「希望はイエスの十字架にある」2018.5.27
 ローマの信徒への手紙 5章1~11節

 私たちがこの世で生きてゆくにあたって必要なものはいろいろあります。特に私たちの生きる気力に関わって来るもので大事なものは何でしょうか。衣食住が揃っていても、たった一人で一生誰とも話をせず、接触することもなく生きてゆくとしたらどうでしょうか。あるいは、生きていても、この先何も良いことがないとわかっているとしたらどうでしょうか。このように、私たちには、人との関わりや交わり、そして将来への期待が必要なのだと言えます。それらは、今日朗読した聖書の箇所では、希望、愛、という言葉に示されていました。今日は特に、私たちの人生にとって是非とも必要な「希望」について、聖書が何と言っているかを共に聞きたいと思います。

1.希望の持つ力
 私は「希望」ということを考える時いつも思い出すことがあります。「アンネの日記」という有名な本があります。ユダヤ人の少女アンネが、家族ともども強制収容所に入れられ、良心とも引き離されてしまい、姉のマルゴットと二人で収容所生活に耐えていました。しかし二人ともチフスに罹ってしまい、ある日、姉のマルゴットは衰弱し切っていたので起き上がろうとして床へ落ちてしまい、それが原因で死んでしまいました。そのことがきっかけでアンネの気力は大きく挫けてしまい、翌月には静かに気を引き取ってしまいました。彼女は、両親ももう死んでいるに違いないと思い、姉も死んでしまったので、もう家に帰る目的がなくなったと思ったのでした。しかし実際には、父親は生きていました。もしそのことを知っていたら、彼女にはまだ生きる気力が残っていたでしょうが、もう家族みなが死んでしまったと思ったアンネにはもう希望がなく、生きている気力が失せてしまったのでした。
 希望、というものがあるかないかで人が生きる気力を保てるかどうかさえ決まってしまうということを示す一つの実例です。希望には小さいものから大きいものまであります。たとえば、懸賞で賞品が当たることを期待して、希望の品を書いてはがきを出すという時、もしかしたらほしい物が当たるかもしれない、という希望を抱いて応募します。あるいは、頑張って練習すれば、何かの大会で良い成績を残せるかもしれない。そうすれば今の自分がもっと成長できると思います。しかしいくら頑張っても何も得られない、となればそこには希望はありません。
 こうしてみると、人が生きていく上で必要なものはいろいろありますが、「希望」というものは、私たちが前向きに生きて行こうとする時の大きな原動力になっている、と言えそうです。どんなに小さなものであっても、今の自分に何かをもたらしてくれるものが後になればやってくる、あるいは実現する、そういうものがあれば、私たちはまだ先へ進もうとするのでしょう。しかし、このまま進んでも、時間が経っても何も変わらない、何も良くならない、ということであれば私たちは希望を失い、ただ漫然と無気力に日を過ごすか、追い詰められればそれこそ自らすべてを断ってしまう、ということも起こりうるわけです。そういうわけで、私たちの日々の生活、あるいは人生全体と言ってもよいのですが、希望、とか何かに期待する、ということは非常に大事なものであって、私たちが日々を送ってゆくために必要な力となっているといえます。果たして、私たちには「希望」と呼べるものがあるだろうか。このことをよく顧みる機会にしたいと願っています。

2.神との関係に目を留める
 さて、では先ほど朗読した聖書箇所をみてみましょう。この手紙を書いたのは、イエス・キリストの使徒とされたパウロです。使徒とは、キリストに特別に選ばれて、イエス・キリストの福音宣教の使命を与えられてこの世に遣わされた人です。その使徒パウロがローマにいる信徒たちへ向けて書いた手紙です。彼は、読者たちに神との関係について語っています。神との関係がどんなものであるかが、私たち人間にとって実に大きな問題であるからです。どうしてかと言いますと、私たちがこの世に生きていることも、生きてそして死んでゆくことも、すべては神との関係に行き着くからです。神は私たちの命も、死も、一切のことをご存じであるからです。
 私たちがもしもこの世で何も希望を見出せないでいるとしたら、それは神を見出すことが出来ないからです。そう言いますと、いや、この世で生きていれば、神を知らなくても希望を持って生きていくことができないわけではない、という声が聞こえてきそうです。この日本では多くの人は、この聖書が教えている神について何も知らずに生きている人がほとんどだと言えましょう。そしてそのような多くの方々の中にも、希望を持って生きている、という人は結構いるのかもしれません。しかし、その希望とは、この世で自分が生きている間のこと、またこの世の中の目に見えることに限られています。何年かすれば仕事の状況はよくなるのではないか。もう少し頑張れば健康を取り戻せるのではないか。もう少しで定年退職だからあと少し頑張ろうとか。あるいは、来週給料が入ったら少しおいしいものを食べようとか。それも生活に張りを与える大事な要素かもしれません。そういう希望や期待は私たちの日々の生活に必要なものなのでしょう。
 しかしここで問われているのは、そのような日々の生活の中で私たちにやる気を起こさせたり、ささやかな楽しみや喜びをもたらすという程度のものではありません。神と私たちとの関係がどうであるか、という点が重要なのです。そこから出て来る希望についてです。

3.命の受け入れ先がある希望
今日お話ししたい希望とは、私たちの命の受け入れ先についてです。命の受け入れ先とは、つまり私たちが生きている時も、死ぬときも、死んでからも、どこに落ち着くかということです。既に神との関係と言いましたように、神こそ私たちの受け入れ先となってくださるということです。神はそのことを私たちに教え示すために、神の御子であるイエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。神は私たちに呼びかけておられます。神に背を向けて生き続けるのではなく、神に向き直って、その言葉を聞き、神の遣わされたイエス・キリストに聞き従いなさい、と。神に背を向けて生きることを罪と申します。自分では善いと思っていても、神に背を向けて生きていることは、罪なのです。その罪を赦すために神は救い主としてイエスをこの世に遣わしてくださいました。そしてイエスが十字架で死ぬことによって、私たちの罪の償いを成し遂げてくださったのです。ただそのことを信じれば、神は私たちの罪を赦して、私たちの命の受け入れ先となってくださると約束してくださいました。それが、先ほど朗読したローマの信徒への手紙の五章に書かれていたことです。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)。
神が私たちの受け入れ先となってくだされば、もはや苦難があったとしても、それはついには希望に呑み込まれます。最終的な希望があるので、苦難さえも忍耐と練達を通して希望に至るのです。そしてその希望は私たちを欺きません。気休めの希望ではなく、実現するかどうか不確かなものでもありません。神が約束してくださっているのですから。そして、この希望には根拠があります。キリストが私たちの罪の償いのために十字架にかかって死んでくださったということは、神が私たちを愛してくださっていることの確かなしるしだからです。
イエス・キリストの十字架は、この世界の、私たち人間の歴史の中心に立っています。このイエスの十字架により頼むならば、私たちには確かな希望があります。生きている時も、死ぬ時も、死んでからも、私たちの命は神の内に保たれており、受け入れ先がある。それが約束されているので私たちはこの世で希望を持ち続けられるのです。
私たちが神の規準に適う優れた人間だからではなく、罪人であった時にキリストは私たちのために死んでくださいました。それは神が私たちを愛していてくださるからです。その神の愛に根拠があるので、私たちは自分の救いについて、罪の赦しについて、命の受け入れ先について、キリストを信じて神に委ねることができるのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節