが皇帝の肖像と銘であることを確認させてから、言われました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。ローマ帝国内で流通している貨幣は、ローマ皇帝の肖像と銘が刻まれている以上、それは皇帝のものです。つまり皇帝の権威の下で貨幣としての価値を持ち、使われているものですから、それを用いている、ということは、その権威に服して税金も納めなければなりません。人々は「ローマの平和」と呼ばれる恩恵に浴しておりました。
 そのような恩恵に浴している者は、税金を払う義務があるということです。イエスが、ローマ帝国に対して税金を納めるべきである、という意味のことを言われたのは明らかです。ローマ皇帝は崇拝の対象となっていましたから、当時のユダヤ人にとっては、ローマ皇帝を礼拝することはできません。しかし、市民としての納税の義務があります。そういうところから、ユダヤの人々にとっては、皇帝の肖像と銘が刻まれた貨幣を見るたびに、偶像礼拝に加担しているのではないか、という思いを抱かせていたことでしょう。
 もしもイエスがここで、「皇帝のものは皇帝に返すべきである」とだけ言っておられたら、イエスはローマ皇帝への納税を認める立場を取ったことになり、それに反対する人たちからは支持されなくなる、ということになり、この問いを持ちかけて来た人たちの思うつぼでした。しかしイエスは次の言葉を付け加えられます。

3.神のものは神に
それが「神のものは神に返しなさい」という言葉でした。これは、皇帝に返すべきものと、神に返すべきものがある、と単純に二つの別々の義務についてお語りになったということではありません。皇帝への納税と神に返すべきものとは並んで立っているわけではないのです。ローマ皇帝に対しては、この世の国家権力として、その国に住んでいる者として恩恵を受けているわけですから、納税はするべきである。しかし、それら一切を含めて、私たち人間は神によって造られ、命を与えられ、生かされているということを覚えなければなりません。
では、神に返すべきものとはなんでしょうか。それを知るためには、私たちと神との関係を知る必要があります。ローマのデナリオン銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていましたが、私たちには何が刻まれているでしょうか。私たちには、神の像が刻まれています。神にかたどって創造されたのが人間です。他の命あるもので、神にかたどって造られたものはありません。そして神は人間とだけ、特別な関係をもってくださって、人格的な交わりを与えてくださいました。
それでは神に返すべきものとは何でしょうか。神殿税でしょうか。今日の私たちであれば、礼拝ごとに献げている献金でしょうか。それとも神に払うべき敬意でしょうか、礼拝でしょうか。それらも神に返すべきものではあります。しかし神に返すべきもの、それは私たち神の像を刻み込まれて創造された人間そのものです。私たちは神のものだからです。しかし、私たちが神のものであるということは、単に神の像に創造された、ということだけではありません。なぜなら人間は罪を犯して堕落してしまったので、神の形をゆがめてしまったからです。ゆがめてしまった私たちの罪を贖ってくださって、新たにご自身のものとして買い取ってくださったのもまた神御自身です。私たちは、神がその御子イエス・キリストによって私たち人間の罪を贖ってくださったと聖書によって教えられています。そうして初めて私たちは真に神のものとしていただきました。私たちはそういう神のものとして神に返すべき存在であります。ですから、神に返すべきものは礼拝であり、献金であるとも言えますが、それは行き着くところ、私たち自身ということになるのです。使徒パウロが言っている通りです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12章1節)。国家には税金を納め、神には献金を献げる、というような単純な対比ではありません。私たちは神のものとしてこの世では国家に税金を払い、神の国の民としてこの世の市民としての義務を果たすのです。私たちの本国は天にあるのです(フィリピ3章20節)。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節