「不思議に見える神の業」 2018.7.8
マルコによる福音書 12章1~12節

救い主イエス・キリストは、権威についての問答において、ご自分が何の権威によって行動しておられるのかをユダヤ人の指導者たちに教えることをされませんでした。しかし、たとえ話をされることにより、ユダヤ人の間において、宗教的権威をゆだねられていると思っている祭司長や律法学者たちが、どういう者であるのかを示されました。

1.ぶどう園と農夫のたとえ
 主イエスは、いろいろなたとえ話をされました。それらのお話の中でも、このたとえ話は、たとえ話中の登場人物が誰に当てはめられているかが大変判り易いものになっています。ある人=ぶどう園の主人は、神様。ぶどう園はイスラエル。農夫たちはユダヤ人の宗教指導者たち。僕たちは、預言者たち。そしてぶどう園の主人の息子はイエス。
 旧約聖書でも、イスラエルのことはぶどう園にたとえられていました(イザヤ書5章1節以下)。イザヤ書のたとえでは、ぶどう園のぶどう自体がどのような実を結んだか、ということが主題でしたが、イエスのたとえ話では、ぶどう園で働く農夫たちに焦点が当てられています。
このたとえ話でもそうですが、私たちはたとえ話を読む時に注意すべきことがあります。この話は先ほど言いましたように、登場人物と現実とが判り易い関係になっています。しかし、たとえ話で言われていることを、あまり細かい点まで当てはめようとしなくてよいということです。たとえば、ぶどう園の主人は僕たちが殺されてしまった後で、自分の息子を農夫たちのもとへ送ります。主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと言いました。しかし現実に神様は、そんな風に思っていたかというと、敬ってくれるだろうなどという楽観的な予測はもっておられなかったのです。神が遣わされた神の御子イエスは、十字架で殺されることになるのを神はご存じでした。また、指導者たちは、イエスのことを神の御子とは思っていなかったわけで、跡取りを殺して、相続財産を自分のたちものにしようとは考えていませんでした。また、ぶどう園の主人は、農夫たちを殺してしまいますが、イエスを十字架に追いやった人々を、神は殺してしまったわけではありません。ですから、たとえ話の道具立ては、示そうとしているものの特徴をある程度示しているものだということです。このたとえ話では、跡取りを殺してしまった農夫たちが、自分たちこそ主人(=神)のものを相続できると思っていましたが、そうではなく、他の者たちが神からのものを受け継ぐことになりました。彼らはなぜ主人によって殺されたのか。それは、主人(=神)の権威に服することなく、自分たちの権威を自分たちのために行使することを第一として、主人(=神)の遣わされた預言者に聞くこともしなかったからであり、さらには主人の心そのものである息子を尊ばなかったからです。
 また、たとえ話の中では、農夫たちは跡取り息子を殺してしまえば相続財産は自分たちのものになる、と考えています。しかしこれは全くの見当違いでした。そんな自分たち本位の考え方が実現するはずはなかったのです。現実の話でも、指導者たちは神のお考えを理解していないということでは同じです。現実には、神がご自分の御子を遣わされたとは思ってもいないのでした。つまり神のなさることを悟ることができなかったのです。

  2.捨てられた石が隅の親石となった
 このたとえ話をお話しになった主イエスは、旧約聖書の詩編の一節を引用されました。10節の引用は、詩編118編22、23節です。家を建てる者の捨てた石とは、建築の責任者が必要なしとして捨ててしまった石のことです。家を建てるに当たって、人の目には権威ある者とみられる者が捨ててしまった石が、実は尊く用いられることを示します。隅の親石とは、石造りの家において、家の隅に置かれる重要な礎石のことです。それを抜きにしては、家は建ちません。人の目には役に立たないとみなされたものが、実は神の目から見れば欠くことのできない尊いものとして生かされるのです。
 人が良しと考えることを即ち神もよしとされるわけではありません。むしろ神のなさることは人の目には不思議なことに見える。驚嘆すべきことであり、不可解とさえ見えるのです。神は何をお考えになっているのかわからないのであり、人の思いもしないことを神はなさるということです。しかしその不思議な業の前に立たされて、どのように受け止めるのか。それは、このたとえ話に示されているぶどう園の主人とその愛する息子が現している、神とその愛する独り子イエス・キリストを、私たちがどうお迎えするかにかかっています。

