「真の喜びはどこに」2018.6.10
 詩編33編1~22節

 私たちの人生に、もし喜びがなかったら、一体どうでしょうか。何をしても喜びが感じられないとしたら、生きてゆくことに張り合いがなく、生きがいも感じられません。私たちは、大きな喜びがないとしても、日頃の生活の中で小さな喜びを見いだして、そこから少しかも知れないけれどもまた前向きになろうとする力を受けている、ということがあると思います。今日は、この旧約聖書の詩編33編によって、聖書が示す喜びについて、耳を傾けましょう。

1.喜びとは何か
 ここに集っておられる皆さんにも、それぞれ喜びだと感じることがあると思います。小さなことから大きなことまで、私たちはやはり常に喜びを必要としていると言えるのでしょう。私たちが単純に喜ぶことと言ったら何でしょうか。期待していたことがその通りになった時、私たちは喜びます。期待してはいなかったのに、ほしかったものが手に入った時、会いたかった人に会えた時、などいろいろでしょう。
 イエス・キリストは、私たちが喜ぶものについてある時二つのことを話されました。一つは、人がこの世に生まれ出たという喜び。もう一つは、会えなくなっていた人と再会する喜びです(ヨハネによる福音書16章21、22節)。こういうことも合わせて考えてみると、私たちが喜ぶことは、やはり人との関係において喜ぶことが大きいのかもしれません。何かをもらったという場合も、贈り物をくれた人の気持ちが嬉しくて喜ぶ、という面があります。
 聖書では、それ以外に食べ物のもたらす喜びについて語っています。今日の週報の囲み記事の横に挙げた、使徒言行録14章17節では、作物の実り、食物によって神が私たちの心を喜びで満たしてくださる、とありました。

2.聖書が示す喜び
では、喜びについて聖書が何を言っているか、今日の朗読箇所から学びたいと思います。旧約聖書に書かれているこの詩編は、今から3,000年ほども前のものです。それほど大昔のものですが、今日でもずっと読み継がれています。ということは、ここに記されていることが、いつの時代の人にも教えを与える普遍的なものがあるからです。どれほど大昔に書かれたものであっても、神が私たちに教えようとしておられる言葉は、どんなに時代が変わってもすたれることがありませんでした。今の21世紀の時代と、3,000年前の時代では、何もか科学や文明の発達の度合いは天地ほどに開きがあるでしょう。しかし、どんなに文明が発達しようとも、人間がその心の内に喜ぶことには、大きな違いはないのではないでしょうか。食事の喜び、人の誕生、人との楽しい語らい、何かに打ち込むこと、芸術など。
それを確認して、書かれていることを見てみます。ここには、主と呼ばれる神を信じてその神により頼み、讃美を歌っている人の姿が描かれています。そしてここに言われているように、琴を奏でて神への感謝を献げて讃美歌を歌おうとしていることがわかります。
ところで今日は金城学院高等学校の皆さんが来てくださって、午後にハープコンサートを開いてくださいます。それで、午前中のこの礼拝でもハープ演奏を入れていただきました。既に前奏と、1曲の讃美歌を伴奏していただきました。この聖書箇所で言われている琴は、2種類あります。2節の1行目にある「琴」は聖書に最も良く出て来るものです。手で抱えて持って演奏できるくらいの大きさのようで、共鳴箱と横木の間に弦を張って演奏するようです。2節の2行目にある「十弦の琴」は、おそらくエジプト起源のハープで、先ほどのものよりも大型で、現代のハープに似ている形が辞典に示されています。
これらの竪琴がどんな音色を奏でたのかはわかりませんが、いわゆるハープは、旧約聖書では、神をほめたたえるために良く用いられたことは確かです。そして、このような楽器を用いて美しい調べを奏で、そうして主である神に喜びの叫びをあげよ、と促しているのです。今日覚えていただきたいのは、ハープという楽器は、聖書の中では、神を讃美するために大変よく用いられた楽器だということです。ではなぜ今日教会の礼拝ではほとんど用いられないのか、という問いが出てきそうですが、オルガンの発達によって、壮大な調べを奏でることができるようになって、オルガンが良く用いられるようになったのでしょう。そういう意味では、私たちは今日、ハープの伴奏で讃美歌を歌うという実に貴重な体験をしているのかもしれません。いずれにしても、音楽そのものは私たちの心に喜びをもたらすものであるということも言えます。それを心に留めながら、神に対して美しい調べと共に喜びの歌、喜びの叫びをあげなさい、という勧めの根拠は何かを学びましょう。

