「主を喜ぶことこそ力の源」2018.8.26
 ネヘミヤ記 7章72b~8章18節

 今日は、旧約聖書ネヘミヤ記から、神の御心を学びます。エズラ記とネヘミヤは一組にして語られる書物で、今日の個所にはエズラとネヘミヤが一緒に登場します。エズラは祭司であり書記官ですが、ネヘミヤは総督です。「ネヘミヤ」とは、「主は慰めてくださった」という意味です。ネヘミヤがエルサレムに帰還する経緯については1章から2章にかけて記されており、紀元前445年のことです。エズラの帰国後、13年ほど経ってからのこととされていますが、記述内容によって、ネヘミヤの方が先ではないかと言う見方もありますが、ここではエズラの後、という見方でお話しします。

1.モーセの律法の朗読
 今日の箇所では、先にエルサレムに帰還した人々が既に神殿を再建し、その後、町の城壁も再建されている状況が記されており、ネヘミヤ帰国の翌年です。エルサレム神殿は再建され、町も復興して、人々は新たな歩みを始めますが、そこで何より必要なのは神の御言葉です。ここで祭司エズラが律法の書を朗読して民に教える様子がここに描き出されているのです。
 第7の月、今の9月半ばから10月半ばにあたります。この時、人々は書記官エズラが律法の書を持ってくるように求めました。驚くべきことに、夜明けから正午までそれを読み上げたのでした。人々はそれに耳を傾けた、とあります。理解することのできる年齢に達した者が聞いていた、ということですが、少なくとも5~6時間かかったと思われます。4節から8節は、律法が読み上げられた時の更に詳しい状況が記されているものです。
 モーセの律法というと普通は創世記から申命記までの5冊を指して言うのですが、ある人の研究によると、この5冊を通読するのには日本語で約18時間かかるのだそうです。私も試しに1頁どのくらいかかるか計ってみましたら、音読すると1分40秒程で、創世記から申命記まで338頁、ざっと計算すると確かに18時間を超えます。ということから、この時エズラが朗読したのは、5冊全部ではなく、律法そのものが記されている申命記ではないか、という説があります。先の計算によれば、3時間半くらいです。会衆に向かって大きな声でゆっくり読み、しかも7、8節にあるように、レビ人が律法の書を翻訳して意味を明らかにしながら読んだわけですから、やはりそうかもしれません。律法に書かれている言語はヘブライ語ですが、人々が普段使っているアラム語という言葉に翻訳したのです。ヘブライ語と親戚の言語で、文字は同じです。
 それにしても、人々はその間、立っていたのですから驚きです。しかし、それだけ、律法の書が神からのものであり、尊ぶべきものであり、聞くべきものである、という思いが朗読する側にも、聞く側にもあったということです。

2.律法を聞いて泣いた会衆
 律法を朗読したエズラと、その説明に当たったレビ人たちは、民全員に、嘆いたり泣いたりしてはならない、と言いました。なぜ会衆は泣いていたのでしょうか。それは、やはり律法の言葉を聞いて、自分たちがいかに罪深い者であるかを思い知らされたからです。9章に、民が自分たちと先祖の罪を告白したことが書かれていますから、彼らは律法の御言葉を聞いてその心を刺され、激しい悔い改めの思いを抱くようになったと言えます。新約聖書の時代にも、聖霊が降られたペンテコステの時、使徒ペトロの説教を聞いた人々は大いに心を打たれ、自分たちはどうしたらよいかと尋ねました(使徒言行録2章37節)。神の御言葉は、恵み深く、神の慈しみを人に告げ知らせるものですが、同時に神の前での畏れを抱かせ、罪の自覚を生じさせるものです。神が生きておられ、その御言葉も、朗読されることによって人の心の中に入り、心の深い所に突き刺さり、その人の存在をひっくり返してしまうほどの力があるのです(ヘブライ書4章12節)。
 この聖書という書物は本当に神の愛と知恵と慈しみと威厳とが深く、高く、豊かに示されている世にまたとない書物です。今の時代、私たちは自分の聖書を手にして、持ち運び、読みたい時に読むことができます。では読みたい時とはどんなときか。落ち着かない時か、不安な時か、慰めがほしい時か、希望がほしい時か、それとも暇な時でしょうか。しかし、聖書は自分の気分によって読んだり読まなかったりするものではありません。私たちは聖書によって神の御言葉に触れたなら、そこで今も語っておられる神の前にあることを忘れてはなりません。そして特に、私たちは主の日の礼拝において朗読される聖書に聞くことにより、神の前に出ることを許されていると知るのです。神の御言葉を聞けるのは、本当に幸いなことです。
 ここに登場する人々は、自分の聖書など持っているはずもありません。エズラが読み上げた巻物があるだけです。しかし、たった一巻の巻物がそこにあるとないとでは全く違います。私たちも今の自分の置かれている環境を顧みてみましょう。聖書が自分の持ち物として手元にあることがいかに感謝すべきことであるかを。この御言葉に聞かずして何に聞くべきでしょうか。聖書には神の御心が込められています。エルサレムに集まった人々は、ここでは律法の掟だけを聞いていたでしょう。今この時の彼らには、自分たちの行くべき道を示し導くのは神の言葉である、という強い思いが生じていたのでしょう。
 私たちは、こうして聖書を一人一人が手にして読むことが出来ますが、それがごく普通の当たり前のことになって、聖書がそこにあるのは当たり前、読める時に読める、いつでも読める。聖書が身近にあることに慣れてしまっていないかどうか、一度顧みてみることは有益かもしれません。例えば、日帰りのつもりで出かけたので聖書は持っていないが出先で予想外の事があり足止めを食らって数日は帰れない。さて、聖書などあってもなくてもよいでしょうか。あるいは社会が激変して時代に逆行し、聖書を持つことが許されなくなり、持っている聖書は全て出せ、キリスト教は禁止だ、という恐怖政治が始まったらどうでしょうか。そんなことは今日あり得ないかもしれませんが、この世の中、社会も、自然現象も、これまで経験していないような方向へ向かうのではないだろうかという不安を抱かせる感じがうごめいているようにも思えます。私たちは、今、というこの時に、水の門の前の広場に集まった人々のように、神の御言葉に耳を傾けるべきです。

