「聖なる公同の教会を信ず」2018.4.29
  エフェソ 1章15~23節

 先週の主日礼拝において、私たちは、日本キリスト改革派教会の大会創立記念献金を礼拝席上献金として献げました。それは、私たちの改革派教会の大会が1946年4月28日から29日にかけて行われたことを記念しているからです。毎年、4月の第4週にこの記念献金を献げています。今日は、それを心に留めつつ、「教会」について、神の御言葉に聞きたいと思っています。そしてそこから、今日も礼拝で唱えましたように、「使徒信条」の中で言われている「教会」についての告白に目を留め、そこで言われていることの意味を学びたいと願っています。

1.教会を信ず
 私たちが毎週礼拝で唱えている「使徒信条」は、イエス・キリストの使徒たちが原作者であると伝えられてはいましたが、最も古い原型は、紀元二世紀ではないかとされています。その後数世紀にわたって受け継がれ、八世紀  頃に今日の本文ができました。世界中のキリスト教会が受け入れている世界教会信条の一つです。
 使徒信条は、原文では冒頭、「われ信ず」という言葉から始まります。そしてまず父なる神、主イエス・キリスト、そして聖霊を信ず、という告白が続きます。まず三位一体の神様への信仰が告白されるわけです。そしてその続きとして、「聖なる公同の教会、聖徒のまじわり、罪の赦し、身体のよみがえり、とこしえの命を信ず、アーメン」と締めくくられます。これらの中で、聖なる公同の教会と聖徒の交わり、この二つについても、信ず、と言われていることに注目しましょう。私たちが何かを信じるという時、例えば神を信じる、といえばその存在をまず信じます。そして神に信頼する、より頼む、という面もあります。神を信じる、キリストを信じる、というのはごく判り易いことですが、教会を信じるとはどういうことでしょうか。
 それは、教会が神の救いのご計画と恵みと力によって神の御子イエス・キリストによってこの世にもたらされた、という真理をまず信じます。先ほど朗読したエフェソの信徒への手紙1章22、23節に言われていましたように、教会とは、神がすべてのものをキリストの足の下に従わせ、それらのものの上にある頭として教会に与えられたという点に示されています。ですから、教会はその起源が人間にではなく、神にある、ということです。
 ハイデルベルク信仰問答は、問54で、「『聖なる公同の教会』について、あなたは何を信じていますか」と問うています。答「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊(聖霊)と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。」
 教会は、単にイエス・キリストを信じる人々が集まって礼拝をしているのではなくて、神の御子であるキリストが、はっきりとした意図をもってご自分の民を、集めておられるのです。そしてそれは全世界的なものであり、世界の中の一地域に限られたものではないということです。
 確かに、「教会を信ず」という言い方は聖書でなされているわけではありません。また、三位一体の神を信じる、というように信じるのとは違います。それでも、教会が神のものであり、人のものではないこと。そして人の好みや共通の信念によって結びついているのではないこと。神から出たものであり、神が永遠にわたってその存在を確かなものとしておられるのです。私たちはそのことを信じています。

2.聖なる公同の教会
そういう教会は、神によって立てられている聖なるものです。聖なる、という時、神が聖であられるという場合は、それは罪のないこと、そればかりか全く清いということを示しています。しかし私たち罪人が集められている教会も聖なるものと言われます。それは、神によってご自身のものとして取り分けられたことを示しています。今日の聖書箇所では「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)と言われている通りです。この世では、教会はなお清さにおいては不完全です。個々人にはまだ罪の汚れが残っています。しかしそういう者を神のものとしてくださり、栄光の神の御国に向かうものとしてこの世から聖別してくださいました。まだ罪があるとはいえ、やがて完全に罪を取り除き、全き聖なる者としてくださることを保証しておられるのです。
そして、教会がこの世に姿を現しているのは、神の永遠のご計画に沿うものであり、神はこの世に対して、教会を通してご自身の御業を告げ知らせ、キリストによる救いを人々にもたらしておられるのです。教会は、神が公認しておられる、この世に対する福音宣教のための唯一の共同体です。ですから、普遍的であるということを公同の教会と言います。判り易く言うと、世界中どこへ行っても、どの時代においても、教会は一つのものであり、全世界において、あらゆる時代を通じて存在している普遍的なものということです。それは教派が異なっているとしても、過去、現在、未来を通じ、天上と地上とを貫いて存在するものです。公同性とはカトリック、という言葉で表されます。しかしそれは教派としてのカトリック教会のことではなくて、どんな教団教派があるとしても、それらを貫いている唯一の聖なる教会なのです。

3.教会はキリストの体
 この教会は、キリストの体と言われます。そして頭はキリストです。1章10節に、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」と言われています。
このキリストが教会のかしらである、と言われています。ですから、キリストが教会のかしらであられるということは、単に世界の中でキリスト教会と言われる一団の人々の間でだけ頭なのではないのです。この世界に存在する全ての支配、権威、勢力、主権の上に置かれたのがキリストです(21節)。  そのような方をかしらとして仰いでいるのが教会です。この手紙を書いた使徒パウロは、4章で次のように書いています。「愛に根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(15、16節)。
 体が頭に結びついているのですから、身体が成長するために必要なものを、頭から供給していただいて、そうして頭に向かって成長してゆけるのです。そして、頭であられるキリストは、私たちを従わせられますが、体を間違った方へ導くことがありません。もちろん私たち人間自体は神様ではありませんし、罪があるものです。ですから過ちをこの世で犯すこともあり得ます。教会としても個人としても。それでも、私たちが過ちを犯したままで、滅びに墜落してゆかないように守ってくださるのです。順風満帆にあらゆる事が運び、全てがうまくいっているように見えても、それが奈落の底へ落ちてゆく一本道だとしたら、恐ろしいことです。逆に、険しく細いけれども、行く先は素晴らしい栄光に輝く神の国であれば、そちらを歩きたいと思います。そして教会のかしらなるキリストは、私たちを確実に神の国へと導き入れることが出来るお方です。
 私たちは、そのようなキリストの教会に招き入れられました。そして、この地上では、目に見える教会として、日本キリスト改革派教会という教会へと導かれました。日本キリスト改革派教会といえども、まだこの世では完 全なものとはなっておりません。しかし、目には見えないけれども教会は、全世界・全時代を通じて一つであり、その教会の性質が、信仰と生活と、教会の政治において見える形で現わされてゆくことを目指しているのが、私たちの教会です。自分がこの世で召し出された教会において、私たちは信仰生活、教会生活を送ってゆきます。この日本キリスト改革派教会をとおして、私たちは「聖なる公同の教会を信ず」という信仰の道を進みます。過去、現在、未来を通じて存在しているキリストの体なる教会が、今この時代に、私たち一人一人を通して目に見える形で現わされてゆく。これは実に光栄なことです。「自分の体で神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6章20節)と言われています。個人個人にも、教会という体にも神の力が聖霊によって働いています。私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力です(19節)。私たちもそのことを真剣に熱心に祈り求めましょう。

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