3.神によって喜ぶこと
聖書にはいろいろな戒めや、勧め、こうしなさい、という教えがたくさんありますが、その中でも、喜びなさいという勧めがしばしばなされます。この詩編ももちろんそうですが、主によって喜びなさい、喜び歌いなさい、としきりに言うのです。もちろん、それは、神という方をそれなりに知っていて、信じている人々に言っていることではあります。神がどんな方であるか全くわからないのに、喜べと言われても無理かもしれません。
ですから、この詩編33編では、神という方がどんなに素晴らしい方なのかを4節以下で改めて言葉を尽くして歌い上げていくのです。「主の御言葉は正しく、御業は全て真実。主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている」(4、5節)。地は主の慈しみに満ちている、というのも最初に見た通り私たちにいろいろな食物をくださっていること。それだけではなく、世界中の国々をその手の下に治めておられます。そういう全地を支配する神がおられるから、この神のもとで喜び、美しい調べとともに神への讃美を歌え、と言っているのです。
そして、神がくださる喜びは、おいしい食べ物や、美しい調べ、といったものだけではなく、私たちの魂を喜ばせてくださるものです。私たちの魂が神によって受け止められていること。これを知る人こそ幸いです。このことは12節で語っています。「いかに幸いなことか 主を神とする国」。そしてこの神は「人の心をすべて造られた主」でもあり、また私たち人間の「業をことごとく見分けられる」お方です(15節)。そういう神を知って、自分の信じる神とする人は、その人生において真の喜びとは何かを知るようになります。
さて、では、ここで私たちがどんな時に喜ぶかを考えてみましょう。たとえば、ここに御馳走が並んでいるとして、五人の友達と一緒にいるけれども、①全部自分が力づくで食べてしまった。②自分はやせ我慢して食べないで、皆にあげた。③皆で分け合って楽しく食べた。さて、どれが一番喜びをもたらしたかと言えば、おそらく③の皆で分け合って楽しく食べた、だと多くの人が思うことでしょう。分け合う、ということは、それはいただいたもので、ありがたいものだから、自分だけで独占すべきではない、という考えに基づいています。それは神様という方を知るとよくわかるようになります。食べ物であれ、何であれ、私たちがありがたいと思うものは神様から来ています。神様が私たちに分け与えてくださっているのだ、という感謝の気持ちを持つことで、神様の恵みを喜ぶことが出来るようになるのです。全てのものを造られた神は、私たちにいろいろなものを分け与えてくださって喜びをもたらしてくださいました。だから私たちはその神様に向かって喜んで讃美の歌を献げるのです。
そして神は私たちの魂を不安や恐れや悲しみや、ついには襲い掛かってくる死から救うために救い主イエス・キリストを与えてくださいました。そうすることによって私たちに命を与え、喜びを与えてくださいました。イエス・キリストは、私たちに対して、「あなたがたには世で苦難がある、しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われました(ヨハネによる福音書16章33節)。この世には確かに悲惨なことが満ちています。先日も虐待によって死んでしまった幼い子がいました。シリアの内戦では、50万人もの人が亡くなっていると言われています。どちらにしても、この世の悲惨、人間の中にある恐ろしい罪が示されています。それは私たちのだれにも潜んでいるものだと聖書は言っています。それを取り除かなければ真の喜びはないと言ってもよいものです。その罪を取り除くのは神です。神がこの世に送られた救い主イエス・キリストです。この救い主が私たちに与えられた。これこそ、私たちにこの世で与えられた最大の喜びなのです。この詩編33編にはイエス・キリストという名は出てはきませんが、この詩編はやがて来るキリストによって命を得させていただける、ということを予め指し示しているのです。
このキリストが世に勝っておられます。世に勝っているとは、先ほど言ったように、この世に生きている限り私たちにもたらされる悲しみや恐れや不安や死、その原因となっている人の罪に勝っているということです。この救い主を知ること、信じてより頼むことに、私たちの真の喜びの中心があるのです。「真の喜びはどこに」。この問いかけに対する答えは、「神が遣わしてくださった救い主のもとにある」。その喜びをいただき、そこに留まりましょう。その喜びを私たちから奪い去る者はいないのです。

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