3.主を喜ぶことが力の源
 エズラとレビ人たちは、人々に対して、悲しむな、主を喜び祝いなさい、と命じます。そして、喜び祝う仕方まで教えます。喜ぶ時には、良い肉を食べ、甘い飲み物を飲むことが勧められているのです。これはお肉好き、甘いもの好きの人にはありがたい御言葉かも知れません。古今東西、喜び祝う時にはおいしいものを食べ、甘いものもいただきます。クリスチャンは、粗食で満足し、贅沢は避けるべきだから、祝い事でおいしいものを食べることは控えるべきである。というのは全く聖書的ではありません。確かに、食料不足の時代や、災害で何もなくなった時に、自分たちだけ蓄えていたものがあったので、周りは一切気にせず、喜び祝え、とは言われていません。忘れてならないのは、その備えのない者には分けてやりなさい、という教えです。備えのない人とは分かち合うべきですが、祝うこと自体は罪ではありません。
 ましてやここでエルサレムに集まった人たちは、主が民を集め、町を再建してくださり、御言葉をくださったのだから、そのことを喜び、何よりも主御自身のことを喜びなさい、と命じられているのです。彼らは喜び祝いましたが、何故喜んだかというと、教えられたことを理解したからです。神の御言葉を理解する時に、そこには喜びが生まれます。自分の人生に喜びが足りない、と感じるなら、神の御言葉を理解することに思いを向けてみたら良いのです。手近な所に聖書があり、ましてや教会の礼拝に集えるなら、喜び祝うための最適な環境が揃っているわけです。いや、でも、教会の礼拝に来たけれど、感情が喜びで満ち足りたようにはなっていない、と感じるでしょうか。力が溢れて来るようにも見えない、と感じるでしょうか。そうかも知れません。しかしそこで立ち止まってみましょう。神の御言葉を理解できる、聞ける、ということは少なくとも神様を信じ、イエス様を信じている。教会の中で、キリスト者の数に入れていただいている。世の中には、神を知らず、キリストの救いを知らず、さまよっているように見える人々もたくさんいる。その中で、世の光であるイエス・キリストを表していただいている。そして、同じように神の御言葉を理解している人々、兄弟姉妹がいる。神の愛を受けている。そこに立ち戻ることができます。神がそうまでしてくださって救い主を示し、生きる道を備えてくださったのに、また闇の中へ舞い戻ることなどできません。キリスト者、教会と言えど、欠けはあり、過ちを犯しますが、それでも罪の贖い主がおられます。そして、私たちが喜ぶべきは、神様がこんな私を救ってくださった、これほどに恵みをくださった、こんなに助けてくださった、ということでしょうか。それはもちろん喜んで感謝すべきですが、それらはすべて二番目以降に置かれるべきものです。一番に来るべきは、神様その方を喜ぶ、ということです。私たちにはこの世で有形無形の大事なものがいろいろあります。そういうものに絡みつかれています。しかし感謝して受けるなら、捨てるべきものがないこともまた事実です(Ⅰテモテ4章4節)。その上で、私たちは神を喜びます。しかも永遠に。この世にある目に見えるもの、物質的なものは、栄光の神の国の輝きの前では、色褪せるでしょう。この世でいくら美しいもの、美しい人でも、神の国で永遠の命に輝く人の美しさの前ではその美しさは大したことはないでしょう。いずれにしても、私たちは、そのような栄光の神の国を目の当たりにする時までは、なおこの地上にあって、様々なものに取り囲まれていますが、神を喜び祝うことにこそ、私たちの最高の喜びがあり、この世で生きていくための力の源であることを覚えましょう。

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