3.私たちの目には不思議に見える
主イエスは、御自分が神のもとから来られた方であることを認めず、信じず、果ては殺そうとまでするユダヤ人の指導者たちにこのたとえをお話しになりました。聞いていた当の彼らは、このたとえ話が自分たちにあてつけて語られたことに気づきました。ということは、主イエスもそうなることは当然想定内のことだったはずです。とすると、主イエスはこの厳しいたとえ話を語ることによって、ユダヤ人指導者たちに、自分たちの内にこれまであると思っていた権威が、本当にあるのかどうかを顧みさせる機会を与えたということにもなります。しかし、彼らは、自分たちはそんなに恐ろしいことをしようとしているのだろうか、と立ち止まるどころか、逆にイエスを捕えようとしたのでした。一度かたくなになった心は、そう簡単には砕かれないということがわかります。
このたとえを聞いていた弟子たちは、このたとえ話をどのように聞いたのでしょうか。自分たちはここに登場する農夫ではない、最後に登場する他の人たちだ、と思ったでしょうか。あるいは弟子たちはまだ悟らなかったでしょうか。しかし後にこの福音書を書いたマルコは書き記します。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14章50節)。たとえ話には出てきませんが、いわば弟子たちは主人の息子の僕のような立場だったと言えるかもしれません。しかし彼らも息子を助けることはできず、主人の息子のために命を張ることすらできませんでした。しかし、ぶどう園は他の人たちに与えられます。そしてその弟子たちも、実はぶどう園を与えていただける「ほかの人」の内に加えられると言ってよいのです。
では、この話を読者として読んでいる私たちはどうでしょうか。私たちは、ここに登場する人々が誰に当てはめられているのか、よくわかります。先ほど言った通りです。私たちは、このイエスのたとえ話劇場を見ている観客でしょうか。農夫たちはしょうもない人たちだ、なんて思いあがった人たちだ、と断罪する側に立つのでしょうか。もし私が農夫だったら、僕たちを尊んで、ちゃんと収穫を納めた、と誇れるでしょうか。旧約聖書からの歴史を見てみると、どうもそうではないということが明らかになってきます。実際、僕たち(=預言者たち)が送られるだけではだめで、ついに主人(=神)の息子である方が送られなければならなかったことを顧みましょう。
ですから、私たちはこのぶどう園劇場を見て、脚本をわかっている観客としてではなくて、主がなさった不思議な業、最初は不可解にすら思える業、しかしその御心がわかったならば驚嘆すべき御業を施していただいた者としてこのお話を受け止めなければなりません。私たちは、主の相続財産をどのように受け取るのでしょうか。私たちは、神の御子であるイエスを十字架につけるために直接手をくだしたわけではありません。農夫たちのように。しかし、このぶどう園の主人の息子が殺されたのは、そのぶどう園を与えていただくという素晴らしい恵みに与らせていただいた者のためでした。
私たちの目には、何が不思議に見えるでしょうか。神の御計画の奥深さでしょうか。不信仰な者のためにご自身を献げてくださった神の御子の愛に満ちた御業でしょうか。私たちは、ぶどう園劇場を見慣れてしまって、その驚くべき御業を当たり前のように思わないことを心に留めましょう。私たちは、決して観客の立場で演劇の感想を述べるので終わってはなりません。そこに示されたぶどう園の主人である神様と、ぶどう園を救うために主人から遣わされた愛する独り子が、私たちのこの世での歩みの中に来てくださって、ぶどう園のぶどうとして実らせてくださいます。私たちはそのことに信頼して、ゆだねて歩ませていただけるのです。

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