「神の家は祈りの家と呼ばれる」 2018.6.3
マルコによる福音書 11章12~19節

 今私たちはこうしてこの尾張旭教会の礼拝に集まっています。この教会で行われることは何か、と言った時、何を最も重要なこととして挙げたらよいでしょうか。神の御言葉が語られ、聞かれること。神への讃美が献げられること。神への祈りが献げられること。これらがまず挙げられるべきことで、言い換えれば神への礼拝が献げられることです。
それは、救い主イエス・キリストの仲介によって私たちの礼拝が神に受け入れていただけるからであり、キリストの御名によって祈る時、それを聞きあげていただけるからです。礼拝は私たち人間が神に献げるものですが、同時にそこで神が私たちにご自分を現してくださる時でもあります。その礼拝が行われる教会のことを、祈りの家とも呼びます。今日の朗読箇所で主イエスが、神殿においてなさったことを通して、そのことを明らかにされました。ここで主イエスがなさったこと、そして語られたことを通して、私たちの祈りの家とはどういうものなのか、どうあるべきなのか、教えられています。

1.神殿で行われていたこと
 今日のお話は、いちじくの木を主イエスが呪われた話の間に、神殿から商人を追い出された話が挟まっています。それで、この二つの話は関係づけてお話ししようと思いますが、今日は神殿でイエスが商人たちを追い出されたお話に焦点を当て、次回お話しする時にいちじくの木を呪われた話と関係づけてお話しようと思います。
 イエスの一行がエルサレムに来ると、イエスは神殿の境内に入りました。この境内とは、神殿の庭にある異邦人の広場のことです。異邦人がここで祈るためにありましたが、次第に市場のようになって神殿で献げられる犠牲の動物を売り買いするようになり、両替屋もいました。神殿で犠牲を献げるときには、傷のない動物を献げなければなりませんので、その動物に傷がないかどうかを調べる必要があります。それで旅をして神殿にやってきた人たちは、いわば犠牲の動物を現地調達するわけで、神殿で売っているものは検査済みのものというわけです。そして、神殿で献げる献金は、シェケルと呼ばれる銀貨で献げるように命じられていましたので(出エジプト30章15節)、外国から来た人たちにとっては、両替する必要がありました。それで両替人が普通に商売をしていたわけで、彼らは手数料を取って儲けていたということです。そういう中にイエスは入って行かれて、売り買いをしていた人々を追い出し、両替人の台などをひっくり返されました。更に、境内の中を通ってものを運ぶこともお許しになりませんでした。  主イエスは、旧約聖書の預言書から引用して、教えられます。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」これはイザヤ書56章7節です。ところが、人々はそれを強盗の巣にしてしまった、とイエスは言われました。これは、エレミヤ書7章11節によるものです。紀元前7世紀の預言者エレミヤの時代、人々は正義を行わず、弱い者を助けず、無実の人の血を流し、偽りの誓いをし、異教の神々を拝む、という実にひどい状態でした。それでも人々は自分たちには神の神殿がある、といって主の神殿、主の神殿、と口先ばかりで唱えていたのでした。そんな風に主の神殿と呼んではいるが、実は民にとっては強盗の巣窟と見えるのではないか、と主は言われたのでした。祭司長たちや律法学者たちは、当然エレミヤ書の内容を知っていますから、同じことを自分たちに向かって言っているとわかって、イエスをどのようにして殺そうかと謀ったのです。つまり、神殿の境内に犠牲の動物が売られていることも、両替人がいることも、みな祭司長や律法学者など、イスラエルの宗教指導者たちが公認して行っていたわけですから、それに対してイエスが言われたことは、聞き捨てならなかったわけです。

2. すべての国の人の祈りの家
 イエスが12歳の時に、両親と共にエルサレムの過越しの祭りに来たときのことがルカによる福音書に記されています。その時12歳のイエスは、神殿のことを「自分の父の家」と呼んだことがありました(ルカ2章49節)。イエスはご自分が天の父なる神のもとから来たことをはっきりと認識しておられました。そして、エルサレム神殿においては、信仰によって神への祈りが献げられるべきなのに、このようにして商売が公然と行われていることに怒りを覚えられたのです。
 結局、当時の指導者たちにとっては、神殿、即ち神の家は、祈りの家ではなく、神を礼拝しに来た人たちからお金を奪い取ってしまう強盗のようになっている、と主イエスは厳しく指摘されました。それは本来神殿があるべき姿とは対極にあるものでした。そもそも祈りとは、先ず唯一の生きておられる真の神を信じる信仰がその土台にあります。そして自分は神の御手によって造られ命を与えられた小さき者に過ぎないことを知ることが続きます。それだけではなく、神の御心に適わない罪人であることを認めて、その罪の赦しを求め、神に近づいてくる者でなければ、真に神に祈りを献げることはできません。神殿はそのためにあるものです。
 また、宗教的行為を自他ともに認めて行っている、ということを見せびらかすための場所でもありません。傷のない動物を献げることも、規定通りにシェケル銀貨で献金することも、何のためにしているのかということが抜け落ちているのでは、真の礼拝にはなり得ないのです。主イエスは、そのような人々の心の奥深い所にあるものを見ておられました。
 さらに、イザヤのこの預言は、「すべての国の人の」とあるように、神は全世界の主であられ、全世界のあらゆる国々の人々が、神への祈りを献げる神殿に招かれていることを示しています。確かに旧約聖書では、イスラエル人以外の、異教の偶像を拝む人々に倣ってはならない、と厳しく命じています。そしてそのような異教徒は主の会衆に加わることはできない、とも言われていました。そういうところから、イスラエルは自分たちこそ神に特別に選ばれた民、他の罪深い民とは違う、という排他的な選民意識が強くなっていきました。それは主が、民に対して教育をされて、他の神々、偶像の神々に従ってはならないことを教え込むためでした。
 しかし神は、もともと全世界のあらゆる国々の民をはじめから滅ぼし尽くすことをお考えになっていたわけではありません。やがては主を知る知識が全世界に満ちることを望んでおられたのです。

3.今日の祈りの家
最後に、今日の私たちを顧みてみましょう。主の家、神の家とは、教会のことを指して言います。果たして私たちの教会は、祈りの家となっているでしょうか。祈りの家であるかどうかは、次のことにかかっています。
まず神の御名があがめられることを求めること。神の御国の完成を求めること。神の御心が成ることを祈り求めること。そして、すべては主からいただくのであるからへりくだって求めること。救い主イエス・キリストの十字架の贖いにより頼むこと。そしてあらゆる悪から遠ざかって救われることを求めること。それはつまり主の祈りを祈り、その祈りによって生きることです。
私たちは、誰よりも祈りをもってすべてのことをなされた主イエス・キリストを信じ、より頼みます。だとすれば、私たちも主イエスに倣って祈るものとさせていただきたいのです。何をするにも、祈りをもって始める。始めてからも、いつも立ち止まって祈る。そして、神の御心がなることを祈り求めるのです。主の祈りが、私たちの内に、真に実現してゆくように祈り求めましょう。

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