「天の故郷を目指す旅人」 2018.7.15
ヘブライ人への手紙 11章8~16節

 私たちは、この世を旅している旅人である。これは聖書が示す私たちの世界観、人生観です。旅人ですから、帰るべき所があります。また、この世での生活ではよそ者であり、仮住まいの者です。そして、もう一つ、ではこの世での旅の意味は何か、という問いも出てきます。これらのことを、今日はこのヘブライ人への手紙から学びます。

1.信仰によって
 この手紙の11章は、信仰が主題です。各段落ともに、「信仰とは」、あるいは「信仰によって」という言葉で書き始めています。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません(6節)。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」(1節)。これは信仰そのものについてのとても分かりやすい定義です。望んでいる事柄、そして見えない事実。どちらもまだ目の前に現実のこととして見たり手で触れたりすることが出来ないけれども、既に手にしているかのごとくにそれを受け取っていることです。たとえ目で見ていなくて、手で触れてもいないとしても、そこにある、ということを事実として受け止めている。それが信仰です。
 ここで著者は、旧約聖書に登場するいろいろな人物のことを取り上げて、信仰によって生きるとはどんなことかを明らかにしています。ここに、私たちが旧約聖書を読み、学ぶことの大切さがあります。旧約聖書そのものを読んで内容がわかっていると、ここでの教えがより一層立体的に、深く、把握できます。
 今日の朗読箇所には、いろいろな人たちの「信仰によって」が書かれていますが、みな置かれた環境が違い、それぞれの個性も違います。しかし皆がそれぞれ、見えない神の存在と御心を信じ、見えない将来については神に委ねて歩みを進めました。信仰があると、その人のこの世での歩みにはある特徴が現れます。それは、この世で目の前にあるいろいろなものを見ながら、いろいろなものを作り、築き、所有しながらも、見えない神を同時に見ているのです。アブラハムは、主なる神が約束してくださって住むことになった町で、他国に宿るようにして住みました。つまりこの地上では、私たちに住むべき場所が神によって与えられるのですが、それは最終的に信仰者が住むべき場所ではないということを示しています。アブラハムもそのことを悟っていたのです。これは真の神に対する信仰がなければあり得ません。神への信仰があるので、まだ目に見ていないけれども、神が設計者であり、建設者である都を待望できるのです。

2.信仰の道をさらに歩ませる神
その神を信じて生きる者は、神が与えると約束してくださったものは与えられると信じます。アブラハムの妻サラは、自分と夫アブラハムの年齢を考えれば、到底期待できないこと、子供が二人の間に生まれるということを信じました。イサクです。ここでよく知るべきことは、神は、ただ天から何かが降ってくるような仕方で何かを与えるというのではなくて、その当事者が約束の実現に深く関わって、その信仰がさらに高められてゆくような仕方でなさるということです。
ただし、創世記を見ますと、サラもアブラハムも決して優等生的な信仰者とは言えません。アブラハムは、最初に主から、あなたの子孫は空の星のようになる、と言われた時にはそれを素直に信じ、その信仰が義と認められました。75歳の時です。主はその信仰をよしとしてくださったのです。しかし、なかなか子供は生まれず、サラの召使いのハガルによって子供を得ようとして実際イシュマエルが生まれます。アブラハムはイシュマエルの誕生をもって主の約束が実現したということで納得したかったのですが、主はそうは考えておられず、アブラハムとサラの間に生まれる子供が約束の子供である、と言われたのです。それはなんとアブラハムが99歳の時です。そしてついに二人の間にイサクが生まれたのはアブラハムが百歳の時です。しかもアブラハムは、100歳の自分と90歳のサラに子供が生まれるだろうか、と言って笑ったのです(創世記17章17節)。それが信仰の父とまで言われるアブラハムの姿です。子孫が与えられる、ということは信じたのですが、いざ、具体的に一年後に子供が生まれる、と言われると素直には信じられなかったのです。
 それでも、主は、彼らが信仰をもって歩んだことを認めておられます。人間的手立てを講じることなどをした結果、家庭内に不和も生じました。主の約束を素直に直ちに信じられなかったことすらありました。それでも、「約束をなさった方は真実な方であると、信じていた」(11節)と言われるのです。

3.天の故郷を目指す旅人
 アブラハムとサラの歩みは、二人の子イサクが誕生してからも続きます。彼らの信仰による旅はなお続きました。アブラハムたちは、文字通り長い旅をしてカナン地方に定住しました。しかしたとえ定住したとしても、この世での歩みは旅そのものでした。更に異国に寄留して暮らしました。この世での歩みはよそ者、仮住まいの者である、ということを言い表したというのは、「わたしは、あなたがたの所に一時滞在する寄留者ですが」という創世記24章3節の言葉によるでしょうが、アブラハムのこの世での歩み全体が、地上ではよそ者であり、寄留者であることを表していると言えるのです。
 真の神を信じる信仰者の歩みは、この世での故郷に固執せず、天の故郷を熱望します。この世のどこかの土地が、自分にとっての最高の安住の地とはならないのです。どんなに住みやすい土地だ、いい街だ、便利だ、と思っても、そこに永久に住み続けられるわけではありません。先日、住みよさランキング一位とされる千葉県の印西市のことを紹介している番組がありました。広い通りの両側に大きなショッピングセンターとかホームセンターとか、あらゆるお店が並んでいて、何でも揃い、子供を遊ばせるのにも十分であり、食べ物やにも事欠かず、ドクターヘリを最初に備えた大きな病院もあるとのことです。実に便利で、いざという時にも安心な町と言えるでしょう。それでも、一人の人はそこにずっと住み続けられません。では、もし何百年生きる人がいたとしても、その町は何百年、今と変わらない住みやすさ便利さ快適さを保っていられるでしょうか。今ある建物、多くの店は、他のものに変わることでしょう。とにかく移り変わってゆくのです。東京は江戸時代から考えれば何百年と栄えてきましたがその姿は移り変わってきました。永久に同じではありません。
こうして考えてみますと、私たち人間は、意識していようがいまいが、常に何かを求めて旅をしているようなものです。安住の地を得ても、そこが永久の住処ではなく、この世を去ってあの世へ行かねばならない、と知っています。しかし果たしてあの世が本当にあるのか、あったとして、この世よりも良いという保証はあるのか、という問いも出てきます。天国や極楽があって、自分が本当にそこに入れるという保証があるならいいでしょう。しかし、私たちは、自分の知識と力ではそれを知ることも獲得することもできないのです。また、それを獲得する資格もありません。しかしそのような私たちに、帰るべき故郷を備えていてくださるのが、主なる神であられます。
私たちはそれをいただく資格はありませんが、信仰によって神が遣わされたイエスを信じるならば、神はその者を受け入れてくださって、その者の神となってくださいます。しかも、それを恥とされません。ある国の民が悪いことばかりしていて怠けており、少しも働かず、王の財産を食いつぶしているだけのどうしようもない人たちだとしたら、王はそんな民を誇るどころか恥ずかしく思ってしまいます。しかし、王を喜び、王のもとにいることを望み、王のために労することをいとわない民であれば、たとえ不完全な、弱さを持つ者でも、王は恥としないのです。ましてや神は私たちの罪を自ら贖ってくださるお方です。そういう方が、天の故郷を準備していてくださいます。だから、私たちは先にその都に入って行った先人の信仰者たちを見つめます。そして誰よりもイエスを見つめて進みます。この世では旅は完結しません。定住していても旅しています。だから、この世に何か不自由を感じる。何か足りない。ほぼ満足していたとしても、完全には満足していない、と感じているならそれは良いことです。天の故郷を目指しているからです。「わたしたちはこの地上に永続する都をもっておらず、来るべき都を探し求めているのです」(ヘブライ13章14節)。それは決して空しい絵空事ではなく、真実な神がその御子イエス・キリストにおいて約束された都です。私たちに先立ち進んでくださって、御国への入り口を開いてくださった主イエスが、この世での生活において共にいてくださり、私たちの、天の故郷を目指す旅に同伴していてくださいます。私たちは主の日ごとにそれを確認しては、またそれぞれの場に戻ってゆき、旅を進みゆきます。主の日の礼拝では、旅を共にする信仰の友、同伴者たちを目で見て確認します。そして望んでいる永遠の都は、自分だけが頼りなく信じているのではなく、聖書と教会の歴史の中でも多くの信仰者たちが歩んでいたのだと再確認します。そして目には見えないけれども主イエスが確かにおられることを信仰によって確認することを繰り返しているのです。実にヘブライ11章1節を毎週再確認しているわけです。一週間ごとにその機会を下さっている父なる神と御子イエス・キリストと聖霊なる神に信頼し、天の故郷を目指す旅を今週も歩みましょう。そうすることによって私たちはこの世のものへの執着から解かれるでしょう。土地や財産に(あればの話ですが)しがみつくことから解放されるでしょう。もし執着がまだあるとしたら、それを少しずつ外してゆくのが、天の故郷を目指す旅人の姿なのです。

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